エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

手前の手打ち

2014-08-20 12:33:40 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 負けん気のつよぉーい、お母さ~ん! ほとほと困りものですね。でもその自覚がないから、ますます困りもの。少し感づくと、ますます負けん気が強くなって…。

 p67の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 神の真についてお話してきましたが、ハッキリさせておきたいのは、私が神学用語を使って考えているわけではないということですし、私にとっては、神の概念は単に歴史的に条件づけられた概念にすぎないということです。人はその歴史的に条件付けら桁神の概念を用いて、自分を≪超越≫する力を経験したり、ある時代の真理や一致を求めるたり、したことを表現します。しかし、私はこうも信じているのですが、それは、厳格な一神教の帰結と、スピリチュアルなものをリアルに感じることに対する無神論的関心とは、異なるものではありけれども、互いに争う必要もない、2つの見方だということです。

 

 

 

 

 

 無神論の人も、スピリチュアルなものを求めている、と言うのがここでのフロムの主張です。そりゃそうですよね。スピリチュアルな領域でしか、本来は自分の人生の意味は見いだせないのですからね。それは当然、最深欲求もバッチリ繋がっているわけですね。

 ところが、最深欲求は、その名が示す通り、心の一番奥にある願いなわけですね。最深欲求に至るまでは、自分の心を掘り下げなくちゃぁなりません。その作業を面倒に思う人がいても、少なくともおかしくない。

 しかし、それじゃぁ、最深欲求をごまかすことになっちゃいますよね。ここが、あらゆるウソとゴマカシの温床です。

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子どものころに、その創造主を覚えなさい

2014-08-20 05:29:45 | アイデンティティの根源

 

 「アーメン」という言葉には、計り知れない、人智を超えた深い意味がある。そのことを考えただけでも、不思議な感謝が溢れてきますよね。真理。それはそう言うものですね。科学的真理でさえも。人格的真理なら、なおさら。

 p337第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 もちろん、ここでは、「自分は悪い」とますます感じてしまうことは、自分が生かされていることを、痛いくらいに感じることにもなります。それに、創造とものを作ることが1つのやり取りになるように、一神教の父なる神を感じることは、育ちの中で実の父親を感じたことを繰り返すことにもなります。ここでそう申し上げながら、最も明らかなことは、額面通りに受け取らなくちゃぁ、いけませんよね。何も私は、このような一神教の父なる神に対する信頼は、赤ちゃんの頃に根っこがあるなどと申し上げているわけじゃぁ、ありません。と言うのも、額面通りに信じる人は、子どもの時期と言うものは、少しずつ発達すること以上に、子どもに、時機に叶って、創り主のことが分かる力と、神の絶対的な肯定を受け入れる心構えを授けるために、創られてきている、と考えていいという主張に、うまく応じることができるからです。実際に、子どものころに父親を感じて生きていれば、この宇宙の中で父なる神の霊がたしかにおられる、と深く信頼せずにいること(実際には、希望だけじゃなくって、や恐れもある)など、できませんよね。

 

 

 

 

 ここは日本人は分かりにくい、と思うかもしれませんね。でもね、日本人は、自然に対する畏敬が元来ありますでしょ? それは案外、父なる神を信じることに通じます。自分や組織を≪超越≫する点で、自然も、父なる神も、共通するからです。

 内村鑑三の詩に、「読むべきものは 聖書 / 学ぶべきものは 天然 / なすべきことは 労働」があります。山形県小国の山奥にある(今では良い道があるらしい)「基督教独立学園高校」で大事にしている言葉です。この天然、今の言葉て言えば自然に学ぶ、ということは、自然に対する畏敬があればこそですし、また、学ぶことで自然に対する畏敬がさらに深まるものでもありますね。労働も、聖書も同じですよね。

 子どものころに創り主を覚えなさい、と言うのは、旧約聖書の「コヘレトの言葉」第12章1節の聖句でしょう。ただ、コヘレトの言葉の方は、「子どものころ」よりやや後の「青春の日々にこそ」ですが。

 最近、自然「災害」がおおいでしょ。これは自然現象であることに違いはありませんね。それでもね、現代の日本人が、自分と自分の組織だけを、「神」であるかのように考えて行動する、その偶像崇拝の傲慢さに対する、一種の警告である、と受け止めることはできますよね。

 子どものころに、自分や組織を≪超越≫するものを感じ、畏敬の念を体験することは、とっても大事ですね。なぜなら、科学的真理だろうと、人格的真理だろうと、真理を学ぶ上では、なくてはならない態度だからです。「学者」と称する人にも、それが極端に欠けている人が、ごまんといますから、「そこんとこ、注意」ですね。

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