(半紙半分)
このことばも禅語だったんですね。
ことばに出さなくても伝わる気持ち。
書では実際に書く「手習い」と、「目習い」(めならい)というものがあります。
師が目の前で書かれる姿から、筆に貯える墨の量、筆の運び、リズム、呼吸、
間合い、それらを黙して拝見する中で、理屈ではない心の部分を学ぶこと。
また、人の作品を鑑賞することも、目習いと言えます。
私の師は、毎回各人が今勉強している古典のお手本を目の前で書いて下さり、
同じ古典でも、それぞれの好みや個性に合わせて全く違う表情になり、
どれを見てもため息が出るほど魅力的でした。
他の教室に通ったことがないので定かではないけれど、目の前で書いて見せる
というのは、書の世界ではおそらく珍しいことだと思います。
でもそんな師のお蔭で、母いわく「あなたの書く姿は先生に似ている」。
もちろん師の域には足元にも及ばないけれど。。。
不思議なことに、そのリズムや呼吸の反復は、書の作品だけではなく、
思考や趣向までも、どこか師の跡を追うようになるものらしいです。
でも私はその反復の途中で、全身全霊「師の色」には染まらなかったけれど、
ありがたい事に私なりに、師の心を感じる部分は今もあります。
よく日本の文化は、察しの文化だなんて言いますが、その背景にはお互いの
理解と信頼関係があってこそなのかもしれませんね。
今の時代は直接的で、察するということばも死語になりつつあるようで、
なんとなく寂しい気もします。
それだけ、人と人との関係も薄くなったということなのでしょうか・・。
このことばも禅語だったんですね。
ことばに出さなくても伝わる気持ち。
書では実際に書く「手習い」と、「目習い」(めならい)というものがあります。
師が目の前で書かれる姿から、筆に貯える墨の量、筆の運び、リズム、呼吸、
間合い、それらを黙して拝見する中で、理屈ではない心の部分を学ぶこと。
また、人の作品を鑑賞することも、目習いと言えます。
私の師は、毎回各人が今勉強している古典のお手本を目の前で書いて下さり、
同じ古典でも、それぞれの好みや個性に合わせて全く違う表情になり、
どれを見てもため息が出るほど魅力的でした。
他の教室に通ったことがないので定かではないけれど、目の前で書いて見せる
というのは、書の世界ではおそらく珍しいことだと思います。
でもそんな師のお蔭で、母いわく「あなたの書く姿は先生に似ている」。
もちろん師の域には足元にも及ばないけれど。。。
不思議なことに、そのリズムや呼吸の反復は、書の作品だけではなく、
思考や趣向までも、どこか師の跡を追うようになるものらしいです。
でも私はその反復の途中で、全身全霊「師の色」には染まらなかったけれど、
ありがたい事に私なりに、師の心を感じる部分は今もあります。
よく日本の文化は、察しの文化だなんて言いますが、その背景にはお互いの
理解と信頼関係があってこそなのかもしれませんね。
今の時代は直接的で、察するということばも死語になりつつあるようで、
なんとなく寂しい気もします。
それだけ、人と人との関係も薄くなったということなのでしょうか・・。