エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

権力の手先には、陽気で楽しく「良し」と言おうよ。

2014-08-08 13:58:15 | エリクソンの発達臨床心理


陽気で楽しいヴィジョン 約束という声の光

2013-08-08 01:30:33 | エリクソンの発達臨床心理

  <私>を育てることは<生きていく方向(オリエンテーション)>を内面化するとともに、<生きていく方向(オリエンテーション)>に従って、具体的に暮らすことでもあります。<生きていく方向(オリエンテーション)>は、一朝一夕の真似のできるものではありません。毎日毎日、奥さん(旦那さん)の声や上司・同僚の声やマスコミの声、それに、世間の声や、すぐに「○○はダメでしょ」「自分を出しちゃダメでしょ」と否定してくる心の声をかき分けて、自分自身の小さな声を聴き分けていかなくてはなりません。それは極めて孤独な(alone [1人]であり、lonely[寂しい]であると同時に、solitude[自分自身の声を聴き、対話するゆとり、自由]にもできる)作業です。それは日常生活のごく些細なこと、ごく些細な関わりを通して、自分自身の小さな声に従うことを繰り返す中で、<私>が育っていくのです。その中で、不思議なことですが、<生きていく方向(オリエンテーション)>も育っていきます。まさに、神は細部に宿りたもう、です。


 権力、と言うといかにも強そうですが、日本の権力の操り人形は、丸山眞男教授が指摘しておられるように、小心翼々たる人物です。つまり小物です。人間を「小物」呼ばわりするのは、片方で「大物」を想起していることのなるから、「人間を上下2つに分けるウソ」なことではないのかな? と疑われる方もいるかもしれません。

 私はハッキリNOと申し上げましょう。「小物」でも「大物」でも人間としての価値に変わりがないからです。どちらも、大事にしたい人たちですね。

 私がここで申し上げるのは、「小物」とはどんな人かと言えば、「みんな」のためと称して、自分の気持ちを恣意的に最優先する奴のことなんですね。日本の組織では、無能な「小物」が長のつくポジションにあることが非常に多いので、その「組織の判断」と称してはいても、実際には、その「小物」の身勝手である、その判断が、いじめと圧力の様相を帯びる場合があります。

 その時の対処法を私なりに考えてみました。それはエリクソンがいつだって教えてくれる方法です。すなわち、「陽気で楽しい」、playfulです。真面目に取り合っちゃダメなんですね。向きにならないこと。カール・バルトはいつも言っていたようですよ。「究極の一歩手前の真剣さで」ってね。それは、ゆとりと遊びです。

 ですから、「小物」が圧力をかけてくる時も、ゆとりの遊びを大事にして、陽気で楽しく道を見つけていけるんですね。良かったね。ですから、神様は創造のたびに「良し」と仰せなんですね。

 

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掛け値なしのご大切。親愛なる友よ!第3弾

2014-08-08 09:21:28 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 神様にも発達段階があるのかしらね?

 p60第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 母親中心の宗教から父親中心の宗教へと発達することについて、お話しましょうね。バッハオーフェンとモルガンの、19世紀半ばの、偉大で重大な発見によれば、この発見がほとんどの大学研究機関でさらされることになった反発にもかかわらず、父性的な宗教に進む宗教の母性的な側面が、少なくとも多くの文化の中にあることに間違いない、ということでした。母性的な側面において、最も尊いのは母親です。母親は神であり、母親は家族の中でも、社会の中でも、権威です。母性的な宗教の核心を理解するためには、母親が子を思う気持ちの核心について言われてきたことを思い出しさえすればいいのです。母親が子を思う気持ちは、掛け値なしですし、どんなものからでも守ってくれるし、全てを包み込んでくれます。母親が子を思う気持ちは、掛け値なしだからこそ、母親が子を思う気持ちは他者からコントロールされたり、捕まえられたりすることもありません。母親が子を思う気持ちがあれば、大事にされた人は恵みを感じます。それがなければ、迷子になった感じと全くの絶望を感じます。母親が子を思うのは、自分の子どもだからなのであって、子どもたちが「いい子」だからでも、従順だからでも、自分の願いや要求を満たしてくれるからでもありません。母親が子を思う気持ちは、対等な関係に基づいてるんですね。すべての人が対等なのは、全ての人は1人の母の子どもだからですし、母なる大地の子どもだからです。

 

 

 

 

 母親が神である、というのは、母親が子を思う気持ちに掛け値がないからでしょう。神の慈しみに掛け値がないのと同じです。

 日本の子どもたちは、厳しい掛け値、厳しい条件を出されることかあまりにも多いので、ここは日本のすべてのお母さんと、その近くにいるすべてのお父さんにプレゼントしたいですね。もちろん、親愛なる友! にもね。

 

 

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ヴィジョンの再生

2014-08-08 05:39:33 | アイデンティティの根源

 

 ディアスボラ、フロンティア、移民。歴史的に特別な事実が、心の時空を決める構えにもなる。ということは実に不思議な感じがしますよね。

 p333の1行目途中から。

 

 

 

 

 

 このように日常的に期待できるものにおける、根っこからの変革と、絶対的な核の弱みに対する全く新しい脅威が、個人が≪いまここ≫に生きることに、すなわち、心理社会的に自分を確かにする道にも、民族が自分を確かにする道にも、吸収されるようになるのは、その歩みがカメのごとくのろい、ということです。そう言った根っからの変革と脅威にために、世の中に対する全体的なイメージを、ハッキリと方向付け直すことが、まさに、求められていますし、あるいは、実際にそれを待つ以外にありません。この世の中に対する全体的なイメージは、工業技術が発展するという否定できない事実と、倫理的にどう折り合いをつけていくのかということに対する新たなモデルを創り出す力とに、基づくものなんですね。

 

 

 

 

 ここのエリクソンの記述も見事ですね。さすがはエリクソンですね。大きな変化と新たな脅威を前にして、世の中に対するイメージを根っこから変革することを迫られます。今の日本もそうでしょう。

 この時、日本人ならば、現実的に事実に基づくことはできる。しかし、倫理的にどう折り合いをつけていくのか、という新たなモデルを創り出す力は非常に脆い。倫理よりも利益が大事だからです。

 しかし、今の日本の、世紀末的、末期的な、重篤な状況を、私利私欲で、変革できる訳がありませんでしょ。エリクソンは、世の中に対するイメージを、倫理的にどのように折り合いをつけていくのか、という新しいモデルを作ることに結びつける。ここがさすがはエリクソンですよね。そう、私どもにこそ、新しいイメージを倫理的に折り合いをつけることが、是非とも必要です。

 それは一言にして申し上げれば、ヴィジョンの再生、ということに他なりません。

 

 

 

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