エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

マイスター・エックハルトの神

2014-08-30 17:25:43 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人は否定的な側面しか、知ることができない?

 p71下から8行目途中から。

 

 

 

 

 

「人が、神とは何者かを知ることはできないけれども、神とは何者ではないのかはよくよく分かります。… このように満たされることはなく、こころは最高善を求める」。マイスター・エックハルにとって、「唯一の神は、否定するものを否定する。否認するものを否認する。…すべての被造物は、1つの無を含む。それが他であることを否定する。」さらには、神はマイスター・エックハルトにとっては、「絶対無」となります。それはちょうど、究極的な現実が、カバラにとっては「エン・ソフ、無限なもの」であるのと同じです。

 

 

 

 

 

 ここも難しいですね。無と言えば、日本で言えば、西田幾多郎でしょう。禅に近いのかもわかりませんね。西田の弟子の上田閑照氏が、エックハルトの概説本を出しているのも、禅との関係を伺わせます。

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静かな再生

2014-08-30 13:31:55 | アイデンティティの根源

 

 ユダヤ人であるエリクソンもフロムも、日常生活に宗教性を取り戻そうとしている感じです。その理由はまだ分かりません。いや、すでに明確なのかもしれません。

 p341の6行目から。

 

 

 

 

 

 さて、宗教生活の中で、目立ったサブグループに関して申し上げれば、そのグループは、自分たちのことを救い主の時が来るのを世話する番人だと自認していました。神殿生活と神殿内政治はサドカイ派の人々が牛耳っていましたし、一部の神殿官僚は、すでに記しましたように、軍事力はあっても、不安定な「ローマの平和」に手を貸していました。最大の宗教「政党」は、パリサイ派の人々で、庶民に比較的近い立場でしたが、伝統的な生き方を大事にしながら、体制に順応することに関心がありました。サドカイ派の人々も、パリサイ派の人々も、こういった理由から、2つのグループは、イエスの伝道活動に、直接的にも文化的にも関心がありました。彼らの「右翼」には、熱心党がいました。彼らは宗教的に覚醒した勢力によって、政治的変革があると信じていました。イエスの弟子の1人も熱心党でした。しかしながら、真の宗教的な再生は、田舎に引っこんで、古からの宗教が若返るのを静かに待つ宗教的な小グループが、譲歩することなしに深めることになります。すなわち、エッセネ派の人々とクムランの住人です。エッセネ派とクムランの住人に関しては、ここ数十年の間にたくさんのことが、死海文書から分かってきました。

 

 

 

 いろんなグループがユダヤの中にもあったんですね。政治と宗教を牛耳っているグループ、体制に反旗を翻しているグループ。しかし、宗教的再生を果たすのは、最も目立たない小さなグルーブ。エッセネ派とクムラン教団でした。

 宗教的再生は、≪私≫の再生に似て、非常に静かな、それでいて劇的な働きなんですね。

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一行三昧

2014-08-30 06:54:32 | エリクソンの発達臨床心理


アインシュタインの創造主 : 遊びとイメージ

2013-08-30 02:00:55 | エリクソンの発達臨床心理

  「夢のスクリーン」、いかがでしたでしょうか?夢も集団のヴィジョンの影響を受けやすいけれども、たほう、患者のヴィジョンは、集団のヴィジョンを超越する新しい人間を示すヴィジョンたりうることに、ハッとさせられる思いです。

  さて、今日からは、第三章 「『共に見る』ヴィジョン」 第3節 「アインシュタインのパズル」に入ります。


 仏教に「三昧」という言葉がありますね。サンスクリット語のSamādhiの音写、すなわち、音を漢字に当てはめた言葉だそうですね。

 サンスクリット語のSamādhiは、「集中する」ことを意味するようです。インドで行われていた瞑想で、精神集中が深まっている状態を示す言葉であるようです。仏教やヒンドゥー教、あるいは、ヨーガでも用いられる言葉でもあるようですね。

 その三昧を用いた言葉に、今日のタイトルでお示しした「一行三昧」があります。もともとの仏教的な意味は、「90日間、全身全霊で只管打坐、座禅に集中すること」だと言います。そして、「これは私がやっている『約束に基づいた遊び』セラピーとも共通するなぁ」と感じました。「約束に基づいた遊び」セラピーも90日してもらっているからです。したがって、「約束に基づいた遊び」セラピーは、仏教的でもある、ということですね。

 ところが、お母さんの中には、次の次くらいまで段取りが決まった状態で「絵本の読み聞かせ」をする場合があるんですね。それが「能率的」なことかもしれません。しかし、それは文字通り、心を失っている状態「忙」そのものです。

 こういう場合は、「○○さん、次の段取りに気持ちが言っていると、『眼の前の子どもさんよりも、次の段取りの方が大事だ』と子どもさんにメッセージすることになりますけれども、それでもいいんですか?」と問うことにしています。さらに、「全身全霊で、絵本の読み聞かせをすると、眼の前の子どもに対して、『大事です』とメッセージすることができます」とも伝えます。

 「絵本の読み聞かせ」セラピー、それは只管打座と同じような全身全霊の心的態度「一行三昧」が、何よりも大事ですね。

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