「猫じゃ」を書くのに精力を使いすぎたためか、この一週間以上、文章が何も思い浮かばない。ひと言ふた言なら頭に浮かぶので、時間かけてなんとか言葉をつなぎ合わせている。
谷川俊太郎さんによれば、自身の言葉、いわゆる上っ面の言葉という意味だと思うが、それをはぎ取ってしまわないと、詩に使える本物の言葉はやって来ないのだという。彼のように、言葉によってこの世の事物すべてを表現しようとする方なら、言葉に絡んだ塵芥を徹底して洗い流すだけでなく砥石やヤスリに何度もかけて、研ぎすました言語の力というものが必要になるのだろう。
散文派の私としては、言葉の質にこだわることより、見た目の斬新さとか、落語ではないのに落ちたかどうかとか、文字の分量とかの方にこだわる。あんまり下品な汚れた言葉だけは慎重に排除する。つまり、鋭敏な言語感覚も文章感覚もない私は、不要な言葉を削っていくと、肝心な物は何も残らないのではといつも不安になってしまう。なので、ついつい書きすぎてしまう。こうして、私の世界は駄文によって埋め尽くされる。この世に起きる出来事と同じだ。
そうならないように、たとえば、差別だとか、見せしめだとか、力の誇示だとか、安全保障だとか、まじめなテーマを選ぼうとする。しかしそれらは内容が重すぎてぜんぜん私の手に負えない。行き詰まりを感じて、校正半ばで放り出した「ブタたちの陰謀」シリーズは、はたして完成するのだろうか。よしんば出来上がっても、時代をなめたような鈍重な文章をどなたが読むというのだ。
こんなふうにしていては、しまいに世の中に汚物を吐き出すクレーマーとかデマゴーグになってしまう。そんなことを心配する前に、この文章を終わらせた方が喜ばれるに決まっている。(2015.8.25)