エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

神様のお名前 神の真実

2014-08-16 13:46:41 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 エリクソンとフロムの境目がありません。

 p64下から9行目途中から。

 

 

 

 

 

「私は≪出来事≫になる、というのが私の名前です」。「私が出来事になる」という意味は、神様は固定していないし、人でも、「生き物」でもない、ということです。この文書の一番正しい翻訳があるとすれば、「私は名前がない」とユダヤの民に教えなさい、ということです。神の像を刻んではならないし、神の名をみだらにとなえてはならないし、結局は神の名を全然唱えてはならないのは、同じことを狙っているんですね。すなわち、神は1人の父親であり、1人の人間だとする考えは、止めなさい、ということです。これに続く神学の発展の中で、この考えは原理としてさらに発展して、人は神に対して、肯定的であってもその属性を言ってはならない、ということです。神について、神は賢いだとか、強いだとか、善良だとかいうことも、再び、神は一人の人であるというに等しいのです。私が口にできる一番正しいことは、否定的な属性について言うのではなくて、神は制限され「ない」だとか、分類でき「ない」だとか、不正では「ない」だとかは、仮定「しない」ことです。私は神がそうでないものを知れば知るほど、私は神をよく知ることができます。

 

 

 

 フロムは神の属性を言うな、いいます。しかし、私は敢えて申し上げます。神様は、言葉を出来事にする力があります。しかし、それだけではありません。「言ってること」と「やってること」を一致させる真実、誠実がある、ということです。

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エリクソンの叡智 : #歓びの人生 #苦難の神義論 #倫理的な生き方の根源

2014-08-16 10:42:11 | アイデンティティの根源

 

 ユダヤの民の歴史と,神様のお名前を通して,人間の本物の倫理生きる指針をエリクソンが明確に示しているところです。September 14, 2017 全面的に翻訳しなおしです。人生はうまくできていることを実感しつつ

 

 The Galilean saying and the sense of "I" 「ガリラヤのイエス・キリスト物語との感性」The Yale Review. April 1981から,p336冒頭から。

 

 

 

 

 倫理的に宗教的に自分が確かにされ,自分には神様から託された道徳的な使命がある,という日々続いていく≪私(たち)≫の感性が,ユダヤの民が他の民族の中に四散するというまさにその事実によって、枯渇するどころか、力を得たことによって一神教の特質、すなわち、イエスの教えに受け継がれた宗教的な遺産へと思い至ります。ここで私どもが考えなくちゃならないのは、倫理の力と,当時の日常生活での倫理の力の条件です。一点の疑問の余地もないことですが、一神教のおかげで,ユダヤの民は,(人間)力を得ました。というも、一神教のおかげで、ユダヤの民は、苦難さえも,ヤーウェの神のご計画,すなわち,ヤーウェの神の約束,になるはずの出来事ウソのない側面だ,と心から受け止めたからでしたね。。≪私≫の感性が大事だと申し上げる時、私どもは「私は≪いまここ≫に生きている私」という神様のお名前(出エジプト記 第3章14節)を引用してきました。リーフ・ボーマンは、「≪いまここ≫に生きている」(hayah)に宛がった言葉には、ヤーウェの神のお名前と関連付けられて使われるものですが、非常にイキイキ、ピチピチと働きかける性質がある,と記しています。実際に、「≪いまここ≫に生きている」という現在は、≪いまここ≫を生きていることとも、≪いまここ≫でそうなりつつある将来のこととも、働きかけ出来事にすることとも,話して声の言葉にすることとも,同じだ,という感じです。「神様が話しをすると、出来事になりました。神様が命じると、命じた通りに,出来事になりました」(詩編第33編9節)。ヤーウェの神が「≪いまここ≫に生きている」「ハッヤー (訳注:ヘブライ語で、「出来事になる」という意味)」ってことは、ユダヤの民が「≪いまここ≫に生きている」「ハッヤー」になる,ってことになりますね。「私の声に従いなさい。そうすれば、私はあなた方の神になります。あなた方は私の市民となります」(エレミヤ書第7章23節)。さらには、ヤーウェの神が「いつでもおられます」し、どこにでもおられます。「地の果てまで,全てを創造する創造主」(イザヤ書第40章28節)です。このように≪いまここ≫に生きている」実感は、実際に,≪いまここ≫に生きている」ってことが,様々なことを(訳注:「できた τετέλεσται テテレスタイ」と言えるほど)全うする時人類すべてを相手に互恵的に働きかけることになるんです。

 

 

 

 ≪私≫の感性,とは,自分が生きている際に,主体的な判断力の大元になっている,イメージ,感覚,直観力のことなんです。それは,なかなか言葉にしにくいものですが,「reasons 覚めた精神」になる大元です。そこには,≪いまここ≫に生きている実感に伴う,圧倒的なヌミノースが必ずあるものです。エリクソンは,≪私≫はスピリチュアルで,あまりにもヌミノースを実感するものだ,と繰り返し述べていますよ。それは,ヴァン・デ・コーク教授も同様で,彼は「神との出会いepiphany ひらめき」だと言っています。

 ≪私≫は,あまりにもヌミノースを感じるものですから,その畏敬の念から,「人間を上下2つに分けるウソ」のウソのヴィジョンに留まることはできなくなり,「人間皆兄弟」という誠に人間らしく,倫理的な本物のヴィジョン信頼するように,おのずからなりますから,実際の働きかけ,関係の始め方でも,人類すべてを相手にしているみたいにどんなに弱い立場の人一人に対するときも,大切にできるようになるわけですね。

 科学的真理ではなく,人格的真理の奥深さと広がりでしょ。

 サイコセラピーを深いレベル,最深欲求に通じるレベルでしていると,おのずから,神様からの不思議に満ちた,驚きの,深くて大きな歓びに,必ず出会えるもんですね。

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息吹の言葉

2014-08-16 05:48:46 | エリクソンの発達臨床心理

 

 神様は風、息吹

 ≪いまここ≫に流れる。

 肌身に沁みる恵みと悦び、

 ≪いまここ≫にあり

 

 見逃す者の愚かしさ

 信頼する者の無上の悦び

 

 深みからくる「自分の声」

 Find your voice!

 しかし、それはもう「自分」じゃぁない

 

 はじめに言葉があった

 言葉は神様と一緒だった。

 言葉にならないその≪感じ≫

 ≪感じ≫が言葉になるのは、神様が共に居てくださるから

 

 

 言葉になった≪感じ≫ほど

 私どもを活かしてれるものは、ない

 

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