「オレンジジュース・ララバイ」
ある種の言葉や歌、映像などの刺激を五官に受けたとき、私は、話の内容がわかる前に頭が痛くなったり、悲しくなる前に涙が溢れたり、自分の意志に関係なく、体が勝手に反応する経験を何度もしたことがある。先日、職場で缶入りのオレンジジュースの商標を見たときがまさにそうだった。ジュースの缶を手にしたまま、私の体内時計は明らかに3分くらい止まった。
子供の頃、チンパンジーが細身の瓶に入ったオレンジジュースを上手に飲むテレビコマーシャルを、映りの悪い白黒テレビで見た。そのジュースの名前「バヤリース」という言葉がもつ西洋のハイカラな響きを思い出すと、今でも特別の快感がなぜか私の脳を痺れさせる。そのジュースを飲んだのは随分年数が経ってからだったが、ジュースの味そのものの刺激には特別な感慨を持っていない。
その点、日本語の音感にはほとんど鈍感といったほうがいい。生まれてこの方、私の周りには聴きたくない日本語の方が若干多かったため、耳を塞ぐ習性が身についたからなのだろうか。冗談はさておき、母語というのは聞き慣れすぎてその響きに脳は敏感に反応しないのかもしれない。
「岩崎宏美」は私の年代のアイドル歌手であるが、彼女の若かりし頃の体験談は印象深かった。彼女のコンサートが、はっきり憶えていないがブラジル若しくはフランスで行われたとき、それほど広くない会場に、異国の地で厳しい現実と戦っている日本人たちが肩を押し合うようにひしめいていた。彼女の大ヒット曲「聖母(マドンナ)たちのララバイ」が始まり、歌が中盤にさしかかったころ、会場のあちこちからすすり泣きが聞こえ出し、何人もの聴衆が泣き崩れたという。彼女は、歌というものがこれほどまで人の心を揺さぶることに、驚きを超え、深い感動に包まれたという。
崩れ落ちた異国に住む戦士たちは、岩崎宏美の優美な歌声を間近で聴いたからなのか、それとも歌詞の内容に激しく心を動かされたのかはともかく、聴覚を通して入り込んだ彼女の歌によってウルウルと脳細胞が溶かされてしまったことは間違いない。日本人女性が歌う日本語の歌は、日本語圏以外の人たちにとっても、心を癒す特別の響きを持つという記事をその後何かで読んだ。
話は飛ぶが、最近のテレビ番組で、中国四川省茂県(もけん)の高地に住むチャン族の一集落の映像を見た。彼らは、外敵の侵入に対抗し辺境の山地に石造りの家を建てたのだが、その家に背の高い角張ったサイロ風の塔を併設し、敵兵が押しかけるとそこに籠城し、最上部の見張り台から矢を射かけたという。彼らこそがまさに、殷の甲骨文に「羌人(きょうじん)3人を川に流す。」などと記された羌の人々であった。彼らは生け贄を求め狩りをする殷人から逃れ、その地で三千年もの年月を生き延びていた。
私は強い衝撃を受けた。なぜなら、羌人という言葉を聴いた途端、20才代前半の2年間、昼夜分かたず甲骨文と格闘した熱い記憶が深い眠りから醒め、30年の時の壁を一気に突き抜けて、私の脳内に充満したからだった。
遊牧民だったはずの彼らが、あの高台の塔に落ち着き、現代まで住み続けた理由とは何だったのか、そこまでして長大な時間を過ごしてきたことにどんな意味があるのか、と考えるうちに、彼らのしぶとい精神力に対して苛立ちさえ覚えた。しかし、屈託のない彼らの表情からそんな悲壮感は少しもかいま見ることはできなかった。そう考えるのは私のマイナス思考に原因があるのであって、彼らには何の不満もないのだというのが正しい見方なのだろうか。
つけ足しを書くが、「羌」という羊と人との会意文字で表された人々は、羊とともに暮らし、羊を万物の中でもっとも大切な存在として祭った。甲骨文には多くの民族が表記されており、龍方(りゅうほう~龍という地名)に住み、龍人と呼ばれた人々もいた。彼らは龍とともに暮らし、龍を万物の中でもっとも大切な存在として祭った。龍の人々の消息は不明であるが、今でも中国の奥深い土地で、未知の動物の龍を操りながら潜んでいるのかもしれない。
話は戻るが、バヤリースオレンジが好きなチンパンジーの吹き替えは谷啓氏がやっていたと思うが、私がバヤリースを忘れられなくなったのは、決して彼の声のせいではないことを最後につけ加えておきたい。
(注)
会意文字とは、二つ以上の文字の字形と意味を組み合わせて新しい意味を持たせた文字をいう。羌とは、角の形で表わされた羊字に人の字を組み合わせて羌という民族を表した。あるいは、りっぱな羊の角を頭に飾る人の象形文字と考えられなくもない。
また、本文に掲げた龍であるが、蛇形の動物を表す竜字とはまったく異なる文字で、生贄の動物の解体された肉、骨、皮などを横棒に架けた字形をしており、文字の構造上、熊、鳥、鹿(熊や鹿字に横棒はないが、解体された動物の文字であることに変わりはない。)などと同種の文字である。このように、動物文字の多くは、実在するしないにかかわらず、象形に作られていない。
ということは、文字を作った人々は、動物の外見的な姿に興味があったのではなく、動物に宿る聖なる力を重視、あるいは畏怖し、人の生きる糧となった動物を丁重に祭る必要があると考えたのだろう。熊や鳥などの動物文字は、民族にとってもっとも大切な動物を供するそれぞれの祭祀を表徴したものであり、時代の推移や民族の興亡とともに、それらの祭祀の普遍化が起きる中で、聖なる動物、龍というイメージへの昇華があったのではないかと想像している。方位を司る四獣、四神などの動物神のイメージも同じ論理で成立したと考えられる。(H21.10了)
ある種の言葉や歌、映像などの刺激を五官に受けたとき、私は、話の内容がわかる前に頭が痛くなったり、悲しくなる前に涙が溢れたり、自分の意志に関係なく、体が勝手に反応する経験を何度もしたことがある。先日、職場で缶入りのオレンジジュースの商標を見たときがまさにそうだった。ジュースの缶を手にしたまま、私の体内時計は明らかに3分くらい止まった。
子供の頃、チンパンジーが細身の瓶に入ったオレンジジュースを上手に飲むテレビコマーシャルを、映りの悪い白黒テレビで見た。そのジュースの名前「バヤリース」という言葉がもつ西洋のハイカラな響きを思い出すと、今でも特別の快感がなぜか私の脳を痺れさせる。そのジュースを飲んだのは随分年数が経ってからだったが、ジュースの味そのものの刺激には特別な感慨を持っていない。
その点、日本語の音感にはほとんど鈍感といったほうがいい。生まれてこの方、私の周りには聴きたくない日本語の方が若干多かったため、耳を塞ぐ習性が身についたからなのだろうか。冗談はさておき、母語というのは聞き慣れすぎてその響きに脳は敏感に反応しないのかもしれない。
「岩崎宏美」は私の年代のアイドル歌手であるが、彼女の若かりし頃の体験談は印象深かった。彼女のコンサートが、はっきり憶えていないがブラジル若しくはフランスで行われたとき、それほど広くない会場に、異国の地で厳しい現実と戦っている日本人たちが肩を押し合うようにひしめいていた。彼女の大ヒット曲「聖母(マドンナ)たちのララバイ」が始まり、歌が中盤にさしかかったころ、会場のあちこちからすすり泣きが聞こえ出し、何人もの聴衆が泣き崩れたという。彼女は、歌というものがこれほどまで人の心を揺さぶることに、驚きを超え、深い感動に包まれたという。
崩れ落ちた異国に住む戦士たちは、岩崎宏美の優美な歌声を間近で聴いたからなのか、それとも歌詞の内容に激しく心を動かされたのかはともかく、聴覚を通して入り込んだ彼女の歌によってウルウルと脳細胞が溶かされてしまったことは間違いない。日本人女性が歌う日本語の歌は、日本語圏以外の人たちにとっても、心を癒す特別の響きを持つという記事をその後何かで読んだ。
話は飛ぶが、最近のテレビ番組で、中国四川省茂県(もけん)の高地に住むチャン族の一集落の映像を見た。彼らは、外敵の侵入に対抗し辺境の山地に石造りの家を建てたのだが、その家に背の高い角張ったサイロ風の塔を併設し、敵兵が押しかけるとそこに籠城し、最上部の見張り台から矢を射かけたという。彼らこそがまさに、殷の甲骨文に「羌人(きょうじん)3人を川に流す。」などと記された羌の人々であった。彼らは生け贄を求め狩りをする殷人から逃れ、その地で三千年もの年月を生き延びていた。
私は強い衝撃を受けた。なぜなら、羌人という言葉を聴いた途端、20才代前半の2年間、昼夜分かたず甲骨文と格闘した熱い記憶が深い眠りから醒め、30年の時の壁を一気に突き抜けて、私の脳内に充満したからだった。
遊牧民だったはずの彼らが、あの高台の塔に落ち着き、現代まで住み続けた理由とは何だったのか、そこまでして長大な時間を過ごしてきたことにどんな意味があるのか、と考えるうちに、彼らのしぶとい精神力に対して苛立ちさえ覚えた。しかし、屈託のない彼らの表情からそんな悲壮感は少しもかいま見ることはできなかった。そう考えるのは私のマイナス思考に原因があるのであって、彼らには何の不満もないのだというのが正しい見方なのだろうか。
つけ足しを書くが、「羌」という羊と人との会意文字で表された人々は、羊とともに暮らし、羊を万物の中でもっとも大切な存在として祭った。甲骨文には多くの民族が表記されており、龍方(りゅうほう~龍という地名)に住み、龍人と呼ばれた人々もいた。彼らは龍とともに暮らし、龍を万物の中でもっとも大切な存在として祭った。龍の人々の消息は不明であるが、今でも中国の奥深い土地で、未知の動物の龍を操りながら潜んでいるのかもしれない。
話は戻るが、バヤリースオレンジが好きなチンパンジーの吹き替えは谷啓氏がやっていたと思うが、私がバヤリースを忘れられなくなったのは、決して彼の声のせいではないことを最後につけ加えておきたい。
(注)
会意文字とは、二つ以上の文字の字形と意味を組み合わせて新しい意味を持たせた文字をいう。羌とは、角の形で表わされた羊字に人の字を組み合わせて羌という民族を表した。あるいは、りっぱな羊の角を頭に飾る人の象形文字と考えられなくもない。
また、本文に掲げた龍であるが、蛇形の動物を表す竜字とはまったく異なる文字で、生贄の動物の解体された肉、骨、皮などを横棒に架けた字形をしており、文字の構造上、熊、鳥、鹿(熊や鹿字に横棒はないが、解体された動物の文字であることに変わりはない。)などと同種の文字である。このように、動物文字の多くは、実在するしないにかかわらず、象形に作られていない。
ということは、文字を作った人々は、動物の外見的な姿に興味があったのではなく、動物に宿る聖なる力を重視、あるいは畏怖し、人の生きる糧となった動物を丁重に祭る必要があると考えたのだろう。熊や鳥などの動物文字は、民族にとってもっとも大切な動物を供するそれぞれの祭祀を表徴したものであり、時代の推移や民族の興亡とともに、それらの祭祀の普遍化が起きる中で、聖なる動物、龍というイメージへの昇華があったのではないかと想像している。方位を司る四獣、四神などの動物神のイメージも同じ論理で成立したと考えられる。(H21.10了)