黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

読書の はな

2019年09月25日 15時04分20秒 | ファンタジー

 なんで秋が読書の季節なのかわからないが、はなも読書に疲れたらしく、だらだら寝ころがっている。
 はなが何を読んでいるかはさておき、私が今、乱読しているのは、先日買った「社会学史」(大澤真幸、講談社現代新書)、「ハングルの誕生」、そして先週買った、犬の小説ならぬ「ヒト、犬に会う」(島 泰三、講談社選書メチエ)。私は、この世の中に犬や猫が生存していなかったら、ヒトは絶対生きていけないとまじめに考えるタイプなので、こういうタイトルの本には目がない。
 この本によると、感情的なヒトは、論理的な精神の持ち主の犬に出会っていなければ、人になっていなかったという。では、どうなっていたか。私としては、無謀な闘いに明け暮れて、必ずや種が滅亡したと思う。
 筆者は、言語学や古生物学、心理学、文化人類学まで駆使して、そんな突拍子もない仮説の証明を試みる。ちなみに、人より冷静で明晰な判断力がある動物は犬だけではない。なかでも、とび抜けているのは猫だろう。
 ところで、「社会学史」は眠気を催す本だ。新書本で600ページ以上ある。斜め読みしているが、1週間かけてやっと160ページ付近のマルクスにたどり着いたところ。この本の後半のレヴィ・ストロース、デリダあたりまでの流れをなんとしても把握したい。途中で止めたら、社会学という茫漠とした学問が、いよいよ理解不能な分野になってしまいそうだ。今の段階では、社会学とは、自分のやっている学問の立ち位置を探求しているような、未開の学問という気がするのだが。(2019.9.25) 

 

 

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ロケットマン

2019年09月14日 16時20分56秒 | ファンタジー
 エルトン・ジョンの半生をたどった映画「ロケットマン」を8月の終わりころ観た。彼の音楽は、私の頭の中のジュークボックスにたくさん仕舞われていて、「ユア・ソング」(1970年リリース)などはよくかかる楽曲だ。なので、ほんとうはレコードやCDなんて必要ないのだが、彼の1973年にリリースされた2枚組アルバム「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」を40年もの間、持ち歩いている。でも、これは私が買ったのではない。弟のお気に入りだったんじゃないかと思う。20代前半のころ、夏休みに帰った実家で、私も繰り返し聞いた覚えがある。
 私はストーンズびいきで、ちょうどそのころ、彼らの2枚組の「エグザイル・オン・メインストリート」(72年リリース)のガシャガシャ駆け回るロックを聞いていたのだが、エルトン・ジョンを耳にしたとたん、その一風変わった繊細な音楽にたちまち引き込まれた。
 「ユア・ソング」は、この映画でも感動的な場面に流れる。彼は盟友バーニー・トーピンの歌詞を見ながら、ピアノに向かい即興で弾き語りを始める。まるでずっと昔から知っている歌を歌うように。
 ユア・ソングは、こんな感じの歌だという。
「この歌が、君の歌だってみんなに言ってほしい。シンプルな歌だけどこれで完成さ。イヤー忘れたよ、君の瞳がどんなだったか、ぼくにはよくあることだけど。でも君ほどすてきな瞳をした人に会ったことはないんだよ。君といる人生がどんなに素晴らしいか、ぼくが歌にしたことを気にしないでくれるかな」
 映画では、エルトン・ジョンの過酷な親子関係がかなり詳細に描かれる。子供のころから親を求める気持ちがことごとく打ち砕かれ、失望と幻滅に耐える日々を送った。ただ、幼いころ、母と祖母からピアノをプレゼントされたことが彼の才能を開花させるきっかけになったという。耳にした旋律をただちピアノで再現できたというのだから、神童モーツアルトのようだ。
 彼にとっての救いは、親身なばあちゃんが彼の才能を信じていたこと。子育てに不向きな親元にいても、周囲の助けがあれば子は育つ。このことは人の世界だけでなく、単独生活するクマやネコ科動物にもあるという。ネコの私が言うのだから間違いない。
 さらに、エルトンは自らのLGBTを告白している。そして様々な苦しみを背負い、自分を見失い薬に走るといった生活破綻者の無様な姿をありのままに見せる。その過酷な状況から、自らの意志と周囲の助けによって立ち上がり、再びピアノに向かおうとする姿はやはり感動的だ。存命の超有名人がここまでやるとはさすがだ。(2019.9.14)


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最近の本など

2019年09月10日 14時36分33秒 | ファンタジー
 5月から、読んだ本や入手した本のことを書いていない。
 この間、完読したのは私としては珍しく小説。イタリアの哲学、記号論学者で作家のウンベルト・エーコの最後の作「ヌメロゼロ(0号)」。覆い隠された時代の真実をあばこうとする偽出版社の話。ヨーロッパ人の深層にある想念とはどんなものかちょっと興味があって、ほかにも、レヴィ・ストロースの「仮面の道」に手を付けたり、SF作家のコニー・ウィリス「犬は勘定に入れません」に目を通してみたが、ウィリスものはどれも余計なおしゃべりと回り道が多すぎて年寄り向きではない。こんなふうに、あれもこれもと間口を広げたせいか頭の中がまとまらない。
 買った本は、「思いつきで世界は進む」(橋本治、ちくま新書)、「ヨオロッパの世紀末」(吉田健一、岩波文庫)、「社会学史」(大澤真幸、講談社現代新書)、「倭の五王」(河内春人、中公新書)、「ハングルの誕生」(野間秀樹、平凡社新書)など。ハングルの本はいつか読んでみたいと思っていた。最近の外交関係のもつれに刺激されてつい買ったのだが、この本はたいそうおもしろい。なにより漢字文化圏の人々が、長きにわたり、文字によって知性を研いてきた努力に感動する内容だ。関係政治家には、漢字とハングルの勉強会をぜひやってほしい。(2019.9.10)
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本屋のイメージ

2019年09月08日 18時01分48秒 | ファンタジー

 最近、家の周辺の本屋に足を踏み入れることがほとんどない。というのは、この辺りにはブック何とかという、どこにでもありそうな本ばかりの古本屋や、雑誌とか文房具程度を置く本屋しかないので、行く気持ちが起きない。もう少し足を延ばすと、昨年大々的にオープンした、雑貨店だかレストランだか判然としないタイプの本屋があるが、落ち着かないことこれに極まるといった感じ。この町で本屋巡りする楽しみを望むのは間違いだ。
 札幌に出たなら、私は紀伊国屋札幌本店の書棚を見ると気持ちがくつろぐ。専門分野の本を置くところはほかにもあるが、maruzenジュンク堂などはきっちり分野別に仕分けされていて堅苦しく感じる。私の本を置いてくれたからこう言っているわけではないが、その点、紀伊国屋は雑駁な雰囲気があって親しみやすい。開店当初のように、もう少し凝った本を置いてくれるともっと楽しいのだが。

 実は、私には紀伊国屋に対し特別な感情がある。数年前、会社勤めしていたころ、耐えがたき状況の職場からの帰り道、吸い込まれるように紀伊国屋に立ち寄ったものだ。明るい光が降り注ぐ店内の解放感はほんとうに格別だった。
 ところで、古本屋での忘れられない思い出は、甲骨文を勉強していたころ、京都の百万遍で、白川先生の「説文新義」(五典書院刊)全15冊別巻1をまとめ買いしたことだろう。1冊1,500円から2000円の本代をどうやって工面したのか今もってよくわからない。まさか踏み倒したのではないとは思うが。先生の膨大な著作は今、平凡社刊行の白川静全集(一冊7、8千円)に収められている。札幌の書店にもあるが、書棚の高いところに陳列されているので、もはや私の手には届かない。(2019.9.8)



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3654日目

2019年09月07日 12時54分47秒 | ファンタジー
無精していたら3654日目、切れの鈍い数字の日になってしまった。このブログにハクセキレイが登場したのは2009年9月5日なので、ブログ開設満10年の記念日から、今日は2日過ぎた日。すべての記事をとりあえず10p文字で印刷製本してみたら、B6版360ページの本2冊になった。10年分の本の中に、自分の人生がごっそり詰まっているといった感じがする。(2019.9.7)
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