黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

オレンジジュース・ララバイ

2009年10月26日 19時13分12秒 | 日記
「オレンジジュース・ララバイ」

 ある種の言葉や歌、映像などの刺激を五官に受けたとき、私は、話の内容がわかる前に頭が痛くなったり、悲しくなる前に涙が溢れたり、自分の意志に関係なく、体が勝手に反応する経験を何度もしたことがある。先日、職場で缶入りのオレンジジュースの商標を見たときがまさにそうだった。ジュースの缶を手にしたまま、私の体内時計は明らかに3分くらい止まった。
 子供の頃、チンパンジーが細身の瓶に入ったオレンジジュースを上手に飲むテレビコマーシャルを、映りの悪い白黒テレビで見た。そのジュースの名前「バヤリース」という言葉がもつ西洋のハイカラな響きを思い出すと、今でも特別の快感がなぜか私の脳を痺れさせる。そのジュースを飲んだのは随分年数が経ってからだったが、ジュースの味そのものの刺激には特別な感慨を持っていない。
 その点、日本語の音感にはほとんど鈍感といったほうがいい。生まれてこの方、私の周りには聴きたくない日本語の方が若干多かったため、耳を塞ぐ習性が身についたからなのだろうか。冗談はさておき、母語というのは聞き慣れすぎてその響きに脳は敏感に反応しないのかもしれない。
 「岩崎宏美」は私の年代のアイドル歌手であるが、彼女の若かりし頃の体験談は印象深かった。彼女のコンサートが、はっきり憶えていないがブラジル若しくはフランスで行われたとき、それほど広くない会場に、異国の地で厳しい現実と戦っている日本人たちが肩を押し合うようにひしめいていた。彼女の大ヒット曲「聖母(マドンナ)たちのララバイ」が始まり、歌が中盤にさしかかったころ、会場のあちこちからすすり泣きが聞こえ出し、何人もの聴衆が泣き崩れたという。彼女は、歌というものがこれほどまで人の心を揺さぶることに、驚きを超え、深い感動に包まれたという。
 崩れ落ちた異国に住む戦士たちは、岩崎宏美の優美な歌声を間近で聴いたからなのか、それとも歌詞の内容に激しく心を動かされたのかはともかく、聴覚を通して入り込んだ彼女の歌によってウルウルと脳細胞が溶かされてしまったことは間違いない。日本人女性が歌う日本語の歌は、日本語圏以外の人たちにとっても、心を癒す特別の響きを持つという記事をその後何かで読んだ。
 話は飛ぶが、最近のテレビ番組で、中国四川省茂県(もけん)の高地に住むチャン族の一集落の映像を見た。彼らは、外敵の侵入に対抗し辺境の山地に石造りの家を建てたのだが、その家に背の高い角張ったサイロ風の塔を併設し、敵兵が押しかけるとそこに籠城し、最上部の見張り台から矢を射かけたという。彼らこそがまさに、殷の甲骨文に「羌人(きょうじん)3人を川に流す。」などと記された羌の人々であった。彼らは生け贄を求め狩りをする殷人から逃れ、その地で三千年もの年月を生き延びていた。
 私は強い衝撃を受けた。なぜなら、羌人という言葉を聴いた途端、20才代前半の2年間、昼夜分かたず甲骨文と格闘した熱い記憶が深い眠りから醒め、30年の時の壁を一気に突き抜けて、私の脳内に充満したからだった。
 遊牧民だったはずの彼らが、あの高台の塔に落ち着き、現代まで住み続けた理由とは何だったのか、そこまでして長大な時間を過ごしてきたことにどんな意味があるのか、と考えるうちに、彼らのしぶとい精神力に対して苛立ちさえ覚えた。しかし、屈託のない彼らの表情からそんな悲壮感は少しもかいま見ることはできなかった。そう考えるのは私のマイナス思考に原因があるのであって、彼らには何の不満もないのだというのが正しい見方なのだろうか。
 つけ足しを書くが、「羌」という羊と人との会意文字で表された人々は、羊とともに暮らし、羊を万物の中でもっとも大切な存在として祭った。甲骨文には多くの民族が表記されており、龍方(りゅうほう~龍という地名)に住み、龍人と呼ばれた人々もいた。彼らは龍とともに暮らし、龍を万物の中でもっとも大切な存在として祭った。龍の人々の消息は不明であるが、今でも中国の奥深い土地で、未知の動物の龍を操りながら潜んでいるのかもしれない。
 話は戻るが、バヤリースオレンジが好きなチンパンジーの吹き替えは谷啓氏がやっていたと思うが、私がバヤリースを忘れられなくなったのは、決して彼の声のせいではないことを最後につけ加えておきたい。

(注)
 会意文字とは、二つ以上の文字の字形と意味を組み合わせて新しい意味を持たせた文字をいう。羌とは、角の形で表わされた羊字に人の字を組み合わせて羌という民族を表した。あるいは、りっぱな羊の角を頭に飾る人の象形文字と考えられなくもない。
 また、本文に掲げた龍であるが、蛇形の動物を表す竜字とはまったく異なる文字で、生贄の動物の解体された肉、骨、皮などを横棒に架けた字形をしており、文字の構造上、熊、鳥、鹿(熊や鹿字に横棒はないが、解体された動物の文字であることに変わりはない。)などと同種の文字である。このように、動物文字の多くは、実在するしないにかかわらず、象形に作られていない。
 ということは、文字を作った人々は、動物の外見的な姿に興味があったのではなく、動物に宿る聖なる力を重視、あるいは畏怖し、人の生きる糧となった動物を丁重に祭る必要があると考えたのだろう。熊や鳥などの動物文字は、民族にとってもっとも大切な動物を供するそれぞれの祭祀を表徴したものであり、時代の推移や民族の興亡とともに、それらの祭祀の普遍化が起きる中で、聖なる動物、龍というイメージへの昇華があったのではないかと想像している。方位を司る四獣、四神などの動物神のイメージも同じ論理で成立したと考えられる。(H21.10了)
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ジュリコの名はジェリコー

2009年10月19日 15時53分25秒 | 日記
「ジュリコの名はジェリコー」

 「ジュリコ」の本当の名前は「ジェリコー」という。
 ジェリコーとは18世紀末から19世紀始めにかけて活躍したフランス人画家テオドール・ジェリコーのことで、写実に徹し、後の印象派などにも影響を及ぼしたといわれる西洋絵画史上、重要な画家である。蛇足だが、「ジェリコ」と語尾を切ると、人類史上最も古く約9千年前に築かれた城壁都市の名前になる。難攻不落のジェリコの砦の言い伝えでよく知られた町であり、現代の地図にその位置を求めると、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区の地点に行き着く。
 この雑文で記述しようとしているのは、画家ジェリコーの名前をつけた犬の話であるが、家族は、名前の由来に関する知識が乏しかったため、その犬を常にジュリコと呼んだ。ジュリコは、ペットショップにいたアメリカンコッカースパニエルの純血種の雌で、そのころの稚内では見ることがない珍しい犬種だった。一目惚れした妻と彼女の妹は、二日間、高価な値札がついた子犬の許に通った。
 昭和51年、妻の実家にやって来たジュリコはあまりにも小さく弱々しかったので、家の中に数ヶ月置かれたのだが、飼い主が排泄のしつけ方に失敗したことや、夜中に人間が寝静まると、居間のゲージの中で鳴き続けたため、とうとう玄関先の犬小屋に住むことになった。昔から動物を飼っていた家だったので、何代か前からのお古の犬小屋があった。ジュリコは子犬のころそれほど吠えない犬だったというが、あるとき人間たちのいざこざを目の当たりにしてからは、外からやって来る人間に対し敵意を抱くようになった。家族には懐いたが、親しくない人間や犬猫に対しては、激しく吠え立てた。
 私が妻の実家を初めて訪れたのは、会社の同僚たちといっしょに稚内の南にあるサロベツ原野にドライブするため、妻を迎えに行ったときだった。家に近づいた私に対し、ジュリコは敵意をむき出しにして猛烈に吠え、飛びかかろうとまでした。危険を感じた私は、玄関から遠く離れて立ちすくんでいたことを今でも覚えている。
 私は、昭和52年4月、生まれて初めて稚内の地を踏んだ。25才まで京都市内の大学にいたが、何をしていいか将来設計が立てられないままある会社の試験に合格したため、勤務地の稚内にやってきた。そして同じ職場の同年輩の人間たちと遊びほうけていた。妻もその仲間の一人で、彼女の実家にときどき通うようになると、次第にジュリコから一目置かれるようになり、いつしか吠えられなくなった。半年ほど経つと、私の顔を見て尻尾を振って歓迎の気持ちを表してくれるようになった。序列はともかく家族の一員として認められてからは、よく散歩や公園に連れて行った。私が鎖を持つと飛び上がって喜んだ。車に乗せて公園に行くと、人間と同じように、ブランコに乗りたがり、滑り台やジャングルジムによじ登って遊んだ。
 全身の毛が柔らかくカールしていたため、毛に泥やゴミが絡みつくのだったが、それを取るときに誤って、この犬種に特徴的な長い耳の端をはさみで切ったことがあった。それ以降、はさみを見ると暴れ方があまりにもひどく手に負えなかったので、一度病院で麻酔して毛を切ってもらった。家に戻ってきたジュリコの身動きできない様子を見たとき、そんなことはすべきでなかったと後悔した。
 私たちが昭和54年に結婚した後、一人きりになった妻の母親が、娘の一人と同居したのはその年の秋ごろだったと思う。実家の土地と建物は隣家の人に買ってもらうことになったのだが、稚内在住の子供たちは皆アパート暮らしで、ジュリコを引き取る環境にある家族はいなかった。
 その当時、実家の近所に懇意にしていた家族がいた。母親と息子夫婦、二人のまだ小さな孫娘という家族構成で、動物好きのやさしい人たちだった。その家族は、実家の窮状を知り、ジュリコを飼ってくれることになった。犬小屋とともにジュリコをその家に連れて行くと、ジュリコは新しい家族に引き取られたことを理解しているかのように、彼らにすぐ慣れ親しんだ。私たちのアパートはそこから10キロメートルほど離れていたが、できる限りジュリコに会いに行くようにした。私たちに会ったときのジュリコはどれほどの喜びだっただろう。私たちの体に何度も飛びついて止めようとしなかった。
 その年の暮れ、大晦日が間近に迫った日のこと、突然その家から、ジュリコが死んだと電話があった。ジュリコは犬小屋の中で凍死していた。まだ、3歳の若さだった。外の犬小屋で冬を越すのは4度目であり、寒さが死因だとは思えなかった。胴に鎖が巻き付いていたのは、体に何らかの異変が起き、苦しがって転げ回ったことによってそうなったのかと思ったが、死因は不明だった。その家の人たちによると、ジュリコの様子は前日まで食欲があり特に変わったところがなく、夜中に声や物音などにもまったく気がつかなかったという。引き取って3ヶ月ほどで死んでしまったジュリコの亡骸の傍らで、彼らは言葉少なに悄然と立っていた。しかし、動転した私と妻は、彼らの気持ちを推し量り、それまでお世話になった礼を言う余裕もなく、ジュリコを家に連れ帰った。
 妻はジュリコの凍った体を抱きながら、何時間も泣いた。後日、死の1、2週間前にその家の人が撮った写真を見ると、ジュリコの顔には寂しそうな表情が浮かんでいた。そのころから体調が悪かったのだろうか。忙しさにかまけて、死ぬ前の数日間、会いに行ってなかった。ジュリコの3年間の生涯は幸せなものではなかったかもしれない。実家にやって来た時期は、父親の死後、残った借金のことで親戚を巻き込んだ騒動になっていた。その後の2年間、3人の娘たちが次々と結婚し実家を出た。一人残った母親までもが引っ越してしまい、自分が忘れられてしまうのではないかと随分心細く思ったことだろう。
 現在、妻と二人の妹たちは、それぞれの家庭で動物とともに暮らす生活を選んで20年になる。彼女たちは、今でもジュリコに対する自責の念を抱きながら、ジュリコにかけられなかった愛情を他の動物たちに捧げようとしていると思えてならない。(H21.10了)


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