エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

最近のNHK、「どうかしてる?」or「時代の要請」

2014-08-23 14:04:52 | エリクソンの発達臨床心理


 

創造性の源 アインシュタインの連想遊び

 2013-08-31 02:06:10 | エリクソンの発達臨床心理

  アインシュタインが自分の生活で、自分の研究で、イメージと遊びを大事にしていたことが紹介されました。今日はその続きです。


 

 NHKは、御用マスコミで、権力のお先棒を担ぐので許せない、という方もいますよね。とくに「ニュース」にそれを感じますね。

 でも、クローズアップ現代は、相当いい線を行っていると思います。権力批判と言うジャーナリストの基本中の基本を堅持しているように思います。

 それども、最近のNHKは「あれっ」って思いますよね。なんせ看板2大番組の「朝の連続テレビ小説」と「大河」の2つが、ともに、その主人公にクリスチャンを採用したことですね。

 別にNHKが、キリスト教の宣教組織になった、と申し上げているんじゃぁ、ありません。それでも、ドラマ制作と言う、感性勝負の人たちが、時代の雰囲気を嗅ぎ取って、クリスチャンを主人公にしたドラマを作りたいと思わせた。特に、「大河」は去年もキリスト者の「新島八重」が主人公でした。これは偶然とは言えないでしょうね。

 時代の雰囲気は、「ウソとゴマカシ」。それは、時代を危うくし、日本人の人間らしい暮らしを破壊するものですね。やはり、美を創り出そうという人は、時代に平和と、人間らしい暮らしをもたらしたいと願っているはずですから、「ウソとゴマカシ」の対抗原理、真の関係と真実を最も大事な生活原理にしている、一人キリスト者に注目するのは、時代の要請と言えますよね。

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老子 矛盾律は矛盾しない

2014-08-23 13:52:00 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 アリストテレス論理学はむずかしい。ついてけるかな?(☺)

 p68第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 アリストテレス論理学とは反対は、「矛盾律」とでも呼んでいいものです。それは、AとAでないものは、述語Xとしては、お互いに排除しあうことはない、というものです。矛盾律は、中国哲学やインド哲学、ヘラクレイトス哲学、弁証法(対話法)では、主要なものです。そしてまた、ヘーゲル哲学やマルクス哲学にもなりました。矛盾律の一般原理を一番ハッキリ言ったのは、老子です。老子曰く「本当に真実な言葉は、矛盾する様に見える」と。(老子の先生の)荘子、曰く「1は1なり。1であらざれば、すなわち、1なり」と。このような矛盾律の定式化は、非常に前向き・肯定的ですね。「そはありて、かつ、あらざり」。もう1つの定式化は、消極的・否定的です。「そは、これでもなく、かつ、あれでもなし」。前者の定式化の思想は、老荘思想、ヘラクレイトス哲学、ヘーゲル弁証法哲学に見られます。後者は主としてインド哲学に見られます。

 

 

 

 

 矛盾律も難しい。でもね、臨床は、ある意味、矛盾律の塊です。一見矛盾していても、それを捨てない。

 昔、大塚久雄教授が、キリスト教信仰と無神論のマルクス主義哲学の間で悩んだ時に、内村鑑三に相談したことがあったそうですね。その時の内村の返答は、おおかた次のようなものでした。それは「キリスト教信仰も、マルクス主義哲学も、真理ならば、最初は矛盾しているように見えても、何時の日か矛盾なく一つになるのじゃないか?ですから、どちらかを捨ててしまわないで、両方大事にしたほうが良い」と。大塚久雄教授は、その教えを大事にしながら、信仰を生涯貫きつつ、マルクス主義哲学を一つの理論的武器としながら、「大塚経済史学」を確立したのです。内村の教えに間違いはなかったわけですね。

 私どもが日々行っている臨床も、この内村の教えほど鮮やかでも、手際のいいものでも、決してないんですね。でもね、それでも、矛盾をどちらか捨てずに、矛盾のままで踏みとどまる。それがね、ロマ書の五章に出てくる「ヒュポメノー υπομενω 忍耐」だと思います。

 

 

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ヤーウェの神のお名前が、私どもが生かされていることを肯定して下さってる

2014-08-23 10:52:10 | アイデンティティの根源



《私》は、そのど真ん中で、徹底的に肯定されている。是非とも、暗唱しておきたいテーゼですね。





聖書には、ヤーウェのお名前に結びつく、救われた世界のイメージが、2つあります。この2つのイメージは、人間が、イキイキ、ピチピチ、生かされて行くことが進展する際に、極めて大事な役割を果たすことができました。2つのイメージとは、《神の国》というイメージと、《神の子》というイメージです。この2つのイメージは、いくつかの境界線をハッキリさせる、いくつかの定義(ただし、ハッキリさせ過ぎること無き様に、との慎みがあります)で溢れていました。その境界線とは、歴史と「歴史を超えた」現実(「世界中が、ヤーウェの神を知る時、多いに悦ぶでしょう」という時)の境界線であり。ダビデ王の領土とヤーウェの神の宇宙規模の国の境界線であり、神の気高き子どもと、「ごく普通の」子どもの境界線です。神の気高き子ども、ということは、すなわち、神が、ダビデとダビデの家と王家の者に相応しく一方的に結んだ約束ですし、同時に、ユダヤの民1人びとりと結んだ約束でもあります。最もハッキリしないのは、もちろん、その劇的な形(救い主の形、黙示録的な形、救いの形、最後の審判な形)を、いろいろ強調したことです。このような「新しい日」やら、「黄金の年」ならば、そんな劇的な形にもなるのでしょうけれども。言うまでもありませんが、神の僕と天使が登場するという人間の形もあります。彼は1人の王なんでしょうか? それとも、聖別された主(クライスト・キュリオス、「油を塗って聖別された主」という意味)なんでしょうか? すなわち、彼は、気高き者でしょうか?それとも、司祭のような者なのでしょうか? それとも、その両方なんでしょうか? イザヤの神は仰せです。「私はただ、あなた方が私の僕となって、ヤコブの諸部族を奮い立たせ、イスラエルに留め置かれていた者たちを救い出す、と言っているのではない。私はあなたに1つの光を授けて、諸民族に光をもたらすことで、私の救いが世界の果てまで及ぶことを示そうというのです」(イザヤ書第49章6節)。誰が、あるいは、どなたが、「イスラエルの残りの者」となって、黙示録の大惨事を生き延びることができるのでしょうか?

 

 

 

 

 ヤーウェの神のお名前には、私どもに光をもらたします。その光は、私どもひとりびとりを、絶対的に肯定してくれる光になります。その光はどこのあるのでしょう?「そんなのないな」という声がしますね。

 それは、私どもの心の底の底。そこに(☺)あるのですね。そして、いったんその光に気付かれるや、その光は外に現れますね。「陽気で楽しい」の完成です。

 そうするとその光は、世界の果てまで照らすほどの圧倒的な強さと、それでいて、同時に、そよ風のような光となるんですね。光の用語で申し上げれば、照度が高いのではなくて、輝度が高いのんですね。

 その光に照らされた人も、生かされてる悦びを、光に気付いて、担当した者と共に、実感することができるんですね。実に幸いなことですよね。

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