エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

透明の絵

2014-08-14 13:41:21 | エリクソンの発達臨床心理


 

本物の見通し

2013-08-14 04:06:48 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 絵の場合は、絵描きが形式を縦横無尽に駆使できるほどの腕があれば、見る者の最深欲求に訴えかけるだけの力のある絵が描けるし、その絵は、見る者の信頼感を確かにすることができる絵にもなる、というのは、実に面白いですね。一級品の絵を見ると、確かに今まで気付かなかったことに目が向いたり、生きている喜びを感じたりして、心が揺さぶられますよね。エリクソンは、たぶんそのようなことをここで述べているのだろうと考えます。


 

「透明の絵の具」ってあるんでしょうか? 絵のことは何にも知らない私ですが、もしかすると「透明の絵の具」があるのかもしれません。あるのだったら、その絵具を目にしたいです。

 しかし、「透明の絵」があることは知っています。実際この眼で見たことがあるからです。それは、モネの睡蓮です。この絵は連作らしく、同じタイトルの睡蓮の絵が、世界各地にあるそうですね。日本はもちろん、世界中の美術館に展示されているらしいです。日本では、国立西洋美術館に収められている、ということです。

 私が見たのは、もう20年ほど前、シカゴ美術館のものです。この睡蓮を見た時の感動は、言葉で表すことができませんね。

 ミネアポリスに部屋を借りて、いろいろな福祉関係の施設見学をしていた日々。先輩がシカゴにいたので、友人と2人、レンタカー(レクサスが1か月で60,000円と信じられないくらい安かった)で移動。9時間くらい交代で運転。高速道路を通ったのに、通行料金は、シカゴの直前にあった橋?の通行料金の25セント30円ほど。ただし、クゥーター(25セントコイン)を1枚投げたのが、外れたので、50セント掛かりました。日本だったら、10,000円以上の高速代が必要なのに、アメリカはなぜ、いや、日本の高速道路はどうしてこんなに高いのか(レンタカー代も)と思いましたね。

 シカゴに着いた翌日、シカゴ美術館を3人で訪ねて、「発見」したのが、睡蓮でした。この時私が思ったのは、「『透明の色』ってあるんだなぁ」という直感でしたね。睡蓮の前は大変な人だかりで、すぐ近くで見るためには、時間がかかります。いくら見ても飽きない、どんどんひかれていく感じでしたね。それでいったん睡蓮を離れたのに、もう一度ぐるっと回った後に最後に睡蓮を見に行きました。

 池の水面に、影が映りこんでいる絵です。下の絵がそれですが、このコピーでは全く分かりませんね。その映り込んだ影を見ていると、この水がどれほど透明なのかが、震えるくらい伝わってきたんですね。

 それは、感動ですが、何か崇高なものに触れた、めったにない体験、ヌミノースの体験だったと今ではハッキリわかりますよ。

 

 

 

ファイル:Claude Monet - Water Lilies.JPG

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神様の約束、神様の指針、神様のお名前

2014-08-14 11:00:01 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 ≪真の関係≫は、訓練して初めて身につくもの。頭だけではとても身に付かない。

 p63下から3行目途中から。

 

 

 

 

 

しかしながら、同時に新しい場面も始まります。つまり、神様はノアと約束します。その約束では、神様は人間を再び殺したりなど決してしない、と約束したのでした。その約束は、ノア自身が縛られる約束でもあります。ノアがその約束に縛られているというだけじゃぁありません。ノアは自分自身の指針、すなわち、正義の指針にも縛られていました。だからこそ、神様は、その方針に基づいて、正しい人か10人いれば、ソドムの街を救ってほしい、とするアブラハムの求めに譲らなくてはなりませんでした(創世記第18章16節~33節)。しかし、この発達によって、神様は専制的な部族長から、人を大事にしてくださる父親に変わります。すなわち、ご自分が求めた指針に自分も従う父親に変わります。それは、神様が、1人の父親のシンボルであることから、父なる指針、すなわち、正義、真理、≪真の関係≫という指針のシンボルへと変わる方向性に沿うものです。そう、神様は真実で「あり」、正義で「あります」。この発達の中で、神様は1人の人であったり、1人の男であったり、1人の父親であったりすることを止めて、多様な現象があっても、それをまとめ上げる指針や、心の中にあるスピリチュアルな種が育って心の花になる、というヴィジョンを持つ指針になります。神様は名前が1つもありません。名前はいつでも、1つの物事、1人の人、決まった何かを示します。神様が1人の人でも、1つの物事でもないとすれば、神様はどうやって、1つのお名前を持つことができるというんでしょうか?

 

 

 

 

 神様は発達の中で、専制的な神であることを止めて、慈しみの神様になりました。正義、真実、≪真の関係≫という指針を、人間に求めるばかりではなくて、ご自分も、その指針に従って生きているからです。それは、≪人間皆兄弟≫≪みんな違って、みんないい≫(多様な現象があっても、それを一つのまとめあげる)指針となり、みんながその指針に従って生きられるように自らを鍛え直すことができる指針(心の中にあるスピリチュアルな種が育って心の花になる、というヴィジョンを持つ指針)にもなるわけですね。

 しかし、このように柔軟、このように寛容で、しかも、このように多様性や、時には争いもあるところに一致をもたらしてくれる存在である神様に、どうしたら、1つのお名前を持つことになるのかしらね? それは簡単ではないんですね。 

 

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民族の独立、隣を認め合う生き方

2014-08-14 05:18:20 | アイデンティティの根源

 

 民族の独立と個人の独立。これは切っても切れない関係にあります。

 日本の外交がアメリカ追従以外にはできないくせに、中国や北朝鮮に対して、否定的なことしかしないのは、国家として、民族としての独立があいまいだからですね。平和憲法を活かした外交をしようとすれば、シリアやガザの状況に対して、いち早く和解を促すような外交努力をするはずですし、中国や北朝鮮に対して、もっと謙虚な外交を展開するはずです。

 そう言う平和憲法を活かした外交を日本がしていくためには、私ども日本人ひとりびとりが、日常生活の中で「平和を作る」人でなくちゃぁ、ならないでしょ? それは、「人間を上下2つに分けるウソ」からは自覚的な離れて、「人間皆兄弟」、「みんな違って、みんないい」を自覚的に生きる毎日を過ごすことです。つまりは、日常生活が、隣人をお互いに認め合う生き方に必ずなるはずですね。どうですか?

 p335の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 パレスチナ史をこのように素描すると、ハッキリしてくるのは、ユダヤの民が、たくさんな、時空に関する、破壊的な見方と共に、生き残らなくちゃならないし、生きるようなにらなくちゃぁならない、ということです。聖書には飽き足らないほどに褒め称えた、栄光の過去があるのにもかかわらず、生々しい歴史的記憶のために、領土の状況に思いを致さないわけにはいきませんでした。それは、ユダヤの民が、大国と、これまでも強く申し上げてきたような、大国の軍事行動によって、代わる代わる侵略の危機に陥ってきたことです。1人の英雄の強烈な歴史にもかかわらず、なんだかんだ言っても、民族を守ることが「全くできない」、ということです。中心地と内的な自律心のシンボル、すなわち、神殿、の自由が当然とみなされるのは、ローマ帝国が良しと認めてくれた時だけなんですね。神殿は現実には、ローマ帝国の(中心地だはなくて)「端っこ」にあったのです。こういった、今列挙したユダヤの民の状況は、あらゆる次元の≪私≫という感じを台無しにしたことは、火を見るよりも明らかです。≪私≫という感じは、どんな集団でも必ず個人に与えるものなんですね。ですから、このような民族は来るべき世紀に生き延びるチャンスを手にしながら、自分を確かにすることなどできなかった、と結論を出したい人もあるでしょうね。

 

 

 

 

 

 背筋がゾクゾクするような、エリクソンのリアルな記述ですね。ユダヤの民が、大国のはざまで、様々な苦難な歴史と現実を生きてこなくちゃぁなりませんでしたでしょ? そう言う集団は、ふつうは、集団に所属する個人に、自分を確かにする道を示すことなぞ、できるはずもない。

 それじゃぁ、今の日本はどうなんだ? ということですね。

 さっきまで、壇蜜さんの「青春ブレイクスルー」の録画を見ていたんですね。どうしても「ペリリュー」の番組の優先順位が上でしたから、ライブではそちらを見て、その後東電社員だった人の番組を見てから、壇蜜さんになったわけですね。

 壇蜜さんの番組、予想以上の出来でした。その番組では、斎藤支靜加(しずか)さん(壇蜜さん)は、大学を出ても、専門学校を出ても、「あんたは要らない」!だったというんですね。日本と言う集団が、個人に与えるメッセージを的確にこの番組は拾ってくれていましたよね。

 日本人は、日本国憲法と言う立派な財産があるのにもかかわらず、それをほとんど使わずに、愚かしい政権が言うことを鵜呑みにしている結果、貰うメッセージと言ったら、「自分の頭で考えてはならない、大した頭もないんだから」、「お前は、生きている価値なんぞ、ないぞ」「あんたは要らない」ということです。非常に権力にとって都合のよいものになっています。権力は、個人は要らないからです。

 それに抗するためには、権力に対して、自覚的に「NO」を言いつつ、近所では互いに認め合う関係をこつこつと積み上げていくことに、そういう生き方をすることに決まっています。

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