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子どもがゲームばかりするのは、親が原因だ
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人生を左右する、良心の課題 ルネッサンス期の人々は、自由も表現も手に入れました。しかし、最も大事な課題が未解決でした。 You......
今朝の聖書の言葉は,κενῶ ケノー,空(から)にする,です。
このκενῶが出てくる,一番有名な聖句,『新約聖書』のパウロの手紙の1つの「フィリピの信徒への手紙」第2章6節~8節は,本田哲郎神父様によれば,誤訳だそうです。そこで本田哲郎神父様の翻訳を載せることにしますね。
「キリスト・イエスは,神としての在り方にありながら,神と同じ在り方にこだわろうとはせず,自分を空け渡して奉仕人(僕,奴隷)の生き方を取られた。イエスは見たところ他の人たちと同じであった。すなわち,姿はひとりの人にすぎないイエスが,自分を低みに置き,神の従属者(神に自分を合わせる者)として立たれた。それも死を,十字架の死を引き受けるまで」
このところは,まるでサイコセラピーなんですね。サイコセラピストは,神様に自分を合わせる代わりに,クライアントに自分を合わせる者です。違いはそこだけです。この聖句を、サイコセラピストと入れ替えると、だいたい、次のようになりますね。” サイコセラピストは,自分の見方にこだわろうとはせず,自分を明け渡して奉仕人の生き方を取り,自分を低みに置き(under-stand),クライアントの見方に自分の見方を合わせる者 ” ですね。
サイコセラピストは,クライアントを理解するために,自分を低みに置く(under-stand)ことが大事です。そして,クライアントの見方に自分の見方を合わせて生き,≪共に見る≫,≪共に見通す≫ことを旨としていくわけですね。そうすると、クライアントは、《本当の自分》、良心を取り戻して生きます。
こうして考えますとね,このフィリピの聖句は,カール・ロジャースのカウンセラーの3つの基本的態度を,一言で言い表したものだ,ということになりますね。