エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「永久革命」としての民主主義教育

2014-08-02 12:31:31 | エリクソンの発達臨床心理

 


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2013-08-02 02:22:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンのような、実践科学をしてきた人で、これだけ精緻な理論と、困っている人々を実際に支援するこれだけ具体的な手立てを創造した人でも、これだけの誤解ややっかみに出くわしていたとは、驚きですね。

 今日は、エリクソンはそんな疑いに応えます。


 丸山眞男教授が言う「永久革命」としての「民主主義」。それを「永久革命」として進める最も有効な方法論は、教育です。金森俊朗さんがずっとされている、自分の気持ちを見つめて言葉にする(「感想ノート」という文書にする)こと、そして、その発表に対して、クラスの中で、率直に話し合う、そこでは、今まで気付かなかったことを発見したり、分からずにいたことを「なるほどね」って、納得したり、「あっ、そうだよね」と共感したりすることがある。それから、自分の意見と、今気付かされたいろんな視点(納得、共感、発見など)を組み合わせて、もう一度自分でまとめてみる。そうすると。最初の自分の意見よりも、まとめをやって自分の意見の方が、「私たち」の範囲が広がっている。そうやって、少数意見、立場の弱い人たちの意見を包み込んだ意見を自分の意見とすることで、仲間である「私たち」の範囲も広くなっていきます。

 丸山眞男教授は、「あらゆる国は民主化の過程にあるのであって、民主化が完了した国はない」と言いますね。北欧やオランダの実情を知れば、日本より500年は進んでいる感じがするけれども、別に500年後の日本を、今の北欧やオランダのようにするのじゃぁない。

 大事なのは、何よりも話し合いを大事にすること。しかし、日本では、自分の意見を言うことに慣れてない。子どもは、自分の意見を言うことにためらいを覚えても、むしろ日本の文化ではその方が当たり前。ですから、意見を言う場を、受容的にするべく、その場にいる大人はそのことに心を日々砕いている必要がありますよね。

 金森俊朗さんが、また別のNHKのコラムで、「教師が一人ひとりの声を豊かに聴くことに徹すること」の大事さを語るのも、子どもたちが、正直に自分の気持ち、自分の意見を言いやすくするためでしょう。それになのよりも大事なのは、「言葉だけの言葉」を使うのをやめて、自分の気持ちや自分の生きた物語(生活、体験)と結びついた言葉を意識して使うことでしょう。この≪感じ(気持・イメージ)‐話し言葉‐出来事(生きた物語・生活・体験)≫が結びつくところに心のまとまりがもたらされるからですね。

 日本の「永久革命」としての「民主主義」は、このように、話し合いと、≪感じ(気持・イメージ)‐話し言葉‐出来事(生きた物語・生活・体験)≫の結び付きを、何よりも大事にするところに展開する、と私は確信しています。

 

 

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ウソとゴマカシの極北 親愛なる友よ 第二弾

2014-08-02 10:57:24 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 欲がなさそうに見える母親が、子どもに対して強い敵意を抱いている、というのは、驚きですね。

 p57下から2行目から

 

 

 

 

 

 無欲という性質がことさらハッキリするのは、その他者に対する影響においてであり、とくに、私どもの文化いちばんよくあるパターンは、「無欲な」母親の影響が、その母親の子どもたちに現われます。母親からしてみたら、自分が無欲なおかげで、子どもたちは、愛されることと学ぶことを、愛することの代わりに経験するはずだと、信じたい。ところが、その母親が無欲である影響は、この母親の期待と正反対です。その子どもたちは、自分たちが大事にされていると信じている人が示すハッピーを示さないんです。その子どもたちは、不安で、緊張していた、お母さんに非難されたり、お母さんの期待に添えないんじゃないのかしらと心配です。子どもたちは、母親が人生に対して敵意を抱いていることに影響されるのか、普通です。子どもたちは、その敵意をハッキリ分かるわけではないけれども、結局は自分自身も、その人生に対する敵意が伝染してきます。要するに、無欲な母親の影響は、自己中の母親の影響とたいして変わらない、いや、実際は、むしろ、もっとひどい。なぜって、その母親が無欲を演じているために、子どもたちは母親を批判できないからなんですね。子どもたちには、母親をがっかりさせないという義理があるんですね。子どもたちは、徳のある仮面のもとで、人生を嫌悪することを、教わります。もしも、人が一度でもいいから、純粋に自分を大事にする気持ちのある母親の影響を学ぶことができれば、自分を大事にしている母親から大事にされることほど、慈しみ深く、悦びに満ちていて、しかも、ぬくもりのある経験を子どもに授けるのに役立つものはないと分かるのにね。

 

 

 

 

 

 無欲を演じていて、その実人生と子どもに敵意のある母親が「最悪」なんですね。見た目にもひどい親なら、子どもは非難できる。無欲を演じられたら、子どもは親を非難するチャンスさえ奪われる。無欲を演じるためには、それなりの知性と経済力が必要ですね。ですから、見た目はきれいにされ、別に相手にされないことはないかかわりがある母親です。この人は。ですが、子どもにとっては、「見捨てられ」の連続です。ウソとゴマカシの、ある意味極北です。

 ここは、国立大学大学院准教授、親愛なる友人にも味わってもらいたいところですね。

 

 

 

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≪私≫の光、≪私≫に対する意識の高さ

2014-08-02 05:54:49 | アイデンティティの根源

 

 眼の光を失っても、心の中に光があることを発見した時の悦び、どれほど飛上がらんばかりの悦びであったろうと思います。

 p330の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 しかし、このヌミノースの光がなくなったように見えるのは、このヌミノースの光が自分自身のためにだけ熱心に集中する場合です。それはまるで、一つの光がお互いに照らすように頼まれているかのようです。道理で、辞書にこのことは載っていない。私の眼の前に一冊の心理学辞典がありますが、それには≪私≫さえ載ってない。その代わりに、私の類語辞典には、まず、「一人称代名詞」とあり、次に、「スピリチュアルな人格」となって、その間のことにはまったく触れていません。

 

 

 

 

 

 ≪私≫って、実に不思議ですね。一番ハッキリしているようで、それでいて、掴み処がない。二律背反であるのは、それだけ臨床的、実存的だからです。でも辞書にさえ載ってない。当たり前すぎて、意識の対象になりにくいからですね。

 エリクソンは、第一に、父親を知らなかったこと、第2に、デンマーク語からドイツ語、ドイツ語から英語と言葉を換えたこと、第3に、ユダヤ教からキリスト教に変わったこと、第4に、ユダヤ人であるがゆえに、ナチスに追われたことなどから、≪私≫=自分を確かにすることが、他の人と比べられないくらい、大事になったからこそ、≪私≫に対する意識が非常に高かったのだ、と考えられます。

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