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インターメッツォ: レクティオ・ディヴィナ : イエス・キリストの信実
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今宵も,Young Man Luther 『青年ルター』p.211,真ん中あたりから。
ルターが『旧約聖書』の詩集「詩編」の話をする際に,『新約聖書』のパウロさんの手紙の一つ「コリント人への第一の手紙」を25回(「ローマ人への手紙」の話をするときは,1回しか引用しなかったのに)も引用しているとして,第一章22-25節と,第二章1-3節を引用します。今宵はその引用の後から。
一応,その聖書個所を,前田護郎先生の翻訳から引用しておきましょう。
第一章22-25節
「22実にユダヤ人は徴を求め、ギリシア人は知恵を欲します。23しかしわれらは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。彼はユダヤ人にはつまずき、異邦人には愚かです。24しかし招かれたものには、ユダヤ人でもギリシア人でも、キリストは神の力、神の知恵です。25それは、神の愚かは人間たちよりも知恵があり、神の弱さは人間たちよりも強いからです。」
第二章1-3節
「2章 1兄弟方、わたしもあなた方のところへ行くに当たって、すぐれたことばや知恵を用いて神の証をのべ伝えることをしませんでした。2それは、あなた方の間で、イエス・キリストのほか、とくに十字架につけられた彼のほか何も知るまいと決めたからです。3わたしは弱さと恐れと多くのおののきのうちに、あなた方のところへ行きました。」
心理学的には謎でしかない「十字架の愚かさ」,すなわち,「神が愚かで弱いという二律背反が,ルターにとって,神学的には絶対的なことになった」ことを,「十字架の愚かさ」が,なぜ叡智といえるほどの知恵であり,強いのかを,エリクソンが私どもの日々の生活に役立つ形で,教えてくれているところです。
extra crucem 十字架のみ(直訳は「十字架以外」ですが,「十字架以外は見ない」という意味ですから,「十字架のみ」になります)を,人間の良心,良い良心の点で,エリクソンが,体験に基づいて語っているところです。ことによると,ボンヘッファーをエリクソンは読んでいるかもしれないなぁ,と感じるところです。
こうして,ルターは,十字架に関する神学的な屁理屈は捨てました。ルターは,聖アウグスティヌスのご意見,“十字架の上で,キリストが「Deus meus, quare me derelequisti 神様,どうして私をお見捨てですか?」(訳注:という「詩編」の言葉を引用して)言った時に,キリストは見捨てられたわけじゃぁ,ありませんよ,だって,キリストは神の子であり,神の言葉として,神だったから” は,取りませんでした。ルターは,聖パウロが真理に近づいた,って,感じざるを得ませんでした。それは,ルターが,この世の中で実際に生きているときに感じる二律背反を考えた時のことでした。ルターは,形而上学的に,ことの本質が融合するなんてことは考えません。ルターは,「キリストは神様から完全に見捨てられたんだぁ」,「キリストは,真心から,能動的に,神様の予定通りに,地獄に行ったんだぁ」と言ったんです。ルターが情熱的な言葉でここで語ったことは,中世の神崇拝とは,全く違うものでした。ルターは,すべてを創造した点に持ち味がある1人の人について語っていたんです。すなわち,ひとりびとりの人の中に生きて,同時に,すべての人の「中で」,すべての人の「ために」であっても,死んでいる1人の人について語っていたんです。聖人たちが,「人は,この世の中で苦しんていることすべてを心に抱く必要などない」と言ってたことすべてを拒否したことは明らかでした。死に物狂いで,長いこと掛けて,ルターが抗い克服しようとしたことを,いまや神様からいただいたプレゼントとして受け容れたました。それは,すなわち,まるで,すでに地獄にやられたみたいに,神様から完全に見捨てられた感覚,sicut jam damnatus ,でした。最悪の誘惑は,何かを持っていることじゃない,とルターは言いますでしょ。神様が一番お怒りになるのは,神様が全然怒っていないように見える時に決まってますでしょ。ルターは,「できることをおやんなさい」と人に勧める,善意(bone intentionari)の信者に警告してんですよ。目ざとく,神様に障りになることをサッサとやらかして,礼拝に参加することで救われて,限度額までキリスト教会に献金することを忘れず,まるで「そうすることが,私って,けっこう謙遜で円満でしょ」と言わんばかりに,人に勧める「善意の」信者に警告してんです(訳注:そんなんじゃキリストを信頼することにまるでなりませんよ,そんなの「地の塩」でも,「世の光」でも,何でもないイ偽物・似非クリスチャンですよ,ということ)。その代わりに,ルターの先輩たちが,ルターの悪いところだとしたところ(私どもが,「病気」と言ったところ)から,1つのスピリットをこしらえました。すなわち,自分が罪深い存在であるどん底を,心を決めて注意深く調べるを中から,スピリットを見つけました。自分が罪深い存在であることを注意深く調べる決心をした時だけ,人は神様が裁く(許す)みたいに,自分自身を裁く(許す)ことができる,とルターは言います。conformis deo est et verax et justus. 「神と同じ顔になる者は、真実であると同時に、正義である」。私どもは,このように,神様と同じ顔になることは,神の裁きの顔の中で,完全に受け身になることだと考えることもできます。しかし,神の裁きの顔の中で,完全に受け身になることは,実際には,能動的に自己観察をすることを心に刻んでおきたいものです。この自己観察とは,良心の最前線を,ウソのない罪の感性がないかと隈なく探すことです。私どもは,自分と関わりのない,機械仕掛けの絶対的な神様を受け入れるのではなくて,ウソのない罪に正面から向き合う点を力説します,すなわち,実際には,ひとりびとりが真実に本気で下した自分の判断を,神様の裁きとみなす点を強調します。
神様が閻魔様みたいでしたら,こうは問屋が卸さないところかもしれません。
しかし,聖書の神様は,厳しさもあるけれども,心から優しい方ですから,ルターの判断,エリクソンの判断が,物を言うことになります。
本来は条件がないのですが,このようにエリクソンが言うとおりにするためには,よっぽど,自己観察=内省の日々を重ねないと,やすやすと,ウソとゴマカシになりやすく,そうすると,キッチリと内省をやり遂げることができないことも,敢えて,付け加えておきます。