エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「他者感覚」を磨く、自分を見つめて言葉にし、分かち合い、作文を書くこと

2014-08-01 12:49:31 | エリクソンの発達臨床心理

 

NHKのいじめ防止キャンペーンで、金森俊朗さんが「“いじめたいきもち”って、どこから?」というコラムを書いています。これは実に示唆的だと感じました。

 生きる、死ぬに関わる実存的課題は、知的に伝えても、「わかりました」、でも、「できません」ということになりかねません。生きてみなければ分からないことなのに、それを知的操作で「わかった気になる」ことほど、実効性のないものはありません。

 金森俊朗さんのこのコラムは、さすがに38年間も小学校の現場で、こういった実存的課題を、子どもと共に考えて実践してきただけのことはある、説得力のある文書になっていると感じました。その点、文部官僚が書く作文とは、質感が異なります。

 まず必要なこととして、金森俊朗さんが唱えるのは、自分の気持ちを見つめること=自分の気持ちを表現すること。まるでカウンセリングですよね。実存的課題は、押し並べて、ここから出発するしか方法がないわけですよね。

 次に来るのが、その表現、言葉にしたことを友達と分かち合って、友達の意見に「共感、納得、発見」すること。自分の意見に固執するのじゃなくて、友達の意見にも耳と心を傾けて、自分とは別の視点から、課題を見る眼を養うこと。これは次に来る段階です。カウンセリングでいえば、りフレーミンク、別の枠組みで課題を見つめなおす段階です。

 そして、第三段階は、それを作文にしてみること。自分の意見を、友達の視点から洗いなおして、まとめる作業。

 この三つの作業は、実は丸山眞男教授が言う「他者感覚」を磨く作業になっているんですね。金森俊朗さんが教えてくれている方法は、「他者感覚」を磨く弁証法になっているからですね。

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「欲がないこと」と自己中は同じ?

2014-08-01 10:21:30 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 母親と言ったら、温もりに満ちた存在だと思いたい。しかし、フロムが示してくれた母親は真反対ですね。子どもに敵意を持つ母親。心が寒々してきますよね。でも、子どもや母親と面接する日々を過ごしていますとね、少なくない子どもが、そのように母親に育てられていますしね。また、少なくない母親が、子どもに対する敵意があることに気付かずに子育ていてるんですね。そういう子どもは、いろんな形でSOSのサインを出しますね。

 私は、子どものころにTVで見た映画を思い出しますね。病気のためか、身体が不自由なのか、2階の個室に寝かされている中年女性。その世話をするのが、その姉妹なのか分かりませんが、精神を病んだ、中年女性。精神を病んだ女性が、2階で寝ている女性の食事の準備をして、部屋に持っていく。ベットでその食事の蓋を取ると、料理の上に死んだネズミが乗っている。もちろん、ベッドの女性は、その食事にびっくりしてしまいます。その反応を見た、精神を病んだ女性が、今でも耳に残るような、高笑いをする。なんて意地を悪いんだろう。私はそう思いましたが、多分それ以上の何かを感じていたんでしょうね。我が子に敵意を抱いている母親に育てられている子どもの気持ちを、この映画は実に見事に描いている、と今では、ハッキリ言語化することができますね。

 今日はp57の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 この自己中の性格を分析した理論は、神経症の「無私」を精神分析家が経験したことから生まれたものなんですね。「欲がないこと」は、神経症の症状の一つで、少なくない人に見られます。普通は、この「欲がないこと」の症状で困っているんじゃぁ、なくて、この「欲がないこと」に関わる他の症状、たとえば、落ち込んだり、疲れたり、働けなかったり、失恋したり、・・・で困ってるんですね。「欲がないこと」だけじゃぁ、「症状」だとは感じません。それは、そんな人々が自分を自慢する、一つの取柄です。「欲がない」人は、自分のためには何にもほしがりません。この人は「他者のために生きいる」けと、自分のことを大事とは考えない事を誇りにしています。その人が困惑しているのは、欲がないけども、自分がはっぴーじゃぁ、ないってことと、一番近しい人たちが全然満足してないってこと。分析をしていくとね、こういう人の「欲がないこと」は、他の症状と切り離せるものじゃぁなくて、症状の一つ、いや実際は、最も大事な症状なんですね。こういう人は、人を自分を大事にできないし、何かを楽しむこともできないんですね。こういう人は、人生に対する敵意に満ちていますし、「欲がないこと」という仮面の裏側に、ぼんやりとはしていても、強烈な自己中が隠れているんですね。この手の人が癒されるのは、「欲がないこと」も、他の症状の加えて、症状なんだと解釈した場合だけです。そうして初めて、物を作り出さないこと、それは欲がないことと他の悩みの種の根っこにあることですが、それも癒されます。

 

 

 

 

 欲がないことは、一見高潔な人物を思わせます。しかし、それが神経症の症状の一つと言うのは、驚きですね。でも、欲がないように見えることが、人生に対する敵意である場合があるんですね。高潔で欲がない人は、欲がなくても、非常に生産的ですね、ハッピーですね。でも、人生に対する敵意を隠し持っている場合は、欲がないことは、何かを作り出したり、ぬくもりのある関係を結んだりできないので、ご当人も、周りの子どもも不幸ですよね。

 欲がないことも、この場合は、治療することが必要になってくるわけですね。

 

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心の光と、人を自分を大事にすること

2014-08-01 05:12:15 | アイデンティティの根源

 

 心の光、それは明るく、温もりかある。エリクソンかこの後にそう言ってくれますよ。

 p329の下から4行目途中から。

 

 

 

 

 

 

心の光の証を立ててくれる、最も雄弁な、最近の証人は、一人の眼が不自由な人です。ジャック・ラセランは、7才半の時に事故で視力を失いました。彼は、次のように(『社会の中の、眼が見えない人』に)書いています。

 「私が視力を失う事故があって、10年ほど経ってから、私は根源的な発見をしました。・・・私は、世の中には光を見ることが、もはやできませんでした。しかしながら、その光はたしかにそこにあったのです。・・・私はその光を私の中に見つけたのです。何たる奇跡! その光は手つかずでした。これは『私の中の』、一体どこにあるんでしょうか? 頭の中なのか? 心の中なのか? 想像力の中なのか? ・・・ その光は世の中の隅々まで行き渡りたいと思ってているように感じました。・・・その光の源は、外の世界にあるんじゃぁ、ない。私どもは、その光は、よくある幻想からきているだけと思い込んでいます。その光は、人生があるところに、あるんです。私どもの心の中にあるんです。・・・2番目の大発見は、すぐにやってきました。心の中にある光を見る方法がひとつだけあります。それは、人を自分を大事にする、ということです。」

 

 

 

 

 

 エリクソンがフロムに近づいてきた感じがしますよね。心の光は、人を自分を大事にすることから生じるものらしい。だから、心の光は、明るくて、温もりに満ちているわけですね。

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