エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

一元論で生きましょう

2014-08-29 12:06:01 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 矛盾律の一元論、実は「人間皆兄弟」、「みんな違ってねみんないい」にも繋がります。

 p71の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 矛盾律には、神の概念に関する意味があります。神が究極的な現実を示す限り、そして、人の心が否定の中で現実を受け止めている限りは、神様のことを肯定的に申し上げることはありません。ベーダーンタ学派の中には、全知全能の神という考えが、無知の究極的な形であるとみなされてきました。ここで私どもが気付かされるのは、この二つの無名性の関係です。この二つと言うのは、モーセに姿を示した神様に、お名前がなかったことと、マイスター・エックハルトの言う「絶対的無」です。人が知りうるのは、否定性だけですから、究極的な現実の肯定的部分を知ることはできません。

 

 

 

 

 途中ですが、今日はここまで。

 人は否定的側面しか知ることができないのは、不思議ですね。どうしたら、肯定的な側面を知ることができるのでしようか?

 

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≪私≫は、大事な母なる≪他者≫が繰り返し継続的に世話してくれるから生まれるのです。第六弾 

2014-08-29 11:04:27 | アイデンティティの根源

 

 もうすでにお判りでしょうね。ここでもエリクソンとフロムはシンクロナイズドしているんですね。エリクソンはが「日常生活の中の礼拝」を大事にしますよね。それは≪私≫の発達に不可欠ですからね。かたや、フロムも日常生活と宗教生活が不可分に結びついています。2人はなぜこうまで、日常生活に宗教性を取り戻そうとするのでしょうか?

 p340下から11行目途中から。

 

 

 

 

 

 しかし、キリストでさえ、この時点では、ユダヤの日常生活にある「現象」には触れていません。その「現象」とは、≪神様のように、手応えのある生き方≫という支配的な男らしさを信条として強調することをよしとしないし、補いもしません。いかにして、「ユダヤの母」が、毎日の暮らしで、毎週の暮らしで、パレスチナで、民族四散を通して、合点のいく、非常に現実的な女神としての役割を果たし続けたか、それをハッキリとさせるには、詳細な文化史が必要でしょう。その詳細な文化史は、旧約聖書に出てくる、いくつかの特別な章を、基盤にするものでしょうけれども、それはユダヤの歴史に中で、一番一貫している傾向を1つを示すものでもあるでしょう。キリスト教神学においては、キリストの受難と対になること、すなわち、キリストの誕生に栄光があります。私どもの文脈では、母なるものの特別な性質は、バランスの取れた歴史解釈にとっては、他に選択肢のないものです。と申しますのも、≪私≫という感じのまさに根源は、赤ちゃんが、大事な母なる≪他者≫とのやり取りに源があるからですし、この母なる≪他者≫から繰り返し、継続的に世話をされ続けるものなのだからですね。

 

 

 

 

 

 ここも、実に大事な部分です。≪私≫は一人では生まれない。≪私≫が生まれるのは、大事な母なる≪他者≫がやり取りとし続けてくれるからですし、この大事な母なる≪他者≫が繰り返し、継続的に世話を焼いてくれるからなのですね。

 そう言う日々の具体的なやり取りが何よりも必要なんですよね。友愛は母よ!

 

 

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≪全身全霊の約束≫

2014-08-29 07:41:54 | エリクソンの発達臨床心理

 


十分に分析された人間?

2013-08-29 03:34:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 患者は、人類全体がいっそう自由に、いっそう人間らしい暮らしを実現するために、そういったヴィジョンに私どもを誘うために、身代わりに苦難を担当してくださっている、という視点は重要ではないでしょうか?


 

 「絵本の読み聞かせ」セラピー。私は良く使う方法なんですね。しかも、これは外れたことがない方法です。

 「絵本の読み聞かせ」セラピーは、「約束に基づいた遊び」セラピーの一つです。「約束に基づいた遊び」セラピーも、外れたことがないセラピーです。

 なぜ、「約束に基づいた遊び」セラピーに外れがないのでしょうか? 心理療法は、エリクソンがそうであるように、空前絶後の自分、すなわち、≪私≫を自ら育てる過程です。

 じゃぁ、その≪私≫はどのように発達するのか?

 それは、エリクソンのライフ・サイクル・モデルをご参照してください、ということになるのかもしれませんが、私なりにそれをまとめておきたいと思います。

 ≪私≫の核心には、必ず≪全身全霊の約束≫がある、ということです。≪全身全霊の約束≫は、全身全霊だからこそ、決して破られることのない約束です。考えてみていただきたいのですが、約束を誠心誠意守っている相手は、心から信頼できますよね。あるいは、自分が約束を誠心誠意守っていれば、先様は自分を信頼してくださることでしょう。そして、赤ちゃんの時の発達危機は、その「信頼」(根源的信頼感)をめぐるものでしたね。

 そして、①イメージ、②話し言葉、③出来事の三点セットの組み合わせ、結びつき。

 ≪全身全霊の約束≫は、この三点セットを細心の注意を払って、大胆に結び付けるものですね。イメージをできる限り誠実に話し言葉にし、いったん話し言葉にした以上は、「言ってること」と「遣ってること」を一致させようとするのです。そして、毎日の生活が、その≪全身全霊の約束≫を守り合うことが、エリクソンが言う「日常生活の礼拝(the ritualization of daily life)」になるのですね。

 ですから、≪私≫は、「神が死んだ」現代でも、神様が私どもに下さるような約束、すなわち、≪全身全霊の約束≫に、徹頭徹尾、貫かれているんです。それは、修道院か、お寺の修行のようですが、今という時代は、この≪全身全霊の約束≫はを、特定の宗教施設の中で行うのではなくって、自宅や職場やご近所でやるのですね。

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