エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

道徳教育

2014-08-19 12:51:26 | エリクソンの発達臨床心理

 

2014年8月18日(月)朝日新聞「声」欄より


 

2013-08-19 02:57:04 | エリクソンの発達臨床心理

 

 夢の解き明かしの続きです。


 道徳教育。これは算数や国語を教えることとは全く違いますね。でも、教育とは何か? を考える上では、またとない教材でもあります。

 算数や国語で教える内容が、科学的真理だとすれば、道徳教育で課題になることは、人格的真理と呼ぶことができます。

 科学的真理だと、言葉である程度教えることができます。しかし、人格的真理は言葉だけでは教えることなどとてもできません。むしろ反発を食らいます。

 冒頭の写真は、その反発をハッキリ示す中学生の感想です。道徳教育が、大人もできないことを子どもにだけ押し付けるものになっているんですね。それは日頃の「教員―生徒」関係の反映でもある。すなわち、道徳教育の時だけ、「押し付け」をしているんじゃぁ、ない。算数や国語を教えている時も「押し付け」をやっているんだけれども、それはあまり目立たない。しかし、道徳教育ではそれが白日の下に照らされてしまいます。なぜなら、人格的真理は、何よりも「言っていること」と「やってること」の一致が求められますから。

 考えればすぐに分かります。「いじめは止めましょう」と言う人は、いじめをやっている張本人のことが非常に多い。自分との対話がないので、こんなバカが平気でできるんですね。自分が「言っていること」が「やっていること」とどれだけ一致しているのか? なんてことは、そういう人は一顧だにしないんですね。恐ろしいことですね。そういう人に「いじめは止めましょう」と言われたら、この中学生同様に、反発を感じますよね、どなたでもね。

 自己内対話が必要ですね。そんなバカをやらないためにはね。自己内対話、対等でフェアな対話が心の中でできるからこそ、眼の前の相手が、子どもでも、友達でも、パートナーでも、上司でも、内閣総理大臣でも、対等でフェアな対話ができるんですね。

 そうしたとき、その人は「人類皆兄弟」「みんな違って、みんないい」を、日常生活でやっていることになります。対話を大事にしていますよね。そうやって、私どもは、「永久革命」としての「民主主義」を深めていくこともできるんですね。

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一人ぼっちのお母さ~ん、第5弾

2014-08-19 10:02:29 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 子どもが示す出来事を通して、神は大人に語りかけられていることが非常に多いんですね。ですから、≪語りかける神≫は、子どもの出来事を通して、≪語りかける神≫なんですね。出来事=言葉、なのですね。

 p67はじめから。

 

 

 

 

 

 あらゆる一神教の体系においては、神学的ではなくて、神秘的な体系でさえ、スピリチュアルな領域には、リアルに感じさせるものがある、という前提があります。たとえば、スピリチュアルな領域まで超え出た人は、スピリチュアルな力に意味と実際の働きも認めますし、救いと心の再生を求めます。非神学的な体系では、スピリチュアルな領域に目覚めた人以外には、スピリチュアルな領域は全くありません。≪真の関係≫、分別、正義の領域が、イキイキ、ピチピチするのは、自分自身の中に、自分自身が発達する過程を通して、スピリチュアルな力を育てることができるからこそですし、育てることができている間だけなんですね。この視点に立てば、人が人生に意味を与えない限り、人生には意味は全くなくなりますよ。すなわち、人は他者を助けない限り、全くのひとりぼっちなんですね。

 

 

 

 

 一人ぼっちのお母さ~ん。大学の教員をしてても、子どもの前にしても、一人ぼっちのお母さ~ん。ここも是非読んでくださいね。

 子どもを前にする時、最も大事なことは、その子に負けてあげること。オマケをするんです。だけど、一人ぼっちのお母さん。いつでも勝たなきゃ、我慢ならないお母さん。愛娘の前でも、一人ぼっち。

 研修なんぞに行ってる場合じゃぁ、ありません! まず最初に「負ける」ことを学ぶことですよ~! 負けることこそがスピリチュアル。

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アーメン、≪話し言葉≫がいまここで≪出来事≫になります!

2014-08-19 05:10:43 | アイデンティティの根源

 

 「言っていること」と「やっていること」が一致していること。子どもの前では、最も大事なこと。

 昔は、大学にもそう言う人物がいましたね。丸山眞男教授、その恩師の南原繁、矢内原忠雄。政治思想史のわが恩師、藤原保信教授や、また、鴨武彦教授も、そんな真を感じる先生でした。最近でも、姜尚中さんに同様な真を感じますね。でもね、そういう人はいつの時代でも少数派なんでしょう。最近じゃぁ、大学の教員も、完全にサラリーマン。別に真理を探究してわけじゃない。残念ですね。そういう人は、「真理の前で首を垂れる」なんてことは、言葉も知らないんでしょうね。インチキ、いかさま、ですね。

 p337の3行目途中から。訳し残し。

 

 

 

 

 

このような永遠のやり取りにとって、救い主が必ず来て下さるという約束も、世界の終わりが来るという脅しも、自分が選ばれていて、しかも、イキイキと、意識的に、審判と救いを選んでいることを、確かにするものです。全ては封印されています。それは、祈りにおいて、礼拝において、「アーメン」、すなわち、「≪いまここ≫でそうなってます」、と唱えることに封印されています。

 

 

 

 

 クリスチャンの祈りの最後に、「アーメン」と言うのは、クリスチャンでなくっても、知っていますね。でもこの「アーメン」に、「≪いまここ≫でそうなっています」>「≪言ってること≫が、≪いまここ≫で、≪やること≫≪出来事≫になっています」という意味だと知っている、クリスチャンは、もしかしたら、少数派かもわかりません。形式的儀式として「アーメン」と唱える人が多い。しつこいくらい、一貫性がありますね。このくらいじゃないと、真の関係は保てないんですね。

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