エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#無知の知 #田中千穂子先生 #恵みは思いがけない所に

2014-08-25 12:43:55 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 矛盾律は難しすぎですね。老子は好きなんですけどね。

 p69第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 老子の思想では、同じ考え方が詩の形で表現されています。老子の矛盾律の考えの特色が出ている例は、次の通りです。「重さは軽さの源。静なるは動の支配者。」と。あるいは、「道は、ふつうは、何もせず、しかも、道が働きかけずにいるものは何もない」と。さらには「私が申し述べることは、とても分かりやすいし、とても実行しやすい。しかし、私が申し述べることを実際に理解でき、実際に実行できる人は、世界広しと言えども、なし」と。老荘思想の考えでは、インド哲学やソクラテスと同じように、思想が導くことができる頂点の段階は、無知の知です。「知りつつ、自分は知らないと思うは、頂点(に達すること)。知らないまま、自分は知っていると思うは、病」と。

 

 

 

 

 ソクラテスの「無知の知」が西洋哲学の出発であると思います。でも、老子も「無知の知」だとは知りませんでした。

 臨床でも「無知の知」を思うことは、様々な可能性に開かれていることに対する基本的な態度です。今より良いものが将来にある。待っていると、素敵なもの、大事なことが訪れる。気が付くと、思いがけず素晴らしいものがもたらされる。それが臨床の真実です。昨日、田中千穂子先生も言ってました、「初めから狙ったものは、高が知れてる、気が付いたらこんなにうまくいった。それが良い」ってね。

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#本気のやり取りとしての礼拝の実力 と #形ばかりの言い訳

2014-08-25 11:00:04 | アイデンティティの根源

 

 エリクソンのアイデンティティとライフサイクル・モデル。カナダはウェスタンオンタリオ大学のルース・ラニウス教授のお話を伺っても、そのお話、今の最先端の研究ともピッタリと符合している。もう60年前に気付いたモデルですが、今でも非常に役立ちます。

 今日からp339の第3章。

 

 

 

 

 

 しかし、私どもは、この危険について、二言三言さらに申し上げるべきでしょう。その危険と申し上げるのは、素晴らしく、中心を占める、宇宙的な力の恵みを信頼する、圧倒的な信頼を、毎年、毎日、確認する礼拝に降りかかるかもしれない危険です。ここで私は、対人関係のやり取りの中で、個人にある強迫性に対応する現象に宛がうのに不可欠だと分かる1つの言葉をご紹介しなくてはなりません。私はそれを「形ばかりの言い訳」と呼びます(『おもちゃと賢慮(みすず版は『玩具と理性』)』)。最も偉大な礼拝でも、結局は、繰り返しの、些細な日常のおざなりになる場合があります。献身の対象となる崇めるイメージも、偶像崇拝になります。細々した「ねばならないこと」に繋がれば、お役所仕事になりますし、ドグマと繋がれば、安倍晋三首相のような偏屈になります。これは、事の性質からして危険だと感じられるような状況下では、なおさらです。つまり、そのこととは、イエスの時代のように、ギリシア化の衝撃のもとに、民族が力を失い、文化的な継続性まで失ってしまった、ということでした。

 

 

 

 

 日本も、バブル崩壊以降、「失われた20年」の間に、このイエスの時代のヘレニズム化の影響どころではない、非常に大きな影響を受けてしまっているんですね。ですから、今は、会社や組織が偶像崇拝の対象になっていますし(「会社の、上司のいうことだから、しょうがない」)、仕事の中身が「お役所仕事」ですし、安倍晋三政権のやることなすことは、偏屈なことになるんですね。

 まともな礼拝、人類を超えた、≪超越≫の価値に開かれた、スピリットとやり取りのある人間関係にこそ、この偶像崇拝とお役所仕事と安倍政権の偏屈を打ち破るダイナマイトの力(デュナミス・セウー)が確かにありますね。

 

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今の日本の日常生活 > 東日本大震災

2014-08-25 06:24:38 | エリクソンの発達臨床心理

 

 今日のタイトル、お分かりでしょうか?

 東日本大震災、2013年3月11日、午後2時46分に起こった大地震と、その後に東北から関東地方を襲った大津波による大災害、それはハッキリと眼に見える形の大災害でしたし、今でも「復興」は名ばかりで、いまだに「仮設住宅」と言う名の粗末な建物に、「個として尊重される」はずの、主権者たる国民が押し込められている。それだけでも、いかに日本の民主主義が名ばかり民主主義だと分かります。

 でも本日のテーマはそれとは違います。

 いま、横浜で開催されている日本心理臨床学会に来ています。とても大事なテーマが、いくつも話し合われ、真摯な姿勢で討議がされています。真理とは、こういうものですね。伊藤良子先生は、事例研究のことを「倫理としての事例研究」と呼びます。「なるほどなぁ」と思います。クライアントとセラピストの関係は本来は対等です。しかし、その関係は簡単に上下関係、支配関係になってしまう。それはもう、人様の眼の前にさらされることもできません。しかし、それを論文にして事例研究にして発表したら、それは、上下関係になった事例研究など、一片の価値もありませんし、そんなものが印刷に付されるはずもない…。でもそうでもないのが残念ですね。しかし、第三者の目にさらされること、それが、クライアントとセラピストの関係を対等な、やり取りのある関係にして、良い治療にするんですね。そのためには、第三者の目にその事例をさらす、「倫理としての事例研究」が是非とも必要です。操作され、支配された事例研究があまりにも多いので、これを改めて伊藤良子先生がハッキリと学会という公の席で言葉にしてくれた意義は非常に高い、と強く感じますね。

 でも、今日のテーマはこれでもない。

 カナダ・ウェスタンオンタリオ大学のルース・ラニウス教授が「トラウマを受けた自己を癒す」というテーマでお話しくださいました。トラウマを受けた自己は、いろんな診断名がつく心の病に襲われると言います。そのトラウマは、一発の大災害よりも、日常生活の中で毎日繰り返される家族関係によるものの方が、はるかに大きいし、人格の最深部まで侵されてしまう、ということです。それが、今日のタイトルの意味するところです。

 それは、もう文字通り「自分がない」のです。もう、それは非常に深刻な状況です。こうなると、心的外傷後ストレス障害、境界型人格障害、うつ病(気分障害)、不安障害、解離性障害、心身症、薬物依存症…。しかし、その中核的な、もともとの障害は何か? といえば、発達トラウマ障害(DTD)なんですね。

 これは非常に臨床とも一致します。津波を受け深刻な被害を受けた地域でも、最も深刻なのは、津波被害によるものじゃぁない。日々の母子関係、家族関係に起因するものなんです。それは、発達トラウマ障害(DTD)です。発達トラウマ障害(DTD)の子どもの数と質が半端じゃないんですね。私はここに日本が崩れていく予兆さえ感じてしまうほどなんです。でも、内村鑑三に倣って、希望を語ります。

 今の日本は、日常生活が、大津波以上に、大津波なんですね。つまりそれは、今の日本が、子どもを日々深刻に傷つけるほど、「人間らしい暮らし」からかけ離れた,病んで不毛な社会(impovetrished society)になっていることを、非常にハッキリと、私どもに示しているんですね。

 ですから、私どもは、日々の子どもたちとの関わりを、やり取りのあるものに、陽気で楽しいものに、意識的にすることによって、「人間らしい暮らし」を取り戻すんですね。

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