エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

2つは1つ

2014-08-28 12:56:58 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 バラモン教にまで話が及んでいます。

 p70の下から7行目の途中から。

 

 

 

 

 

宇宙の中や、人の中にある究極的な力は、概念的側面も、感覚的側面も、≪超越≫します。したがって、それは「あーでもなければ、こーでもない」んですね。しかし、ジマーが言うように、「厳密に二元論に分けない理解においては、『本物とそうでないもの』の間の敵対心が全くなくなります」。多様性の背後にある連帯を求める際に、バラモン教哲学者は、いつくかの対をなす対立は、ものの性質を示すというよりも、受け止めた心の性質を反映する、との結論に達します。受け止めた考えは、変化しなくちゃなりませんが、それは、その考えが真の現実を捉えようとする場合です。敵対しているのは、人の心にある概念であって、現実の要素そのものが敵対しているわけではありません。リグ・ベーダの中に、その原理は次のように記されています。「私は2つ、生きる力と人生の素材と、同時に2つです」。二律背反としてしか受け止めきれない、この考えの究極的結論は、リグ・ベーダの哲学の中に、猛烈な力のある流れを作ってきたことが分かります。この哲学が前提とするのは、思想とは、きれいな定義があっても、「無知の、非常にハッキリしない水平線でしかありませんし、実際マヤの人々が考えた人を欺く仕掛けの中で、一番ハッキリしないものなんですね」。

 

 

 

 

 ヴェーダ哲学の「一元論」を展開している部分のようにですね。2つに分けて考えるのは、心が分裂しているからだとする見方は、心理の見方と完全に一致していることを、ここでは申し上げておきたいと思います。

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世俗生活=宗教の本質

2014-08-28 10:08:39 | アイデンティティの根源

 

 制度や法律は、それを創り出した精神が必ずあります。しかし、制度や法律が運用されだすと、運用そのものに自動操縦、オートパイロットの性格がありますから、もともとの精神がなくても動いてしまいます。これが形骸化です。ですから私どもは、制度や法律が、その精神を順守しているのか?運用しているものが、その精神を活かしているのか?をウォッチングして、批判的でなくちゃあいけませんよね。

 p340第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 しかしながら、ユダヤ人の地域社会には、日常生活の中に礼拝が、かつてありましたし、今でもあります。この礼拝は、ユダヤ教では非常に大きな役割を果たしてきたはずです。私は家族の生活のことをお話したいと思います。家族の生活が、キリスト(ヘブライ語で「ナザレのイエス」のことです)が定式化した過程に深くとどまっているからです。ナザレのイエスは話します。「宗教と日常生活を隔てる中垣を壊して一つにし、日常生活を宗教のなくてはならないものとなすと同時に、宗教を日常生活になくてはならないものとなす傾向。それは聖なるもので、したがって、不敬ではないないけれども、地上に下されたもの。世俗生活そのものが、宗教的なお勤めの神聖さになる」と。

 

 

 

 

 ここは特に不思議な件です。日常生活そのものが、宗教生活になくてはならない本質を為すというのですから。そんな馬鹿なことがあるのでしょうか?

 フロムに従えば、それば「ある」ということになるのでしょう。なんせ「世俗生活が宗教的なお勤めの神聖さになる」と言うのですから。

 今後か楽しみですね。

 

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自由

2014-08-28 07:09:40 | エリクソンの発達臨床心理


 

集団のヴィジョン<クライアントのヴィジョン

2013-08-27 02:27:55 | エリクソンの発達臨床心理 

 精神分析(心理療法)は、クライアントに対して他者(権力)から支配されない自由の場を提供することで、クライアントが無意識から支配されない自由を手にすることを支援するのです。自由は、人間にとって根源的に必要不可欠な条件ですし、民主主義の根幹ですから、心理療法は民主主義の基盤を作っているということになります。日本では、まだまだ心理療法がマイナーなのは、日本の自由と民主主義がそれだけマイナーだからです。


 心理療法は、実にクリアな意識を持つために、相当役立ちます。権力と無意識と言う、「人間らしい暮らし」を破壊する二大元凶から、自由でいられるために、役立つことは昨日記したとおりです。

 フロムの真似ですが、「~からの自由」ではなくて、「~への自由」を考えたいと思います。

 フロムは有名な書『自由からの逃走』で、「~からの自由」と「~への自由」について述べています。「~からの自由」は、エスケイプですから、どうしても消極的です。意識的に何かを作り上げる、という姿勢に弱さがあります。それに対して、「~への自由」は、積極的・意識的であるということができると思います。

 また、「~からの自由」は、進むべきヴィジョンがないのに対して、「~への自由」は、自分たちが進むべきヴィジョンがあり、そのヴィジョンの実現のために、今ここで具体的な活動をするという、堅い目的意識があることも確かでしよう。

 ですから、心理療法で養われた、無意識と権力からの自由を、新たなヴィジョンのもとで、「~への自由」へと進化させていただきたい、と願っています。

 

 

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