2014年8月18日(月)朝日新聞「声」欄より
2013-08-19 02:57:04 | エリクソンの発達臨床心理
夢の解き明かしの続きです。
道徳教育。これは算数や国語を教えることとは全く違いますね。でも、教育とは何か? を考える上では、またとない教材でもあります。
算数や国語で教える内容が、科学的真理だとすれば、道徳教育で課題になることは、人格的真理と呼ぶことができます。
科学的真理だと、言葉である程度教えることができます。しかし、人格的真理は言葉だけでは教えることなどとてもできません。むしろ反発を食らいます。
冒頭の写真は、その反発をハッキリ示す中学生の感想です。道徳教育が、大人もできないことを子どもにだけ押し付けるものになっているんですね。それは日頃の「教員―生徒」関係の反映でもある。すなわち、道徳教育の時だけ、「押し付け」をしているんじゃぁ、ない。算数や国語を教えている時も「押し付け」をやっているんだけれども、それはあまり目立たない。しかし、道徳教育ではそれが白日の下に照らされてしまいます。なぜなら、人格的真理は、何よりも「言っていること」と「やってること」の一致が求められますから。
考えればすぐに分かります。「いじめは止めましょう」と言う人は、いじめをやっている張本人のことが非常に多い。自分との対話がないので、こんなバカが平気でできるんですね。自分が「言っていること」が「やっていること」とどれだけ一致しているのか? なんてことは、そういう人は一顧だにしないんですね。恐ろしいことですね。そういう人に「いじめは止めましょう」と言われたら、この中学生同様に、反発を感じますよね、どなたでもね。
自己内対話が必要ですね。そんなバカをやらないためにはね。自己内対話、対等でフェアな対話が心の中でできるからこそ、眼の前の相手が、子どもでも、友達でも、パートナーでも、上司でも、内閣総理大臣でも、対等でフェアな対話ができるんですね。
そうしたとき、その人は「人類皆兄弟」「みんな違って、みんないい」を、日常生活でやっていることになります。対話を大事にしていますよね。そうやって、私どもは、「永久革命」としての「民主主義」を深めていくこともできるんですね。