エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ビブラートが聴こえてくるところ

2015-03-01 13:03:05 | 間奏曲

 

 夜の不思議と夜の美しさも分かる人になりたいものですね。

 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p90の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 その遊びは耳を澄ませることです。これはヴァイオリン、これはヴィオラなどとく音を区別するように、あるいはまた、演奏者の立ち位置を理解するように、フルオーケストラを聴くためじゃありません。もしかしたら、一歩一歩、茂みに導かれるのかもしれません。そこからは、甘美で、高音の、しかも、いつもでも続くビブラートが聴こえてきますよ。

 

 

 

 

 こんなビブラートが聴こえてきたら、良い席を取りたくなっちゃいますね。

 

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発達も神の秩序? 人間は全知全能?

2015-03-01 11:28:43 | アイデンティティの根源

 

 人間は自由をいただいて、それを神のご計画に参与する機会とすることができます。大事に視点ですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』のp185の下から19行目途中から。

 

 

 

 

 

神様のメッセージは、神の秩序の中で分かります。すなわち、人間には、秩序が分かる能力というものが備わっているわけですね。さらには、人が心を育てることにおいて、あらかじめ定められた秩序があります。したがって、人間はあらゆる秩序の中を生きることができますし、人はたくさんな感覚器官を身に着けています。すなわち、直感的な視覚、信頼に基づく理解、パー・ラシオネム・ラシオナレム、すなわち、合理的判断力によって認識することです。人間の理性は、したがって、物事の秩序の中で高い位置づけがされますから、善悪を判断することも、理論的に導き出すことができますし、実際に、導き出さなくてはなりません。

 

 

 

 

 ここも大事なところ。

 人間は順境も逆境も生きなくてはなりません。順境の時は、この世に秩序があることも分かり易い。でもね、逆境の時はどうですか? そこに秩序なんてあるものか‼ と感じやすい。世を呪うような気持にだってなるかもしれませんでしょ。でも、エリクソンは、ここで、「人間は秩序が分かる」ばかりではなくて、「あらゆる秩序の中を生きることができる」と言う訳です。すなわち、順境の時も逆境の時も、「秩序」なのです。

 もう1つ。人間は合理的な判断力をいただいてます。宇宙の果てを、眼に見えないような微細なところまで、知ろうとしますし、実際知ることができますね。すると、人間はすべてが分かったような気になる場合があります。さらには、全てを自分のコントロール下に置こうと、管理教育の人みたいに、しちゃいますでしょ。全知全能?

 しかし、私どもが知っているのは、全てではなく、ほんの一部です。ニュートンでさえ、知っているのは砂浜の1粒の砂だと言ったくらいですよ。内村鑑三も、一部しか知らないという訳ですね。ですから、私どもは慎重でなければなりませんし、謙虚でなければなりません。人の話によくよく耳を傾け、神の言葉を心の刻む必要があるんです。

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「わが魂の指揮官」

2015-03-01 07:30:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「インビクタス-負けざる者たち-」。BSで放映されたので、久しぶりに見ました。マンデラ大統領のリーダーシップと「虹の国」づくり。少数の白人が、政治経済を牛耳っていた南アフリカ。1994年にマンデラが大統領に就任した後も、議会はさることながら、少数白人が政治経済の中枢にいたことに変わりはなかった。1948年~1990年まで、42年間もアパルトヘイト政策が続き、その間にも白人が黒人を暴力や虐殺などによる力の支配をしていた。黒人は白人に対して強い憎悪を抱いた居たのも当然です。その憎悪を抱いたままでは、白人も黒人もインド人もカラード(混血)も国づくりにともに参加するという「虹の国」づくりはできません。

 この憎悪を捨てて、寛容の心、許しの心を持って、民族融和の「虹の国」づくりを現実にしたのが、マンデラだった。その彼を支えたのが一篇の詩、言葉だった。それが、「インビクタス-負けざる者たち-」。ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩でした。そして、「わが魂の指揮官」とは、その一節です。自分が自分の魂の指揮官であり、暴力で自分を支配する者のものでも、ましてや、上司や仲間のものではないと、ハッキリと自覚することですね。ハッキリとした自意識、覚悟、自覚、目覚め、気付き。

 1つの人類。エリクソンが大事にした考えです。しかし、それはマンデラが示したような寛容な心、許しの心なしではありえない。エリクソンもそのことを百も承知していましたね。ですから、アイデンティティ、すなたち、「私という感じ」a sense of I を確かにする道のモデルに、イエス・キリストを繰り返し示したわけですね。それはこのブログで翻訳しましたガリラヤの言い伝えと「≪私≫という感じ」にも、ハッキリと示されていますね。

 この寛容な心、許しの心の反対語が、「人間を上下2つに分けるウソ」ですし、そのために悪用する「正義の暴力」「正義のアビューズ」ですね。それについても、このブログで何度か取り上げていますよね。たとえば、管理教育の人でしたね。「正しいこと」は、管理教育の人(「教員」と一応呼ばれています)が、子どもや心理支援を裁く道具になります。そして、管理教育をする人が、子どもや心理支援をする私どもの「上」に立とうとすんでしたね。とんでもないことですね。それは、ナチスやポルポトや南京虐殺をやった日本軍と全く同じ「心の傾き」なのに、その病識を全くお持ちではないんですからね。

 私どもが学ぶべきは、寛容の心、許しの心であり、その心を支持する言葉なのは、明らかですね。

 

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