エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

丸山眞男教授の「無責任の体系」と、ハンナ・アーレントの「無人支配」

2014-08-04 12:34:49 | エリクソンの発達臨床心理

 

 


儀式化はドッコイ生きる “陽気で楽しい”があるから

2013-08-04 01:49:20 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 エリクソンに対する、心無い疑いに対して、エリクソンは、自分の役割をハッキリと明確に示すことで応えます。私は想像しています。エリクソンは、子どもとの臨床をたくさんやった人です。エリクソンはその子どもとの関わりにおいて、積み木遊びなどを通して、陽気で楽しい関わりをしながら、儀式化を行っていたはずです。その儀式化によって、その子どもが、新たな見当識、新たなヴィジョンを感じ取って行った時の、溢れるようにキラキラした笑顔、その笑顔に繰り返し出合うことができたことでしょう。それは臨床家としては、またとない喜びですから、そこに手ごたえを得ていたのでしょう。実際6月24日に翻訳した「遊びの治癒力」のところで、エリクソンは「子ども達が、独創性と完成度を備えて、ものを見、話し、遊び、活動するのを見ると、心の根っこから湧き上がるような喜びを隠そうと思っても隠し切れないものです」と記していましたね。

 今日は、そんな疑いがあっても、儀式化はドッコイ生き残れます、というお話です。


  現代の礼拝は、楽しく陽気な関わりであり、悦びに満ちた生き方であることを申し上げてきましたね じゃぁ、その反対は何なのか? それは文字通り、お役所仕事です。

 先日聞いた話です。そこは、津波でやられた地域です。お百姓をしているそのおばあちゃんと、おじいさん。「今立ち退きを求められている」というのです。私は「なんで?」と伺いますと、今度近くの橋が改修されるときに、橋とその橋に繋がる道が広がって、そこにも橋が伸びてくるので、立ち退き請求されている、というのです。

 そのおじいちゃんが言うことです。「津波にあえば、住宅再建の支援もしてもらえる」、「だけど、立ち退き請求されたら、橋や道にかかる土地しか買ってもらえんから、家の再建もできるかどうかだ…。」「お役所のやる方が、質が悪い津波だよ」。

 私は、傾聴に値する、真面目に暮らしを立てて来た、1老人のお話だと感じましたね。

 津波よりひどい「お役所仕事」。

 丸山眞男教授が権力を分析した「無責任の体系」。今もしっかり生き残っていることが、こういう話からも分かりますでしょ。それは、ハンナ・アーレントが言う「無人支配」でもある。特に日本のお役所は、定期的に人事異動がありますから、お役所に行くと「去年は別の人が担当でしたから、よく分かりません…」などということによく出くわしますでしょ。「言われたことだけやる」のが、日本のお役所仕事の典型的な働く方だから、事務的、セクショナリズム、冷たい仕事、市民の話をバカにする態度、などの特色がありますね。それだかこその、無責任、誰がやっているのか、よく分からない体制です。

 関わりの中で陽気で楽しいを旨とすること、悦びに満ちた生き方によって、感化していくことは、このお役所仕事の対極をなして、人々の生活に、政治と民主主義を取り戻すことに繋がるものとなるでしょう。

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神の≪真≫ 魂のレベルでの救済

2014-08-04 10:07:41 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人を大事にするためには、自分との和解がなければできません。自分との和解から逃げていると、自分の子どもでさえ、大事にできない。

 p59の冒頭から。

 

 

 

 

 

 神の≪真≫

 これまで申し上げてきたことですが、≪真の関係≫を結ばなくてはならないことの基盤は、≪相手にされなかった≫経験と、相手にされないかもしれないという不安を、連帯することによって克服しなくちゃならない、ということにあります。≪真の関係≫の宗教上の形は、それは、神の≪真≫と呼ばれますけれども、心理学的に申し上げれば、違います。≪真の関係≫の宗教的な形は、≪相手にされなかった≫ことを克服し、連帯しなくちゃならないことから生じています。事実、神の≪真≫は、人間の≪真≫とは異なる性質と側面がたくさんありますし、同じ相違点があることに、大いに気づきます。

 

 

 

 

 

 神の≪真≫は、人間業ではないので、その違いが強調されることも少なくない。しかし、人間の≪真≫と共通点があるというのも、また事実です。今日のフロムはそのことを言っているようですね。

 それにしても、≪真≫ないし≪真の関係≫は、幼いころの≪相手のされなかった≫経験と、それにまつわる様々な情動を克服することにあるとすれば、幼いころの≪見捨てられ≫経験が、実に人間の実存にとって、危機的経験であるのか、ということがシミジミわかりますね。

 今の日本の危機の源は、この≪見捨てられ≫経験が、深く広く浸透していることと、それによる子どもたちの傷の深さにある、と私は見ています。

 ですから、今の日本は、≪魂≫のレベルでの救済が、是非とも必要なんですね。

 

 

 

 

 

 

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≪私≫という感じが、真新しい≪私≫と結びつくとき

2014-08-04 05:47:12 | アイデンティティの根源

 

 ≪私≫は母親の中にある≪あなた≫と、自分自身の中にある≪あなた≫≒セルフとの対話の中に発達します。

 p331の冒頭から。

 

 

 

 

 

 いまや、すべての人称代名詞のリストを一瞥すれば、すべての発達プログラムが順序通りに明らかになります。というのも、≪私≫と≪あなた≫は、最初の二項関係を創り出すけれども、その二項関係は、すぐに、たくさんな三項関係に変わります。その時、一連の≪彼≫か≪彼女≫(実際は、≪それ≫の世界)が、いろんな意味でプラスの遊び相手になります。父親のような三項関係もあれば、兄弟のような三項関係もあり、姉妹のような三項関係もあるし、他の三項関係もある。三項関係が生じると、複数の概念の≪私たち≫、≪あなたたち≫、≪彼ら、彼女ら、それら≫が、言葉の上でも必要になりますし、大切な情緒的な意味を持つものにもなります。このようにして、代名詞の順序は、≪私≫と≪あなた≫から始まって、舞台で展開すべく基本計画に組み込まれています。それで、その人称代名詞の一つ一つは、いったん覚えてしまえば、幅広い経験を表現するのに役立つことがお判りでしょう。それは、その幅広い経験は、あらゆる舞台で、新しい遊び相手を含みます。たとえば、特に家長的で一神教の体系では、≪私≫という感じの最初の形を、最初の母親との源の関係から、強烈な父性との関係へと、しまいには、神様との関係へと変える必要があることを取り上げましょう。あるいは、思春期の危機を、子どものころにできた、自分を確かにする道の要素を組み替えることと考えたり、青年期を、社会の中で自分の心を確かにする道を見つける、創造的な世界と考えましょう。あるいは、また、いかにしたら、元の家族(我が家)で身についた≪私たち≫という感じが、自分が嫁いだ家族や地域へと広がるのか、自分自身の家族へと広がるのか、そこで、人は、自分自身の≪私≫という感じを抱いた、真新しい存在を生み出すことに役立つはずです。

 

 

 

 

 ≪私≫という感じが、いかにしたら、確かなものになるのか、そして、真新しい≪私≫に発達するのか? エリクソンの記述は実に見事ですね。最初の母親との関係は、発達の中で、父親との関係を経て、神様との関係になる。思春期も青年期も≪私≫という感じの発達との関係の中で位置づけられる。そして、≪私≫という感じが、どのようにしたら、真新しい生き方をするものと結びついていくのか?

 いずれも非常に重要な場面です。

 

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