自然の中を冒険することには、きっと深い意味があるに違いない。
The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p100の第2パラグラフから。
きっと、もっと深い意味、永遠の意味、大切な意味があるに違いない、と私は確信しています。大地の美と神秘の間にいれば、科学者でも、普通の人でも、一人ぼっちであったり、人生に疲れたりすることなど、決してありません。
そこで感じるものが、深みへ、永遠へ、大切な何かに私どもを導いてくれるんですね。
自然の中を冒険することには、きっと深い意味があるに違いない。
The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p100の第2パラグラフから。
きっと、もっと深い意味、永遠の意味、大切な意味があるに違いない、と私は確信しています。大地の美と神秘の間にいれば、科学者でも、普通の人でも、一人ぼっちであったり、人生に疲れたりすることなど、決してありません。
そこで感じるものが、深みへ、永遠へ、大切な何かに私どもを導いてくれるんですね。
罪を何かの行為に結びつけることも、どうなんでしょう? それは救いよりも罪責感だけを強調することになりがちです。罪はあくまで「的外れ」なんですからね、
Young Man Luther 『青年ルター』のp187の第4パラグラフ下から2行目途中から。まだまだ、ホイジンガの引用の続き。
カルトゥジオ修道会のドニが空しくも人々に思い出させたことは、ドニが熱病や風邪や汚れた体液を罪と呼んだのは、比べるためだった、ということです。そのドニの教えは教義の制約を完全に無視した、世間受けを狙った思いでした。
次の文章からは、ルターが時として身体の一部や感覚に心奪われていたことに対して中世の背景を教えてくれます。
ドニは、行為ではなく、モノや状況と罪を結びつけました。それは教義から外れるだけではなく、本来の「的外れ」という意味の罪からも「的外れ」なものでした。
今日、NHKの「こころの時代」で、鈴木範久先生解説の「道をひらく 内村鑑三のことば」が最終回でした(再放送は21日(土)13時から教育テレビで、http://www4.nhk.or.jp/kokoro/)。
キリスト教道徳の第1に内村が挙げたものは「信仰」でも「希望」でも「愛」でもないと言います。第1に内村が掲げたものは「謙遜」であると言います。「基督教道徳では、普通愛が一番にみな語るけれど、実は謙虚である」と内村は言います(『第48講基督教道徳の第一 謙遜」、旧『内村全集』第6巻、p504-512、以下の引用もここから。ただし、仮名遣いは変更してあります)。
「謙遜」とは何でしょうか?内村は言います。「日本人の普通に考えおる所のものと根本的に相違していることに注意すべきである」として、日本人は、内面を問わずに外面だけを問題にする、と言います。ここでは、「謙遜」は、「建前」「見せかけ」「偽物」になります。でも、「本物」「本気」を大事にした内村が、「建前」「見せかけ」「偽物」をキリスト教道徳に第一に挙げるはずがありませんでしょ。実際、内村はそのような偽善的な「謙遜」は「百害あって一利ない」と断じます。じゃぁ、内村が言う「謙遜」とは何なのか?
内村にとって「謙遜」とは、第1に「自分を正しく知ること、自己の値打ちを正しく知ること」です。でも、そうするためには、自分の「良さ」だけではなくて、自分の「至らなさ」も含めて向かい合っていなくちゃできませんでしょ。すなわち、日々自己内対話、内省していなくっちゃね。
第2に、自分に与えられた能力を伸ばし活かしなさい、ということです。「自己に与えられし賜物をそのままに、その値だけに評価せよ」ということですね。
つまり、「自己の真価以上に見せるなかれ、また、真価以下に見るなかれ、自己に賜れる能力をそのままに認べし」、ということです。
ありのままの自分を認めて生きましょう。自分以上でも、自分以下でもない「本当の自分」を認めて生きましょう。それこそが、内村鑑三がキリスト教道徳の第1に掲げた道徳です。
私ども臨床に携わる者が目指すものも、実はこの「謙遜」「本当の自分」「ありのままの自分」です。