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インターメッツォ: 声を聴く時 恵みの時
「祈りの人」の実際の不自由 ルターは、初期に講義で言ってたと、後期で実際にやってることとは大違いでした。 Young Man Luther 『......
今宵も,Young man Luther P.213,ブランクからです。
ルター神学が進んでいる特色は,どなたでもたどる予定の心の成長の中のいくつかの舞台に擬えることができます。つまり,父子関係の内面化+良い良心への親替えです。または,職業人としても,人間としても,自分が確かにされること+根源的信頼感が繰り返し肯定されること。
神は、時空の端っこにコッソリ隠れているんじゃなくて、ルターにとって、「自分らの中で働かれる存在」になりましたでしょ。神様「へ至る」人生の習慣は,「自分ができることをすること」で,1つの目標を克己奮励して掴むもの,じゃないんですね。むしろ,神様の人生の習慣は,内側から湧き出るものです。via dei est qua nos ambulare facit 「(ラテン語で)神様の道は、私どもがその道を歩むものです」ってわけですね。神様は、いまや一人の人と言うよりも、ひとりびとりにとっては、身近な存在になります。すべての終わりに,顔を合わせなくてはならない脅しではなくて、神様は、いつも私どもの中で関係を始める存在です。ですから、神様の子は,いつでも新しく人,「ita et nos semper oportet nasci, novari, generari ラテン語で『ですから、私どもは生まれ変わり、元気を取り戻し、新たなスピリットに生かされるものとなる』」なんですね。「出来た」ってことは、いつでも、関係を始めること,「Proficere est nihil aliud nisi semper incipere ラテン語で『“出来た”というは、関係を始めること以外の何物でもありません』」ということです。縦糸と横糸のあらゆるパラドックスの交わりが,このように、人間がもともと2つにバラバラになりやすい本性にありますね。The two regna,「二王国説」は、神の恵みという現実面と、ケダモノのような本能的な側面が,人間が折り合えずにいることの中や、人間がこの世の中で生きていることの中に,存在することです。Die zwo Prosonen oder zweierlei ampt 「(ドイツ語で)2つの人格、あるいは、2様の働き」とは、キリスト者がこの世の中で同時に守らなければならない、2つの人格と、2つの天職になります。
この2つの人格とは何か? は「今は」問わないことにします。神学者、哲学者、心理学者はそれぞれ、人間を別様に切り分けますし、その分け方を一致させようとしても、何にもなりませんもんね。ここで大事なことは、ルターが、「心の中で」折り合えずにいることと、内省をやり遂げることを経て自分が救われた点を強調した点です。 ルターが、神様は,神の子が味わった十字架の苦しみというシンボルを経ることで初めて、ひとりびとりが知ることができますよ,とハッキリ言ったことは,後年,キルケゴールの実存主義やフロイトの精神分析において,探求された1つの方向性で,定義し直されましたね。その方法は,ひとりびとりを,体系的にひとりびとりを(訳注:意識と無意識の)境界線まで連れていく方法ですが,そこは,宗教的には,天にも昇る悦びを味わう境界線もあるでしょ。
今しがた、神学用語でお話したことを心理学的に言い直すことにいたしましょう。今まで私どもが悪い良心と呼んできたものは,フロイトが,超自我による自我に対する抑圧と,概念化したことと,多くの点で対応しています。もしも、この抑圧が、ひとりびとりの中でも,集団の中でも,支配的になる場合,経験の質が,生きてあることに特別な感じ,心の時空の特別な側面が強調されることによって,曇ってしまいます。実際悪い良心が束の間でも過ると,生きてあることに特別な感じがあるのがわかりますし,さらに印象的なのは,しばらく憂鬱な気分が続くことでしょ。そういう時に私どもは,妙に畏まり,身動きが取れなくなり,「お前は完璧からは程遠いぞ」と囁く,ドキッとする心の声の犠牲になってしまいますね。差し迫ってるのに,いつなのかは曖昧で,予測できない,悲しき運命の到来の時に,そのドキッとする囁きだけが聞こえてくるのでしょう。いまは,まだ私どもは罪びとですから,京大店はもらえず,おそらく完璧からもほど遠いんでしょうけれども。
こういった憂鬱な心の状態から,束の間でもいいから逃れること(ルターは、この世的には成功した頂点で、かつてないほど憂鬱な心の状態になったのでした)が、あの心の囁きと苦痛な取引をして,唯一しなければならないことになります。この(訳注:不安でたまらずにする)取引がくれる(訳注:叶わぬ)希望とは,「新たな出発のための足場が見つかるかもしれない」,「試練の時には,何とか及第点がもらえる方法を見つけて,及第点がもらえるかも」,エバッタ人がよく言うでしょ、「100点とれたの?」って。しばらくは,生真面目に,歯を食いしばって,ガッツで頑張る,「こんなつらい目も,間もなく終わりだから」,「こんなつらい目も,完了間近だから」,「このつらい目も,もうちょっとだから」,「こんなつらい目も,そんなに多くないから」,「次はうまくいくから」と念じてね。でも、みんなが,自然に,ある程度,この取引をしています。誰もが、口説かれて、ヴィジョンのある価値体系を信じ込むようになりますが、その出口は1つしかありません。そのヴィジョンのある価値体系は,それにピッタシの希望と絶望のシンボルで飾られ、その価値体験の宣伝マン,熟練工,拷問者によって,守られています。
人によっても、こういった憂鬱な心の状態が、心の習慣になってしまいます。ある種の信者は,こういう憂鬱な心の習慣の人から,人を集めてくるんですね。全ての人が,この憂鬱になるかもしれない心の状態から、世の中に対するイメージをこしらえているのかもしれません。ウィリアム・ジェームズは言っています、「ラテン人は、簡単に悪の圧迫を打ち砕いて、『病や罪をたくさん作り,細かいことはツベコベ言わない』にしてしまう」。だけど、ゲルマン人は,1人を際立たせ,『一人の罪と罪を強調する』…(訳注:その罪責感たるや,)私どもの自然な心に根深く植え付けられ,ちょっとやそっとのことでは,抜きがたい」と言いますでしょ。これが本当ならば,気候が物を言うのかもしれませんよね。太陽が、北欧の冬に、2度と姿を現さないのじゃぁないのかな?と思うくらい、ハッキリと沈んでしまう程、いつまでも続く闇と、運命を左右する程の寒さが、それだけ長く続きますから、元に戻らないんじゃぁないのかな? という感じにもなり,もうダメかもしれないことに対して,とにもかくにも、全面的に合わせなきゃ、ということにもなってしまうのかもしれませんね。ルターが、定期的に繰り返し憂鬱な心になったことから、ルターは絶望も病も「しょうがない」と思ったり、死を差し迫った危機だと思ったりしたのと、同じ理由から,ルターが哀愁に満ちて、哲学的に一番賛成できない考え(個人の運命は、あらかじめ決まっていて、個人の努力では変えられない、という考え)によって、あの、どん底の冷たい岩のような気分やら、あの背景をなした全くの闇やらを、表現したのかもしれませんね。それはそれは、北国育ちの人々にとっては、春が来る条件ともなります。
4年前の10日分ですから,時間がかかりましたね。
ここでエリクソンがハッキリ示しているのは,根源的信頼感の豊かな人の心の習慣と,ウソつきの暗い取引をしながら生きる心の習慣です。
一番印象に残るのは,暗い取引が,非常に具体的に書いてあることです。ルターも,エリクソン自身もかつてはこの,暗い取引の虜であったことに間違いありませんね。「…もうちょっとだから」などと,グレーのメッシュのボールドで示してあります。