自然の中で感じるものは、私どもを深遠な世界にいざないます。
The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p100の第2パラグラフの4行目途中から。
毎日の生活に、イライラしたり、ハラハラしたりしていても、自分の思いが生きる道が見つかったり、心からの満足を感じたり、生かされていることに、イキイキと新鮮な感じを新たにすることに繋がります。
文字通り、自然の恵みですね。
自然の中で感じるものは、私どもを深遠な世界にいざないます。
The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p100の第2パラグラフの4行目途中から。
毎日の生活に、イライラしたり、ハラハラしたりしていても、自分の思いが生きる道が見つかったり、心からの満足を感じたり、生かされていることに、イキイキと新鮮な感じを新たにすることに繋がります。
文字通り、自然の恵みですね。
キリスト教で言う「罪」は「犯罪」ではなくて、「的外れ」のことです。
Young Man Luther 『青年ルター』のp188の第3パラグラフ下から。まだまだ、ホイジンガの引用の続き。
神の恵みをいただくことは、食べ物を摂るイメージ、あるいは、風呂に入るイメージのもとに描かれます。ある修道女は、キリストの血に浸る感じがして、卒倒します。赤く、温かい血が、5つの傷から流れて、聖ハインリッヒ・ゾイゼの口から心臓に至りました。シエナのカテリーナは、キリストの脇腹の傷から血を飲みました。他には、聖母マリアから母乳を貰った者もいます。たとえば、聖ベルナルドゥス、聖ハインリッヒ・ゾイゼ、アラン・ド・ラ・ロッシェです。
カトリックの方には馴染みのある名前かもしれませんが、プロテスタントの私どもには、ちょっと聞きなれない名前が続きます。いずれも13-14世紀の人でしょうか。神の恵みが、イエスの血を飲んだことや、イエスの血の風呂に入ることや、聖母マリアの母乳を飲んだことに繋がったようですね。聖餐式や洗礼式の象徴性が失われて、極端に具体化してしまった結果かもしれません。
エリクソンが、ホイジンガの文書を引用する中で、実在論が寓話、たとえ話に繋がっていたことを取り上げていましたね。今日は、その寓話の一つ「ブドウ園の労働者」の譬え、を取り上げてみましょう。
この寓話は、「マタイによる福音書」第20章1節~16節にあります。あらすじは、イエスが、「天の国は次のようにたとえられる」と語る所から始まります。マタイが「天の国」と言う時、それは「神が働いている場」普通は「神の国」と言われる状況を指していると考えられます。「主人が、ブドウ園で働いてもらうために、…出かけていきます」。夜明け、9時ころ、12時ごろ、3時ころ、そして、5時ごろと5回も人を雇うために、主人は出かけます。夜明けに雇った者には「1日1デナリオンの約束で」働いてもらいます。9時に雇った人には「相応しい賃金で」との約束で働いてもらいます。5時に雇ったものには、「あなた達もブドウ園に行きなさい」としか、主人は言いません。
賃金を払う段になると、主人は、後からブドウ園に来た者から賃金を払います。賃金は全員1デナリオンです。すると、朝からは働いている者から不満が出ます。「最後に来たこの連中は1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」ってね。でも、不平を言う方が当たり前ですね。しかし、主人は次のように応えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私は最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ。…」
そして、この寓話の最後が「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」となります。
神が支配する状況では、この世的な常識や「当たり前」を超えるルールが働く。それは、弱さが強さになる、活かされる、ということでしょうか? 一見「悪」に見えることの中に「良さ」があるのでしょうか?