エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「勇気」が湧いてきた!

2014-08-22 12:00:48 | エリクソンの発達臨床心理


第2の見方 生き直し

2013-08-22 01:29:58 | エリクソンの発達臨床心理

 能動的再体験が、激しい怒りと恥も笑に変えてしまう、なんと素晴らしいことでしょうか!エリクソンの夢解きが続きます。


 

 「『勇気』が湧いてきた!」。

 勇気が湧いてくるときって、どういうときでしょうか。日常生活の中で、勇気が湧いてくるとき? 誰かが道端にごみを捨てた時に、「ごみを捨てないでください」と声に出すとき、体が不自由な人に、座席を譲るとき、いじめを見つけた時に、「止めたほうが良い」と声に出すとき…。いろいろあるかもしれませんね。

 でも、それは時々、勇気を鼓舞して出す場合も当然あるでしょうけれども、勇気を出し慣れている人もいれば、勇気は「出したのはいつだっけなぁ?」という出し慣れしていない人まで、いろいろじゃないかしらね。勇気を出すことも、習慣になっているか、勇気を出さないことが習慣になっているのか?いずれにしても、それは、日常習慣ですし、実存的でもありますね。

 この「勇気」は、実存的な態度でしょうね。ティーリッヒの有名な書 The Courage to BE 『生きる勇気』があるくらいですね。その中で、ティーリッヒは言います。「勇気とは、イキイキ、ピチピチ生きられないという事実があっても、それにもかかわらず、生かされていることを肯定することです」、「自分が受け入れられていることを、受け入れる勇気」だと(前掲書、p155)。自分がどう思うかが最初にあるのではなくて、人から受け止められているという事実を前提にして、その事実に基づいて、自分は「このままでもいいんだ」と感じることだといっても、大過ないだろうと思います。

 最初に引用した言葉は、実は、小学生のころにセラピーをしていた中学生に、セラピーが始まる前と、セラピーが終わった後(セラピーは、1年3ケ月続いて終結)で「何が変わったの?」と訊いて、出て来た応答です。この子は、話を口ごもるような子どもだったのに、今では、自分の方からいろいろ話をし、人と関わるまでに、劇的に成長した子どもです。それは、セラピーの中で、繰り返して自分の気持ちを出して、繰り返し受容される、という繰り返しの中から成長したんだとセラピストの私は思います。しかし、それを本人の視点から言った言葉が「『勇気』が湧いてきた!」というものでした。

 そして、この子は言います。「その『勇気』は自分の中から出て来た」とも。そう、どなたでも、この「勇気」を心の中に持っているものなんですね。

 あなたは、日ごろから、その「勇気」を出してます?

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アリストテレスの公理

2014-08-22 10:07:42 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 真理は、アリストテレス哲学に典型的に現れているように、何千年もの時間と言う試練を超えて、生き続けるだけの力があるんですね。それがすごい。

 p68の5行目から。

 

 

 

 

 

 アリストテレス論理学の公理は、非常に深く、私どもが考える習慣の中に吹き込まれていますから、この公理は「自然」と感じられますし、自明のことであると感じられもします。しかし、他方で、Aであって、同時に、Aでないものではない、という言葉は、ナンセンスに見えます(もちろう、この言葉は、ある時点で、あるテーマXのことですが、今はXのものや、後でXになるもののことではありませんし、Xのある側面に対して、1つの側面のことでもありません)。

 

 

 

 

 哲学論議なので、ちょっと難しそう。フロムも好きね、という感じでしょうか?アリストテレスの哲学が、形式論理を重んじていますから、ますます、難しく感じるのかもしれませんね

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≪私≫の中心と、徹底的な肯定

2014-08-22 05:25:35 | アイデンティティの根源

 

 

 ≪私≫の中心には、≪守り続ける約束≫がある。ですから、≪私≫は一人では決してできないこと、必ず2人の人のやり取りがあって、初めて≪私≫ができてきますよね。

 

 The Galilean Sayings and the Sense of “I”. The Yale Review. April 1981, p338の4行目から。

 

 

 

 

 

 このように、子どものころ、父親に縛られた良心を育てることについて、あれこれと言うこともできるでしょう。それは、家父長的で、一神教の場では、さらに強まるでしょう。しかしながら、この文脈で私どもが抱く関心は、過去と災害前の政治的時空を、ヤーウェの神がまとめあげる力を、ある程度ハッキリさせることです。これまで見てきましたように、ヤーウェの神は、ひとりびとりがイキイキ、ピチピチ生きることの中心です。それは、ヤーウェの神が宗教的な中心におられるのと同じです。「そのとき、様々な民族が、知るでしょう、私、主が、イスラエルを聖別することを。それはイスラエルの民のど真ん中に、私の聖所が、世々限りなくある時なんですね」(エゼキエル書第37章28節)。しかし、この意味するところは、すなわち、ヤーウェの神は良心の中心にましますということであって、それは、一連の礼拝に参加することの中で、自分が肯定され、生きる価値が認められたと感じることができるし、自分が選びもし、また選ばれもすることも感じることもできるし、さらには、ヤーウェの神が激怒している最中でさえ、「神の国の到来」を感じることができる、ということです。

 

 

 

 

 至福の時とはまさにこの瞬間のことでしょうね。そんな至福の瞬間が、≪私≫の中核にあるということは、覚えておくだけの価値があることでしょうね。なぜなら、生かされていることを徹底的に肯定されるからですね。ですから、私≫の中心には、徹底的な、生きることに対する肯定があることも覚えておきたい点ですね。

わっ

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