エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

目標・指針・目的、そして、ヴィジョン

2014-08-15 13:08:32 | エリクソンの発達臨床心理

 


2013-08-15 02:56:06 | エリクソンの発達臨床心理

 見通しには、非常に大きな力があることが分かりましたね。今日もその続き、そのまとめです。


 目標、と言えば、三浦雄一郎さんのエベレスト。三浦雄一郎さんのことを研究している老化予防の専門家は、老化予防に最も効果があるのは、筋トレでも、脳トレでもなくて、ハッキリとした目的、夢を持つことだと言います。

 しかし、目的、夢を持つことが良いのは、老人・高齢者だけではありません。エリクソンが言う発達危機を乗り越える時には、いつでも、この目的が必要です。もっと言えば、ヴィジョンです。ヴィジョンがないと、この発達危機にいつでも躓いちゃう。

 エリクソンは、そのヴィジョンを、≪人生をどう生きたらいいのかをハッキリさせるヴィジョン、the total vision of life≫と呼びます。それは結局、最深欲求と結びついたヴィジョンになりますね。

 「何のために生まれ、何をして生きるのか」ということに対して、ハッキリとしたヴィジョンを持っていること。

 アンパンマンの教えですね。

 

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神様のお名前 できた!

2014-08-15 10:32:02 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

              お月様、分かるかな?

 とうとうその日になりました。明日も、もう一度、その日にしたいと思います。

 p64の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 この変化の一番印象深い出来事は、神様がモーセの前に現れた、聖書の物語です。モーセが神様に「ユダヤの民は、神様が私を遣わしたとは信じないでしょう。でも、私がユダヤの民に神様の名前(偶像崇拝をする者は、どうしたら名無しの神様を理解するでしょうか?理解しませんね、なんとなれば、偶像の肝心要は、名前があることだからです)を言えば、それを信じます」と言うと、神様はモーセに歩み寄ります。神様はモーセにご自分の名前を教えます。それは、「私は、私が今なろうとしている者に、いまなりつつある者」です。

 

 

 

 

 とうとう、神様がご自分の名前を「告白」する場面になりましたね。これは旧約聖書の『出エジプト』第三章1節~15節に出てくるところです。新共同訳では「私はある。私はあるというものだ」と翻訳されています。でもこの翻訳では、かなり分かりにくいですね。

 新共同訳よりは、フロムの英語訳の方がはるかに分かりやすい。ここでは、becoming という言葉を使っています。つまり、「今まさになろうとしている存在に、今なりつつある者」ということで、目標、指針、目的を達成する瞬間を名前にしている感じですね。ですから、神様は常に成功でしょう。だって、いつでもどこでも、目標、指針、目的を今まさに遂げようとしているんですからね。

 ですから、イエスが十字架で最後に言った言葉、「テテレスタイ τετελεσται

」=「できた!」(ヨハネによる福音書第19章30節)に、神様の名前がピッタリだということも分かりますでしょ。

 

 

 

 

  こっちなら、お月様、分かりやすいでしょ。

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#風を感じて、#生きましょう

2014-08-15 05:45:45 | アイデンティティの根源

 

 私どもは、権力に対抗するためにも、隣と認め合う関係が必要なんですね。日本の集団は、個人を抹殺するメッセージに満ちていますから、個人を活かすメッセージがいつでも何度でも必要なんですね。

  The Galilean Sayings and the Sense of “I”. The Yale Review. April 1981.,p.335の下から6行目から。

 

 

 

 

 

 しかし、私どもがヤーウェの神にとうとう向き合わなくてはならないのが、ここです。ヤーウェの神は、守護神であり続けた方ですし、当時まだあり続けていたのです。ヤーウェの神は、最終的に民族が敗れても、倫理的に、しかも、宗教的に自分を確かにする道が必ずある、という、決してなくなることのない実感と、ある種の果てしなき道義的な使命が自分たちには必ずある、という、消し去ることができない実感を育み続けたいと願う人々の守護神であり続けたのでした。そういった永遠(いまここ)に通じる実感は、ユダヤの民が他の民族の中に四散するというまさにその事実によって、枯渇するどころか、力を得ていたんですね。

 

 

 

 

 

 一般論で申し上げれば、ここは、日本人にはきわめて理解しがたいところです。ほとんどの日本人は、加藤周一さんが明確に指摘しておられるような意味での≪超越≫を知らないからです。しかし、「知る」というと、なんか知的な作業のようにすぐに誤解するのは、近代哲学にスポイルされている現代人の欠点です。そうじゃぁ、全くない。

 近代哲学では否定されている、したがって、ふつうは真理とはみなされないパレーシア、人格的真理ですから、頭だけで、主知主義で理解できるものではありません。いわば、全身全霊で、命がけで体得するものなんですね。生きてみなければわからない真理なんですね。

 こういうと、何か難しい話のように聞こえます。いいえ、違いますよ。なぜなら、それは自転車に乗ることに似ているからです。自転車に乗ることに難しさを感じる人がいらっしゃらないではない。でもね、たいていは自転車に乗ることは、さほどの難しさはないのじゃないかしらね。人格的真理は、その、自転車に乗ることに極めて近い。

 ≪超越≫。それは、自分と所属集団を超えて、生きる指針をはっきり示してくれる存在なんですね。神様、仏性、科学的真理、人格的真理(神様も人格的真理に入れられるかもしれません)…。これらは、自分や所属集団をはるかに超える普遍性がありますでしょ。私どもができることがあるとすれば、それに素直に首を垂れることくらい。しかし、その時、ハッキリと生きる指針が与えられますよね。

 ですから、≪超越≫をハッキリ体得していたユダヤの民は、「倫理的に、しかも、宗教的に自分を確かにする道が必ずある、という、決してなくなることのない実感と、ある種の果てしなき道義的な使命が自分たちには必ずある、という、消し去ることができない実感」を見失うどころか、日々新鮮にされていたんですね。

 

 

 それはね、

 風を感じて生きること

 

 

 

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