心の免疫力~書とことばから

もっと暮らしに書やARTを~
雲のように水のように あっけらかんと自在に生きるヒントを
求めて~ by 沙於里

書の中の音楽 音楽の中の書

2007-09-10 | 前衛・抽象


私の場合、作品制作の時には音楽が欠かせない。
音楽からイメージするものを表現しているとも言える。

思えば子供の頃から、家には音楽がいつも流れていた。
凝り性の父がオープンリールに色んな音楽を録音して、一日中回していた。
小学校の頃の記憶では、MILES DAVIS、 JOHN COLTRANE 、SONNY ROLLINS
などのJAZZ、中学の頃はカラヤンの全盛だったので、クラシックばかり、
高校の頃は、母が好きだった金子由香利のシャンソン。
父はよくJAZZにのってリズムを取ったり踊ったりしていて、私も自然と体を動かしていた。

書に出会って表現を模索している中で、音楽にはかなわないっていつも思う。
芸術の中で音楽ほど普遍的なものはあるだろうか。
ことばや国、年齢、性別を越えて、音楽は人の魂に直接的に響くことができる。
どんな状況でも音楽は、人を救い励まし、愛や勇気、安らぎを分けてくれる。
何の固定概念もなく、瞬時にストレートに五感に響くのだ。

書は、文字(意味)という既成事実があるばかりに、五感に響く前に、
意味を考え感じてしまうから、自由な感性にブレーキをかけてしまう。
そしてブレーキをかけてしまった時点で、書は音楽(芸術)ではなくなってしまう。

音楽と書、その共通点は瞬発力、そしてリズム。
書は油絵のように何度も塗り重ねていく二次元の世界ではなく、
一端筆が動き始めたら重ねることも戻ることもできない。
音楽も音をひとたび出したら、あとには戻れない。
その緊張感が、逆に無の境地を導き、結果、自由な表現となればいいんだけれど。
五感に響く音楽から受けるイメージを、書の中に響かせることができたらなあ。

写真は、3×6尺(90cm×180cm)の作品の一部。
HERBIE HANCOCK(ハービーハンコック)の♪DIS IS DA DRUMという曲から生まれた作品。
←これまたBookmarkに、視聴サイト貼ったのでどうぞ~。
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マーラーの「大地の歌」を聴きながら

2007-09-09 | つれづれ
           
眠雲臥石(雲に眠り石に臥す)
石の上に横になりながら雲を眺め、悠々自適に過ごす様子。

書を始めて間もない頃、私の書の師が団長を務める中国旅行ツアーに、
母と一緒に参加したことがある。
確か十日間位の日程の中、思い出す限りでも天安門広場や万里の長城、
西安の法門寺、西湖、南京、などの観光地、そして骨董品街として有名な
瑠璃蔽(るりちゃん)や北京故宮博物院などを巡る、かなりな過密スケジュールだった。

早朝からバスでほぼ毎日が移動の日々で、しかも道路は舗装されていなかったり、
街中でも信号がなく、それぞれの車が警笛をずっ~と鳴らしながら暴走。
ランチにと配られた紙袋に入ったお饅頭は、バスの網棚に置いておいたら、
ポタポタと油が滴り、南京の公衆トイレは、石の壁に囲まれた中に、ただ穴が
6つ位開いただけのもので、現地の方々はなぜかお互い向き合って用を足していて。
年配の方、綺麗好きな方には、かなり過酷な旅だったようだ。

私はというと、当時書を始めて間もなったこと、それにみんなと争って書の文物を買う
ことにあまり興味がなかったので、皆さまが硯や筆、書物を探している間、
一人街に出て、市場や公園に出かけ、筆談で会話を楽しんだりしていた。

そして何よりこのツアーで思い出深いのは、世界遺産の黄山(安徽省)に登ったことだ。
いわゆる山水画に出てくるような、巨大な花岡岩の断崖絶壁が美しいところ。
年配の方々(母も)は、強力(ごうりき)と呼ばれる籠屋の籠に揺られ、私は徒歩で登山。
途中にあった天に向って聳え立つ「飛来石」では、まさに仙人の境地をしばし体感。

眠雲臥石。このことばは、まさにこの風景から生まれたことばだろうと思った。
そして、このことばには、マーラーの曲がよく似合う。

このことばを見るたびに、思い出す曲は、交響曲「大地の歌」~青春について。
雲に乗り天上から大地を眺めるような、のどかで清々しい歌入りの曲。


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壷中日月長(こちゅうじつげつながし)

2007-09-08 | 禅語・般若心経



この語には諸説あるけど、だいたいはこうだ。
中国の費長房というお役人が、仙人に誘われて壷の中に入った。
その中はまさに桃源郷。費長房は仙人に頼み込んで、多くの仙術を学ぶため、
その中に十日間滞在し、楽しく充実した時間を過ごした。
仙人から護符を頂き現世に戻ってくると、なんと十年が経っていた、というもの。

転じて、天地(壷中)は広く時間は悠久であり、自分の心次第で今を楽しむことが
できるというものだ。足るを知って道を楽しむべし~という意味。

楽しいと時間が経つのも早い。
最近は楽しくなくても(?)年を重ねるごとに、一年が早くて困ってしまうけど。

現代は派遣社員という働き方がある。
だいたいが短期か、長期でも約束されたものではなかったり、ボーナスも交通費もなく、
言ってみれば不安定な状況でもある。
まあ、それでも、もちろん働く側にもそれなりに色々とメリットはある。
たとえば、合わなければ次の職場を探せるとか・・。
でも、果たして、それはメリットなのか。

住めば都ということばもある。
人間関係も、長く付き合ってみないとわからないこともたくさんある。
合わないからやめる、を繰り返していると、だんだん合うものがわからなく
なってくるような気がする。自分がわからなくなってくるような気がする。

今ある壷中で、自分らしくいられる方法は必ずある。
あれこれ不満を見つける前に、自分の心と向き合ってみよう。
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木簡千字文

2007-09-07 | 書の話


千字文(せんじもん)は、中国で子供たちに漢字を教えるために用いられた、
1000の違う漢字が使われた長詩で、武帝が当時の文官に作らせた文章。
「天地玄黄 宇宙洪荒・・」と四文字熟語で続く。中には「夫唱婦随」の語もある。

今日、台風9号の影響は各地でかなり深刻のようだ。
多摩川も氾濫の危険、神奈川県松田市では橋が折れ、首都圏も直撃。
まさに宇宙洪荒、宇宙(自然)は広大無辺で際限が知れない。

ところで千字文は、王義之(おうぎし)の文字を模倣して書道の手本としたとされ、
その後、懐素(かいそ)、智永(ちえい)、趙子昴(ちょうすごう)、
文徴明(ぶんちょうめい)などの作品が有名。

木簡の千字文は珍しく、これはあちこちから集めて千字とした集字千字文。
私の師が所蔵する本を、許可を得てコピーさせて頂いて、勉強している。
一応釈文は: 我藝黍稷 税熟貢新 勸賞黜陟
意味は、我々は黍稷(きびやあわ)等の五穀を植え農事にいそしむ。
その穀物が熟したら一部を税とし一部を貢物とする、その成績によって賞したり、
勧め励ましたり、官を授けたり退けたりする。というもの。

集字であっても、木簡はどの字をみてもつい微笑んじゃう。
どこ吹く風ぞとばかりに、力まず飄々としているところがいい。
右側下から二番目の「税」という字の終筆の粘っこさ、それに対して次の「熟」
という字の、れっかの部分のチョンチョンチョンってところが、なんとも愛嬌がある。
臨書しているうちにだんだん興じて、私の「賞」の字は五画目が大きく腕を回している。

この木簡のような人に出会ったら、小さなことなんか気にしないで、
歌でも歌いながら歩き出したくなるだろうなあ。。

そんな人に会いたくて、日々臨書している。
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天地

2007-09-06 | 書の話


中国は孫楚の句。 
天地為我爈 天地は我が爈たり(天地は私たちにとっては全てを溶かす炉であるから)
萬物一何小 万物は何ぞ小なる(それに投げ込む万物は何と小さな物であることよ)

手漉きのざっくりとした厚口の和紙に、「天地」は金文で、続きは楷書で書いた。
額に入れるよりも、もっと土臭く素朴に見せたかったので、古道具屋で買った
背負子(しょいこ)に張り込んでみた。

金文(きんぶん)とは、中国の殷・周時代の青銅器の表面に刻まれた、あるいは
鋳込まれた文字のこと。デザイン的で絵画的でもある。
金文の前は、最古の漢字とされる甲骨文字。
亀の甲羅や牛や鹿の骨に彫られた絵文字のようなもので、簡素で抽象的。
ここからその後、石鼓文、隷書、木簡、行書、造像から楷書、草書と書の歴史は
続いていく。

書の世界も奥深い。
あまりにも遠すぎて、1日24時間、365日、毎日勉強しても届かないものばかり。
その道のりに時々途方に暮れるけど、書の表現方法、関わり方もいろいろある。

萬物一何小 そして、我一何小。
けれど、今自分なりにできることをやるしかない。
できないことを悔やんで諦めて何もしないより、できることを探して伝えていきたい。

今日の関東地方は台風9号の直撃を受け、今、外はものすごい風と雨。
こんな時、小さな虫や雀やのら猫たちは無事かしらん・・と只々、祈るばかり。
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書には音楽が流れている

2007-09-05 | 書の話


毎年春にギャラリーを借りて、書道教室の合同展覧会を開催している。
来年は早くも第二十回展。記念展とするべく皆、気合十分で、
早い人はもうすでに作品づくりの構想を始めている。

四年前からは、会期中の土日に、テーマを決めてギャラリートークも
行っていて、昨年は「木簡の魅力と楽しみ方」と題して、会員のKさんの歌との
コラボをやった。

Kさんは、一昨年体調を崩されて教室もお休みされていたのに、展覧会では
見事に復活、力強くスケールの大きい木簡臨書を出品。
その作品を見たとき、今ここに生きている喜びのような魂の波動を感じて、
生き生きとした音楽が聞こえてきた。

そうだ! Kさんの歌にのって木簡を即興で臨書したい! と思った。
Kさんは小学校の音楽の先生だったこともあり、シャンソンやクラシックの
声楽家でもある。書道教室でも自然と美しいソプラノで何か歌っておられる。
(変な書道教室でしょ?)

書風の違う木簡を、この木簡には♪サンタルチアで、これは♪春のうら~らの、
これはずいずいずっころばしで、と曲のイメージと合うものを二人で選んで、
それぞれリズムとタイミングの打ち合わせだけして、ほぼ即興。 
その意外性と遊び心のパフォーマンスに、会場の方々からの笑顔のお返しが
嬉しかった。

書には、音楽が流れている。それは書き手のリズムであり呼吸、思想。
そして「表現」は、必ずどこかでつながっているんだと思う。
書と音楽、書と茶道、書と花、書と陶芸、書と織物、書と生活、書と人間・・・

たったひとつの「書」を通して、いろんな世界を知ることができるわけだ。
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人生こそ芸術だ!

2007-09-04 | 書の話



中国甘粛省 敦煌 懸泉置という処で出土した木簡の節臨(一節を臨書)
「(效穀)西高議里 賈破虜隧(長按)」   (中国甘粛木簡選より)

臨書をする時にはまず、筆者はどんな人なのかとあれこれ想像してみる。

男性か女性か(大抵は男性だったと思うけど)、大柄か痩せ型か、
のんびり屋かせっかちか、声は大きいか小さいか、繊細か大雑把か・・とか。
そしてその人(文字)に話しかけたくなったら、書いてみる。
時にはその人に成りきって気持ちよく、時には、一見気が強そうだけど、
本当は寂しがり屋でしょ?・・・・とか、話しながら。

写真の木簡の筆者は割とまじめでやさしく、嘘はつかないタイプとお見受けした。
それなのに、私の臨書は少し斜に構えて、どこか開き直っている感じ。

絵画にしても本物そっくりの絵など、単なる騙し絵のようであまり魅力を感じない。
精巧な伝統の技が必要な伝統工芸の世界でさえ、そこに作者の想いがなければ、
ただの工芸品でしかない。

書の世界も同じ。
「お習字」は正しく書く、美しく書く、それでいい。
けれど「書は芸術だ」と言われるには、そこに思想がなければいけない。
あちこち真似っこだけに全神経を注ぎ、他を拒絶している中には芸術は生まれない。

定義を求めない、不定義を目指し、予測し得ないものを創り出すことが芸術だと思う。
そして一人一人のそれぞれの人生も、芸術なのだと思う。
そこには優劣もなければ、勝ち負けもない。
自分らしさだけが、意味を持つのだ。
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形臨と意臨

2007-09-03 | 書の話

書道教室では、行書、楷書、仮名などを母が、私は木簡、甲骨文、造像、
隷書、創作等を担当、基本の学習のほかに、それぞれが興味を持った古典を、
一人一人の個性を生かしながら、添削を中心に学習している。

あったかい字が好きな人、で~んとした字が好きな人、きちんとした字が好きな人、
個性はまさに十人十色。また年を重ねるごとに、人は変わらず益々自分が強くなる。
なので、同じ古典を学んでいても、お手本はその人の持ち味が出るように変えて
書いている。筆を変えたり、線の質、墨量、空間の使い方で、表現は無限だ。

臨書には、形臨(けいりん)と意臨(いりん)とがある。
形臨は、できるだけ作者の筆跡、筆意、空間を読み取り、形を真似る学習。
絵画で言うところのデッサン。
意臨は、筆者の気持ちを汲みつつ、自分なりの情緒を加えて表現する学習。
言ってみれば創作。

私はどうも形臨が苦手だ。
もちろん、まずは形臨が大事。そこを通ってから意臨へと向うべきだけど、
木簡を眺めていると、何か匂うのだ。音が聞こえるのだ。語りかけてくるのだ。
そうすると、うれしくなって踊り出したい気持ちのまま臨書するから、
とても形臨にはならない。

でも日々の学習には、まずは形臨。
長沙馬王堆医簡の一節の臨書をしてみた。文字は 「鼻汁 徐抱」
きちんとしながら、伸び伸びとしたところが好き。

教室で木簡を始める時に、最初に取り組む題材。
木簡は筆者によってさまざまな書風があるのも魅力の一つだけど、
これは比較的隷書に近い整った書風なので、初めての方にも書きやすい。

二玄社の中国法書選の「木簡・竹簡・帛書」p.38にあるので、
まずは書いてみてくださいね。
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臨書の魅力とは

2007-09-02 | 書の話


木片に書かれた文字は、何度も繰り返し書かれていることから習字簡と
呼ばれる手習いに使われていたもの。(写真)

右から 
オ: 再 再再伏地 再再再・・
カ: 史史 令史 史史 史史
キ: 以以以以以以以以以以以以以以・・
ク: 群群土土土元元 塞塞儇儇依斎斎力力疾疾
ケ: 若 若 若
                      (中国法書選 二玄社より)

紙がない時代でも、人間の「学びたい」という気持ちは同じだったわけだ。

今を生きる私と同じように、何度も何度も難しいなあ、楽しいなあと感じながら
練習していたのかと思うと、見ているだけでいとおしくなってくる。
書きたくて書きたくて、たまらなくなってくる。
何でもいい、湧き上がる思いを感じられたら、書を学ぶことも、毎日を生きることも
楽しくなるんだろうなあって思う。

誰かに評価されることを待つことよりも、自分が好きでたまらない、
そのことをやっているだけで満足できる何かを持っている人はしあわせ。
何の得にもならないことでもいい、なんでそんな無駄なことを?と言われても、
要は自分の信念に基づく、内なる自分との戦いであり、信頼関係であり、そして
それが自信につながると思う。

自信とは読んで字のごとく、自分を信じてあげること。
エゴではなく、自分を信じられるか否かは、自分自身にしかわからないこと。

太古の昔の人々の魂を感じつつ、毎日を同じように繰り返し生きる。
臨書(古典を学ぶこと)の魅力はそこにある。
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芸術とは

2007-09-01 | 書の話


木簡の書(居延木簡)

1901年、中国西域でイギリス国籍のハンガリー人オーレル・スタインが簡牘を、
その後スウェーデン人のスウェン・ヘディンが楼蘭で多数の残紙を、そして中国と
スウェーデン合同調査隊の一員だったフォルケ・ベリーマンは、漢代の居延県で
一万数千の木簡を掘り出した。これらは、居延漢牘、居延木簡とよばれた。
                         ~居延木簡選より~

中国の木簡は紀元前432年頃のもので、紙がない時代、荷札や軍事上の指令書、
支給品の台帳、書籍、日常の記録、習字用、葬儀用、医療の記録や健康体操の
解説書のようなものもあったそう。
また竹牘(ちくとく)と呼ばれる、竹を輪切りにして五面を面取りしたものに
亡くなった人が冥土へ行った時、冥土の門番に身分を証明するために書かれた
パスポートのようなものもあったとのこと。
なんだか、映画の霊験導師居士を思い出しちゃう。(古すぎ?)

・・と、歴史の話はとりあえずここまでにして。

私は書の古典の中で、この木簡が一番好き。
いわゆる名筆と呼ばれるものと違って、木簡はどれを取ってもどこの誰が
書いたのかもわからず、まさにその時その瞬間に生きた人間の生き様が、
喜び、悲しみ、怒りといった感情もそのまま表現されている。

ゆえに、それぞれが生き生きとしていて、自由奔放、スケールが大きく、
力強く、のびやかで単純、屈託がなく、飾り気もなく解放感に溢れている。

木簡のような人になりたい。
何度も臨書を重ねながら、太古の昔に生き生きと生きていた人達を想い、
語り合い、形や型にとらわれない瞬発の芸術を、探し当てたい。

芸術とは、特別な才能を持った人が特別なことをするのではなく、
日常の中にたくさんころがっているんだと思う。

人にできないことをやってみせるのが芸術ではなくて、
誰もが持っているのに気づかずにいる能力、感性を覚醒させる衝撃波を
送ることが、芸術だと思う。

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