エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

矛盾律、難しすぎ!

2014-08-24 12:47:47 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

矛盾律は、臨床では当たり前。さてさて。

 p68の下から3行目から。

 

 

 

 

 

 アリストテレス哲学の信奉者と矛盾律に違いを、これ以上詳しく述べることは、この本の狙いを超えるかもしれませんが、二三の実例に触れたいと思います。と申しますのも、矛盾律の原理をよりよく理解していただくためです。西洋哲学で矛盾律が最初に現れたのは、ヘラクレイトス哲学においてでした。ヘラクレイトスは、対立するものの間の葛藤を、イキイキ、ピチピチ生きることことすべての根っこを支える根源と見なしました。ヘラクレイトス曰く「自らの中に葛藤を抱え込んでいるものは、自らと調和している、ということを、彼らは理解しない。≪葛藤する調和≫とは、弓と竪琴のように(断片51)」と。さらにより明確に曰く「私どもは同じ川に入る。しかし、必ずしも同じ川であるわけではない。≪それは私どもであり、同時に、私どもではない≫」と。あるいは、「全く同じことの表れ。生きることと死ぬこと。歩くことと寝ること。若いことと老いること」と。

 

 

 

 

 矛盾律、難しすぎ。形而上学的に矛盾律を考えるのは、非常に難しい。何かごまかされているようにも思えてくる。「自民党政権が言っている込みたい…」

 でも、臨床ではわかる…。

 フロムさん、もっとはっきり分かるように説明してくださいね。

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≪神の子≫は≪私≫

2014-08-24 10:52:27 | アイデンティティの根源

 

 ヤーウェの神のお名前、「今なろうとしている者に、今なっている者」。そのお名前が、私どもひとりびとりを絶対的に肯定してくださる。それは「光」と感じられます。人は、種としてのホモ・サイエンスとして誕生してこの方、ずっと太陽の恵み(と災い)を経験し続けていることから、恵みに関して「光」と感じるのかもわかりませんね。この「光」は別にキリスト教の専売特許じゃぁないでしょう? 仏教でも「光」と言いますね。

 p339の最初から。

 

 

 

 

 

 「神の子」に関して、それは、永続的なものです。それは、あいまいな人の形(人の子のような者、あるいは、「人のような」姿[ダニエル書第7章13節])になって、ケダモノのような生物から現れる、とダニエルの預言者的な夢に出てきて、ほぼ進化論的に登場して以来、ずっとあいまいのままなんですね。あるいは、人間(ベーン・アダーマ)は、神の右側に座っておられます。あるいはまた、最後は、ここでは省略するゆとりがない何者か、すなわち、アラム語で単純に≪私≫という言い方です。このようないろんな意味全ては、 1人の人の形に宿る意識の並外れた意味に集中しているようでもあります。それで、私どもは、これらの意味全てから、何かが見つかることでしょう。それは、イエスが自分のことを「人の子」と呼んだことに関して当時の福音書記者たちや歴史家たちが、描き出したものです。

 

 

 

 

 聖書に関する議論が長々続きますよね。クリスチャンでない方(100人いれば90人以上)は、「ついてけないな」と感じるかもしれませんね。

 それでもね、これは必ずしもキリスト教信仰について述べているのじゃぁないんですね。そう、≪私≫と自分のことをクリスチャンでなくとも呼ぶと思いますが、その≪私≫がどういうからくりでできているのか? ということに対する答えを見つけたくて、エリクソンは聖書に当たっているんですね。

 今日のところでは、≪人の子≫というのは、”意識と言うものの並外れた意味” と結びついている、と言うんですね。そして、意識は≪私≫をよりよいものにしてくれる、非常に大事な働きをする者なんですね。

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「今は悲惨を語るときではありません。希望を語るときであります」

2014-08-24 05:41:33 | エリクソンの発達臨床心理

 


2013-08-24 02:05:08 | エリクソンの発達臨床心理

 イメージ、視覚的な記憶が癒しを試みるも同然だということは、グッドニュースでしたね。視覚、見る力は、いろいろな感覚情報や概念、理念を統合する力があるようですね。

 今日はそういった議論の続きです。


 今日久しぶりに銀座・教文館に行きました。「村岡花子と教文館」の展示を見るためでした。この展示は、花子の仕事ぶり、現存の教文館の3階で、働いていたこと、それは展示会場のフロアであること、東洋英和で学んだあと、系列校の山梨英和で英語教師をしていたこと、その後、教文館の前進になる日本基督教興文協会で働いたようです。また矯風会とも浅からぬ関係にあったようです。朝の連続テレビ小説にも出てきますが、子どもたちに童話を読み聞かせたように、自宅の本を、石井桃子さんのように、子どもたちに開放していたのが、印象に残りましたね。

 久しぶりの教文館なので、一通り3階の書籍を見てみました。「ボンヘッファーの書籍が、新教出版社の本が、装丁がずいぶん変わったなぁー」、「高橋三郎先生の著作集、大事だなぁー、特に政治との関わりを説いた2巻」、「雨宮慧先生の本ないのかなぁー」…。いろいろ迷ったけれども、岩波文庫を2冊と、月本昭雄立教大学教授の『この世界の成り立ちについて』を買った。

 月本昭雄教授の本を購入したのは、読売新聞で震災直後の4月から始まった「いにしえとの対話」シリーズの文書が収められていたからです。今日のタイトルは、内村鑑三が、今から90年前に関東大震災直後に自宅前に張り出した言葉だそうです。震災直後に内村鑑三の言葉を振り返ったのは、私が知る限りでは、月本昭雄教授と、東北大学の宮田光雄教授だけです。

 今、東日本大震災後に語られている言葉はどんな言葉でしょうか? 復興が進まない現実、「東京オリンピックに業者が取られて、ますます、…。」「原発事故の放射能汚染で、帰れない」。

 希望を語る言葉はどこにあるのでしょうか?

 私は、民主主義再生のためのチャンスにしたいと考えています。自ら希望の言葉を語りたいと思います。それは子どもとの関わりを通して、希望を伝えるということです。カウンセリングを通して、休み時間の遊びを通して、教員との関わりを通して、お母さんたちとの関わりを通して。それは話し合いを大事にすること、自分とは違っても、少数意見を尊重すること。そうして、自分の周りに民主主義の原理を徹底させるんですね。

 「それだけじゃあ、足りない」でしょう。それでも、マザーテレサに倣って、

Give the world the best youve got anyway.

それでもね、最高をプレゼントするのよ。」

 

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