エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪いまここ≫と≪超越≫

2014-08-12 13:06:33 | エリクソンの発達臨床心理


「生きている不思議 死んでいく不思議」とこの世を超えるヴィジョン

2013-08-12 01:42:24 | エリクソンの発達臨床心理

 1つのテーマにも、そこにはいろいろなヴィジョンを孕み得ることが分かりました。ですから、ヴィジョンが投影された物事を鑑賞する者にも、それを読み取るためには、様々なヴィジョンの可能性に開かれていなければなりません。


 生きていること、死んでいくこと。そこのある問いに応えるのが、宗教の課題であり、哲学の課題です。あるいは、心理臨床の課題でもあります。

 その際に大事なのが、≪いまここ≫と超越。≪いまここ≫が大事なのは、生きているということは、第一に≪いまここ≫を生きることだからです。過去に囚われたり、未来が不安だと、≪いまここ≫を上手に生きられませんよね。

 じゃぁ、≪いまここ≫を生きればそれでいいのか? それだけで喜んで生きていけるのか? ここの答えは一通りではないのでしょうね。しかし、単に≪いまここ≫だけが大事だと、それは果てしない自己中心にもなってしまいます。それは、日本の現在主義・現世主義が、「旅の恥は掻き捨て」「勝てば官軍」と言う調子の、ウソとゴマカシに、まみれていることを見るだけで十分かもしれません。あるいは、「『上』の言うことだから仕方がない」、「明日は明日の風が吹く」とばかりの≪無責任の体系≫がもたらす、あまりにも非人間的状況、悲惨、残忍さは、ノモンハン事件や南京大虐殺だけではなくて、福島原発放射能垂れ流し継続事件のように、今現在も汚染が進んでいる状況に思いを致せば、おのずから明らかでしょう。そこには、個人や所属集団を超越する価値がないから、結局は「組織」が神となる偶像崇拝の、誠に残虐な結末です。

 ですから、私どもは≪超越≫、すなわち、個人や所属集団を超えた価値を内面化することが非常に大事になるわけですね。そうすることによってはじめて、個人と所属集団が、私利私欲を超えたコモン・センスを持つことができるからですし、他者の利益を自らの利益とすることができるからです。

 私どもは、そういう意味では、≪いまここ≫における≪超越≫を、ハッキリと意識しなくちゃぁ、なりませんよね。

 

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神様をどう見るかで、人の成熟度も決まる

2014-08-12 11:32:59 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 神様の真には、母性的な部分もあれば、父性的な部分もあるといいます。どちらの要素が大きいかによって、神様の真も違ってきます。

 今日はp63の第2パラグラフ。短い段落。

 

 

 

 

 

 神の真の母性的な側面と父性的な側面のこの違いは、しかしながら、この神の真の性質を決める唯一の要素なんですね。他の要素は、これから先、ひとりびとりが、どれだけ熟達しているのかという程度問題です。それは、自分が神様をどう考えるのか、あるいはまた、自分は神様の真をどう考えるのか、ということで熟達しているのかどうか、ということですね。

 

 

 

 

 

 エリクソンとフロムがシンクロしてくるのですが、神様をどう考えるのか、神様の真をどう考えるのか、という課題にとって、神の名前はとっても大事なんですね。3日後、フロムがその部分に入ります。エリクソンは4日後です。

 先取りして申し上げれば、神様は現在進行形です。つまり、固定していない。こだわっていない。とっても柔軟です。自由です。寛容です。熟達するほどに、その人自身も、自由で、寛容になるものですね。それでいて芯が一本通っている、そんな感じでしょうか。

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エクソダス:取引を止めて、自由(自分自身)になる

2014-08-12 06:19:49 | アイデンティティの根源

 

 このエリクソンの件を読みますと、日本にはどんな取引があるのだろうと思います。いろんな取引がありそうですね。この場合、取引とは、自分の魂を売り渡すことなんですね。

 日本で一番の取引はコンフォーミズム、同調主義に伴う取引です。自分の頭でものを考えない代わりに、すなわち、自分の魂を売り渡す代わりに、一定の収入、一定の利益を得る取引です。権力に最も好都合な取引です。権力批判が使命のはずのジャーナリストでさえ、こういった類が少なくない。

 先日の丸山眞男教授の番組。丸山眞男教授は「デモクラシーの精神的構造 まづ人間一人一人が、独立の人間になること」、「他人の作った型に入り込むのではなく、自分で自分の型を作っていくこと」、「間違っていると思うことには、まっすぐにノーということ」と述べておられました。永久革命としての民主主義には、他者感覚とパレーシアが是非とも必要です。

 p334、第2パラグラフ。

 

 

 

 

 しかし、当時、まだ「」に入れて強調していない、別の事情もいくつかあります。パレスチナすべては、千年もの間そうだったように、争いを止めない諸帝国間の「緩衝地帯」であり、大国のための地理的「回廊」でした。その大国とは、シリアであり、エジプトであり、ペルシャです。こういった大国は、お互いに攻撃する隙を探しています。このように、まさにこの地の利が、小国ユダヤを時には非常に重要にもしますし、また、ずっと弱い立場にもしましたが、それは、歴史上のいろんな重要な事件が、これを証明しています。1500年前、ユダヤの民の大部分が、エジプトに暮らしていました。エジプトから、ヤーウェの神とモーセのおかげで、ユダヤの民は故郷に戻って来れたのでした。あの偉大な「エクソダス、出エジプト」です。それでさらに、2000年前には、偉大な王様たちや預言者たちがいました。また、理解しがたい中断、すなわち、(紀元前8世紀~6世紀には)アッシリアやバビロンの「難民」となったり、「捕囚」となったりすることもありました。また、次から次へと、ペルシャ、ギリシャ諸帝国と、その王国を継承した者たちによって「占領」されたこともありました。時には、一番考えられないことも起きてしまいます。それは、神殿の至聖所に異邦人の支配者や将軍が土足で入り込むことでした。至聖所は、年に一回、贖罪の日に、代々受け継がれている、最高位の聖職者だけが入るべき場でした。それは、ヤーウェの神に民族が献身することを告白するためでした。しかし、こういったことが忘れられずにいることは、稀でした。

 

 

 

 

 ユダヤには、いろんな地政学的な意味があったようですね。それが「」付きであらわされたのでした。一つ一つが大事なんでしょう。

 中でも大事なのが、「エクソダス、出エジプト」です。でもこれは、大昔の話ではないから、大事なんですね。それは、自分の魂を売り渡す取引を止める、という意味であり、自由を獲得する戦い、自分自身になるための戦いだからこそ、大事なんですね。

 

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