エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

道 アイデンティティ

2014-08-26 14:40:46 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 無知の知こそ、あらゆる賢さの基です。

 p69下から2行目途中から。

 

 

 

 

最高神は、名づけることができない、というのが、老子の思想の結論です。究極的な現実は、究極的な唯一神は、言葉でも思想でもとらえることができません。老子曰く「歩くことができる道は、永遠に続く、変わることなき道。名づけることができる名前は、永遠に続くこともなければ、変わるずにいることもない名前」と。あるいは、別の言い方ですと、「視れども、見えず。私どもはこれを、『夷』と名付ける。聴けども、聞こえず。私どもはこれを『希』と名付ける。掴めど、攫めず。私どもはこれを『微』と名付ける。この3つの性質は、記述することなどできない。この3つを一つになる」と。さらに同じ考えには、さらに別の言い方があります。「(道を)知るものは、(道を)語らず。しかし、その道を話す(ことができる)者は、その道を知らず」と。

 

 

 

 

 老子の言葉も難しい。でも、神様の名前が隠されているのは、ユダヤ・キリスト今日と同じ。ハァハァハぁ(☺)。

 老子の道は、アイデンティティに似ている。自分を確かにする道に似ている。

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「そうしたくてたまらないこと」 → 「そうせねばならないこと」

2014-08-26 12:43:01 | アイデンティティの根源

 

 まともな礼拝、人類を超えた、≪超越≫の価値に開かれた、やり取りのある人間関係にこそ、組織に対する偶像崇拝とお役所仕事と安倍政権の偏屈を打ち破ります。

 p339の下から10行目途中から。

 

 

 

 

 

このような条件下では、本物の礼拝をすることを通して、創造性豊かに生きることが、ある場所では、強迫的なほど几帳面さに支配された、儀式的に細々したことに心奪われてしまうことになることがよくあります。強迫的なほどに几帳面ですと、新鮮さと若々しさが死んでしまいがちですが、この新鮮さと若々しさこそが、発見が習慣になる、イキイキした生活には不可欠のものなのです。ここで、偉大なる民族の中の創造性豊かな生き方が、ヤーウェの神のお名前においては、どれだけ完全に宗教の体系の中に、1つにされてきたのか、という方がおられるかもわかりません。ヤーウェの神が聖なる方だいうことが、あらゆる礼拝のテーマと共に、どんだけ表現芸術の主題をすぐにでも禁じてしまうことになるのか、という事実だけでも考えていただきたい。そして、他の民族の芸術が、まさに神のイメージに花を咲かせる時に、これを禁じるんですね。同様に、音楽の演奏や詩や物語までもが、宗教的な主題に限定されます。毎日の礼拝や、年に一度の礼拝は、この時、その言葉が聖書の記述にあるのかを確かめることと、その言葉の解釈をああでもないこうでもないと細々と求めることが、主たる関心になってしまいます。

 

 

 

 

 

 発見が習慣の、イキイキ、キラキラした生活も、「それをしなくちゃならない」ことと強迫的に思うと、堅苦しいものになってしまいます。陽気で楽しいが死にます。そうすると最初に委縮するのが、芸術です。芸術の主題が、絵画や音楽や詩や物語の主題が、宗教的なものに限定されてしまう。まるで、第二次世界大戦の時に、日本では、戦争協力、天皇崇拝のみが、映画や物語や音楽や詩(まど・みちおさんまでもが、戦争協力詩を…)のテーマとして強制されたのと同じです。

 スピリチュアルで満たされると、嬉しくて嬉しくて、「そうしたくてたまらないこと」も、いったん形が決まると、そのスピリチュアルな命は失われがちで、形ばかりが「そうせねばならないこと」になってしまいがち。

 ですから、私どもは、形よりも、スピリチュアルな精神を何よりも大事にしたいものですね。

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自由になるための「意識」

2014-08-26 06:32:08 | エリクソンの発達臨床心理

 


人間が自由になる場

2013-08-26 03:20:46 | エリクソンの発達臨床心理

 夢はその聴き手のヴィジョンに影響されることがある、勝手気ままに見ていると思われる夢にさえ、この様な秩序があるというのも、実に不思議なことです。

 

精神分析の場が、 人間が自由になるための場です。人間が支配されるものは、少なくとも2つあります。それは、無意識他者(権力)です。精神分析(心理療法)は、クライアントに、自分で自分をコントロールする自由・ゆとりを持つ場を提供することによって、クライアント自らが、無意識に支配されている状態から自由になるものなのです。


 私どもは、自由が好きですね。でも、自由と言っても、それは勝手気ままとは全く異なるものです。

 自由とは、フランス革命の時のキャッチコピー「自由・平等・博愛」の最初の「自由」。加藤周一さんも繰り返しおっしゃっているように、この「自由」は基本的人権で一番大事なものなんですね。ですから、この「自由」は、私どもひとりびとりが、「人間らしい暮らし」を実現するための自由、ということです。

 じゃぁ、どうすれば、私どもは自由になれるのか?

 それは、ハッキリとした意識を持つことです。自由になるためには、照度も輝度も高い意識を持つことが必要です。現実をハッキリと意識し、ヴィジョンに対する見通しもハッキリと意識し、この現実とヴィジョンを、行きつ戻りつ、今日という≪いまここ≫を生きるのですね。

 そこで大事なのが、無意識と権力ですね。無意識と権力が、「人間らしい暮らし」を破壊する二大巨頭、二大悪だからです。ですから、私どもは、無意識と権力がやっていることを、ハッキリ見てやることです。見張り、ウォッチングですね。そして、無意識に対しては意識化を、権力に対しては、明確な批判をしていくのです。

 これは簡単なようで、実に私どもに相当なエネルギーを求めるものですから、こちらも日々やる気になって取り組まなくちゃぁなりません。

 しかし、考えてみれば、それは、私どもの次の世代に対して、「人間らしい暮らし」という最も尊いあり方をプレゼントすることになるのですから、それだけ「遣り甲斐」のあることでもある、と言えるでしょうね。

 

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