久振りにジローさまから電話があった。
家で飲んでいるので妻と二人でおいでとの事だった。
行くとテラのオヤジも来ていた。
ヒトミちゃんもふっくらとなって安心した笑顔だった。
ジローさんの仕事も営業に配属されたようで、以前のような過酷な状態からずいぶんと開放されたようだ。
「ケンちゃん、今年は絶対に奥武島に行かんといけんバイ!」
と言っていた。
そして昨日、今度はテラのオヤジの家に呼び出された。
グッチにセイのオヤジがいた。
この時期になると次期会長の話になる。
我が自治会の会則では会長職は2期で再任を妨げるになっており、現会長は再任できないわけだ。
そんな話をしていたらジロー夫婦がやって来た。
そしてケイのオヤジもやって来た。
次期会長の話は以前から出ていて、誰がなってもおかしくはないのだが、やっぱり仕事を持ちながらの会長職は厳しい。
実をいうともう決まっていたのだ。
上記のような条件が付けば、おのずと絞られてしまうのだ。
名前を聞いてビックリ。
ここでは言えないが、大丈夫なのかと驚いた。
「俺達が使いやすいのが一番」
などとケイのオヤジは言っている。
さあ、いよいよ年度末、しかし今年は母の件で、ここ数ヶ月は動きが取れないようだ。
寒の戻りと春の「春眠暁を覚えず」とかが気持ち良い眠りを妨げない。
朝起きて時間を見ると7時だった。
あわてて朝飯を食って時間を見ると7時20分を過ぎている。
こりゃまたいかんと、忘れないようにケータイや身の回りのモノを確認する。
バタバタと、7時35分の青ガエルにやっと乗り込む。
3月なのに寒い朝だ。
上熊本から在来線で熊本駅、いつものパターンだった。
博多駅行きはなぜか続いている。
8時7分の新下関行きさくらに乗り込む。
8時45分に博多駅、今日はそのまま在来線に乗り継いで仕事場に向かった。
路線バスを待つよりそのほうが時間的に早いと思ったわけだ。
電車の乗り継ぎはスムースだった、電車は6分もしないうちに目的地に着いた。
だから9時前にはその駅に着いたわけだ。
だけど初めての駅(場所)ケータイの地図を見ながら右往左往、結局、現地に着いたのは通常のバスで来るときと変わらない時間だった。
やっと仕事場に着いてトイレに行くと
あれれ!
背広の下にパジャマがある。
パンツにパッチに、なんとパジャマだった。
あわててパジャマの上から背広のズボンを履いてきたわけだ。
足を組むとベローンとしたパジャマが見えるので気を使った。
仕事が終わり博多駅。
あれれ!
なんと九州新幹線が全面運転見合わせだ。
状況は詳しく解らないが、すぐさま娘に電話した
「新幹線が止まっているので、泊めてくれ!」
そんな「あれれ!」の一日だった。
朝起きて熊本電鉄の青カエルに乗って熊本駅まで来た。
8時7分発の新下関行きのさくらを待っていると、ちょうど8時頃だったか、ドーンと軽い地震があった。
そういえば九州新幹線の開業の前日に東北では悲惨な震災と大津波だった。
一年経った今日も、九州新幹線のイベントは熊本駅、博多駅ではほとんど見かけなかった。
ダイヤは普通どうりに流れていた。
寒の戻りの冷たい日だった。
前日なぜか眠れなくて午前2時頃からうとうとして、朝から頭くっりきの不思議な朝だった。
前日の東北大震災のテレビ映像が影響しているのか、実家への帰省の疲れなのかわからない。
再び福岡での連続した仕事の始まりへの期待かも知れない。
朝飯食って今日は新幹線の中で熟睡できると思った。
しかし新幹線開業1周年、おまけに熊本駅のホームでドーンと軽い地震、なんとも不思議な一日だった。
博多で仕事をして、博多(というか福岡の街を彷徨った:これは又次回に)夕暮れの迫る寒い中、ようやく博多駅にたどり着き、19時41分のさくらで熊本まで戻ってきた。
帰りの新幹線でビールとつまみだ、寒い中1時間近く彷徨ったのと眠気がさしてきたが、今自宅に帰ってきてやっとほっとしている。
明日からも再び博多に通う。
娘のアパートに泊めてもらう事も出来る。
そう考えれば、去年と違って新幹線の開通とは、私にとってありがたいのかも知れない。
水俣チャンポンを求めて天宝閣にやってきた。
店に入ると以外に広い。
入り口には昔懐かしい電話のレプリカが置いてある。
テーブル席に、座席、奥にはカウンター席がある。
ほぼ満席状態だった。
メニューを見ると990円台で統一されていた。
当然私はちゃんぽん、妻は皿うどんだった。
出前もしているのだろう、注文するとき
「少しお待たせしますが、よろしいでしょうか」
と云われたがこちらは別に急いでもいないわけで
「かまいませんよ」
と返した。
出てきたチャンポンにビックリ。
ちょっと大きめで深い皿に野菜がたっぷりと濃厚なスープ。
そして妻の皿うどん。
これまたどでかい皿にビックリな量だ。
取り皿をもらい分け合って味見だ。
さすがチャンポンはすっきりとした正統派の味だ。
そして皿うどん、かなり甘めの味だった、妻は酢醤油を捜していた。
こんな甘い皿うどんは初めてだ。
それでも最初はこの量食えるのかと思ったが、完食だった。
天宝閣 (テンポウカク)
熊本県水俣市大黒町1丁目3-18
裕福でない我が家は実家に帰省するのに新幹線は使わない。
パジェロIOもガソリン食いなので使わない。
どうせ妻とクーと2人と1匹なので軽のミニカになるのだ。
パジェロIOだとガソリン代は往復で4000円くらいかかってしまう。
それがミニカだと半分の2000円あればじゅうぶん往復できるのだ。
裕福でない我が家では高速も使わない。
国道3号線を行き来している。
実家に帰ると沈丁花の花が満開を迎えていた。
そしてお隣の梅も綺麗に咲いていた。
芝生の庭には雑草が生え始めている。
取っても取っても次から次に生えてくるので放置状態なのだ。
実家について一息入れて母の病院に向かう。
母の病室は4人部屋、お隣のおばあちゃんと仲良くなって飴やチョコレートをあげると嬉しそうに頂いている。
そんなお隣のおばあちゃんのお見舞いに来た方と話をしていると、そのおばあちゃんの妹さんという事らしい。
さらに話をしていると私の同級生のお母さんという事が判明した。
私は6年生になった時この街に転校してやってきた。
そのときずいぶんと大人気な背の高い女の子がいるなと気になった、その子のお母さんだったのだ。
家が近かったので小学、中学、高校と一緒に良く遊んだものだ、今はこの街で保母さんとしてまだ現役で働いているそうだ。
その子は高校を卒業すると地元の保育園に就職が決まっていた。
私が高校を卒業してこの街を去った後も保母さん一筋で頑張っていたわけだ。
結婚して2人の子供を大学まで出して、とお母さんは言う。
竹馬の友という言葉があるが、そんな懐かしい会話だった。
震災から一年が経った。
あの日、私は博多に居た。
事務所で東北の客と電話で話をしている同僚が
「東北で大変な地震があってますよ」
と言っていた。
仕事は夕方に終わり、ダイア改正でラストランを迎える「リレーつばめ」に乗り込んだ。
リレーつばめのラストランの列車に乗り込んで家に帰るとテレビで津波が家を飲み込んでいく悲惨な光景を目にした。
午後の8時頃だったと思う。
あの痛ましい光景に唖然となったものだ。
なんでこんな事が起こるのか・・・。
そして福島第一原発の事故。
報道は乱れ、いったい原発がどうなっているのか一時は不明だった。
一夜が明け津波に飲み込まれた無残な街の光景が映し出された。
テレビ番組はすべて報道番組に編成されCMもすべて中止された。
テレビでは原発に詳しい専門家たちが安全性について議論していた。
そして20km管内の非難が出された。
専門家たちや政治家たちは、なぜ20km範囲なのかに議論に議論が集中していた。
テレビに映し出される自衛隊ヘリによる炉心への冷却放水、特殊放水車による放水が始められた。
そんな映像を見て、なんて人類は無力なのだろうと思った。
電力を作る原子力発電所が電源喪失したわけだ。
想定外などと言葉が出てくるが、そんな言い訳は通用しないだろう。
東電の社長はその後入院。
当時の首相は現場にも何度も口を出し、具体的な解決法は無かった。
震災から1年が経ったわけだが、被災に合われた方々には大変な一年だったと思う。
気持ちを同じにしてという言葉がよく出てくるが、そんな事できるわけるわけ無いわけだし、震災にあわれた方々を救うことも出来ないわけだ。
「さあ、一歩一歩、前に進もう!」としか私には言えない。
docomoからの請求書とNTTからの請求書だった。
docomoの請求書は新規登録した時の事務手数料と基本料金の980円だけだった。
固定電話のほうはと合計金額を見ると4000円を超えていた。
通話明細があったので明細を見ると毎日のように通話記録が残されていて明細は2ページに渡っていた。
通話先を見ると数箇所に渡っていた。
通話時間の短いものもあるが、20分とか40分とかもある。
独居老人みたいな母の生活を表しているようで、なんだか胸が苦しくなった。
この番号はたぶん母の実の妹の電話番号なのだろう、6,7分から10分前後が毎日のように記録されていた。
そういえば入院した母、一番に持っていったのはケータイだった。
ところが母のヤツ、手術をした夜、集中治療室から電話をしてきた。
今では病院でのケータイは昔みたいに厳しくはなくて、ある看護師さんは
「今はケータイは大丈夫ですよ」
と言っていた。
しかし集中治療室はいくらなんでもダメだろう。
翌日、病院に行って母にその事を聞くと
「内緒でかけた」
と言っていた。
今では私達が実家にいると
「アレ持って来て」
とうるさいようにかかってくるのだ。
電話がなるたび、妻と顔を見合わせて、クスッと笑うのが習慣になりつつある。
ケータイの2年縛りかやっと開放された。
なのでスマートホンに切り替える事が出来る。
スマートホン購入のため先ずはスマホのサービス状況を調べる。
私の場合はdocomoなので話はdocomoの話になる。
docomoの話なので端末のOSはAndroidになりGoogleケータイということだ。
Xi(クロッシィ)モード、SPモードなど新しい言葉に慣れないでいる。
Xiモードとは4G移行へのスーパー3Gの事のようだ。
LTEとも呼ばれ受信時最大75Mbps、送信時最大25Mbpsの超高速データ通信網。
しかしまだサービスエリアは狭く、県庁所在地の一部しかカバーされていない。
現在のFOMAハイスピード では下り最大14Mbps、上り最大5.7Mbpsの通信速度、それがXiでは下り最大75Mbps、上り最大25Mbpsという光に近い通信が出来るのだ。
それに対応している機種も発売されているがこのXiはまだ先の話のようだ。
ところでiモードはスマホでは話が出てこない。
iモードメールやiモード対応のブラウザなどはどうなってしまったのだろう。
iモードメールの方はSpモードが引き継ぐようだがそうするとSpモードの契約はしなくてはいけない。
この件が一番気になっているのだが、blogのアップも簡単に出来ていたのに、まさかフルブラウザからアップしないといけないのだろうか?
Wi-Fi(ワイファイ)という言葉も良く出てくる。
無線LAN規格のなかのIEEE 802.11a/IEEE 802.11bの事のようだ。
今売っている無線LANルータのほとんどがこの規格に対応しているのでルータを無線に変えるとこのWi-Fiの環境が出来るわけだ。
スマホをこの無線LANにつなげて(Wi-Fi接続で)ネットに出す事が出来るようだ。
パケット代もかからないし高速通信が可能になる。
しかし家ではやっぱりパソコンでしかネットは使わないと思う。
その逆でテザリングという機能を使えば、スマホがWi-Fiルータとして5,6台の端末をつなげてネットに出す事が出来る。
当然パソコンをWi-Fiでつなげてパソコンからネットに出せるわけだ。
ようはFOMAがつながるところではスマホをルータとしてパソコンからネット接続できるわけだ。
これは使えそうだ。
しかし、これパケホーダイに入っても上限が8,190円と高額になるので注意が必要という訳だ。
8,190円にspモード代に通話料金、軽く一万円はするわけだ。
我が家のネット環境はケーブルテレビ、ネットにIP電話、そしてケーブルテレビで付きの9000円弱なので総額を超えてしまうわけだ。
何で通信料にこんな高額を支払わなければならないのか・・・。
パケホーダイ(ダブル)も今では月に2、000円も使えば良い方だし、スマホになれば5,460円は確実に払わなければならない事は目に見えている。
Wi-Fiを探して街中を歩く事は無いと思うし、スマホにパソコンぶら下げて使うことも考えにくい。
前回購入したケータイ、フルブラウザやGPS機能iコンシェル、結局電池の消耗を考えて使用に耐えられなかった代物だ。
スマホに変えて目に見えない料金を取られるより、当分の間フィーチャーフォンで十分なような気がするのだけど・・・。
約3分で上熊本駅に着く。
そこで熊本ー博多の2枚キップを買うわけだ。
そのキップは7,000円する。
そのキップには水前寺駅、上熊本駅までの乗車券も含まれているのだ。
以前はそんな事知らずに、上熊本駅で熊本駅までの200円のキップを買って、熊本駅で2枚キップを買っていた。
そんな訳で今では福岡出張の時は公共交通機関を利用している。
7時35分の青カエルは上熊本駅には7時40分に着く、上熊本駅を7時47分の八代ゆきの普通列車に乗り込み熊本駅を8時9分の新下関行きのさくらに乗り込む。
博多駅には8時45分に到着する。
帰りはまちまちなのだが新幹線を降りて在来線用の改札を抜け、地下通路を通って在来線乗り場に向かう。
ここからが問題になる。
連絡待ち30分などザラなのだ。
30分待って上熊本に着くと、青カエルはたった今出て行って、ふたたび30分待ちとなるのだ。
熊本駅から1時間以上もかかってしまったりしてしまう。
しかしクルマを運転しなくて良いので、たまには上熊本駅前の食堂でおでんにビールとなってしまう。
それはそれで楽しんでいるのだ。
「〇〇、氷下魚(コマイ)とホッケにイカ、そのほか見繕って送ってくれ」
などと電話している。
妻に電話を代わり配達日の確認をしていた。
つまり送り先はわが家で受取人は妻ということだ。
ケイのオヤジの家は50mも離れていない。
そんな事があって、今回の母の緊急入院、打越町にはいなかったのだ。
「ケイさん、たぶん今日あたり着いているかも知れん」
と電話すると
「今からおまえん家に行って見る」
そしてやっぱり不在連絡が入っていたようだ。
「連絡して事情を話して俺の家に配達してくれるそうだ」
と連絡があった。
そんな訳で、打越町に帰って来てケイのオヤジからのおすそ分け。
今回はお頭付きの氷下魚、なにやらグロテスクな顔つきだ。
しかし身はホクホクしていてポン酢で最高。
そしてイカ飯。
「やっぱり違うね。北海道展などで買って食べるのより、数段美味しい」
と妻は言っている。
そのほかにホッケやイカもいただいたようで、それは次回という事で・・・。
そして奄美大島から「高倉」を頂いた。
モンドコレクションを受賞した黒糖焼酎だ。
何しろ作ろうとしても奄美大島でしか作る事が出来ないといわれる焼酎なのだ。
度数は30度、1本3000円くらいするそうだ。
しばらくは母の看病疲れを癒すのに、北の海産物と南の島から届いたお酒で癒されようか。
振り向くと誰もいないのだ。
妻がお店のドアを開けてこっちに来いといった仕草をしている。
入ったお店はモンブランフジヤというスイーツ専門店だった。
店内に入ると甘い香りが漂っている。
母へと同室の方へお土産として買うのだそうだ。
妻も娘も決めかねていたようで
「この水俣ちーずって良いんじゃない」
結局、そのケーキとデコポン入りのケーキを買っていた。
病室に戻り母にやっていた。
母もうれしそうに食っていた。
母の隣のおばあちゃんにあげると、ベットの上で美味しそうに食っていた。
だけどうまく食えなかったのだろう顔中チョコレートだらけになり看護師さんから笑いながら怒られていた。
家に帰り
「おとう、食べてみたら」
と娘が言うので食ってみた。
いつもは甘いものを食わない私だが、食ってみるとそんなに甘くなくチーズの香りが素晴らしい。
たまにしか口にしないのになんとも幸せな気分にしてくれる。
不思議な食べ物なのだ。
きっと病院での母もあのおばあちゃんもきっと幸せな気分になったのだろう。
土曜日と日曜日のランチは水俣チャンポンの発祥の店に行った。
しかし両日ともお休みなのだ。
ホントにこの街はのどか過ぎる。
土日というのに商店街もシャッターを閉めていてまったく商売っ気が無い様だ。
娘も帰って来たので、2日続けて水光社という生活協同組合が運営するデパートだ。
その3階にファミリーレストランがある。
私は決まってチャンポンとおにぎり、娘はうな重だった。
妻もチャンポン、次の日はカツ丼などを食っていた。
妹の婿さんもここのチャンポンが大好きらしく帰ってくるたびに食いに行ってるようだ。
しかし彼の場合は体格もいいほうなので大盛りを食っているようだ。
ここのチャンポンは濃縮な海鮮系のダシのようで家庭ではマネ出来ない味なのだ。
小ぶりの茶碗で420円といったところだ。
ちょっと物足りないのでおにぎりを1個追加する。
おにぎりのお米とチャンポンのスープがまた合うのだ。
水俣市内の14の店舗でこの水俣チャンポンを売り出している。
今までこの水光社のファミレスと矢城食堂のチャンポンを食した。
機会があったらぜひすべてのお店のチャンポンを食してみたい。
そんな事を考えている間に妻と娘はスイーツを追加注文していたのだ。
全盛期に華やかに生まれたこの列車たちも今年3月で引退する。
新幹線の博多駅を降りると100系300系の引退記念ブースがあるという。
時間に少し余裕があったので行ってみた。
最新の技術で作られたその当時は最新の列車達だ。
さまざまな人たちを様々な思いで運び、そんな思いを北から南へと運んでくれた乗務員たちの気持ち。
それを支える設計技術者たちもいた訳だ。
そして保守メンテナンスを行う人たち・・・。
時代はN700になろうとも同じだろう。
東京オリンピックから始まった新幹線時代、今後も進化し続け、いずれN700の引退時代も来るのだろう。
物事には始まりがあり終わりがある、悲しいことだけどいたし方無いのだ・・・。
とりあえず水曜日に打越町に帰った。
そして今日、再び実家に向かった。
病室に入るとベッドに横たわった母だ。
痛みもすっかり消えて、リハには励んでるという。
家からの品物もかなり増えて来た。
退院まで何日かかるか解らないが、母に対面するたびにあれもこれもと家から持ってくるものが多い。
それでも言われるまま品物が集まるのだ。
退院する頃には大変なことになってなければ良いのだが。
リハはとりあえず立ち上がる事と屈伸から始まっているようだ。
今日はひな祭りの日だった。
病院の食事スタッフから暖かいメッセージ付きの食事だった。
何はともあれ30kgの体重ではリハに立ち向かえない。
今まで独居老人みたいな生活で食うものも適当で、食いたくないときは食わないで適当にしていたのだろう。
病院ではそんな食生活から見直すのだ。
当然、カロリー計算も塩分なども計算された食事。
母もしばらくはこんな生活が良いのかも知れない。
そう思った・・・・。
妻が乗ってきたミニカは一応4人乗りになってはいるが4ナンバーのため後部座席は作り物でしかない。
しょうが無い母のクルマをお借りする事になった。
買ってすでに4年目になる初代パッソだ。
しかし走行距離はまだ15,000km。
実家に帰って買い物などには使った事はあるが、実家から自宅までの長距離は初めてだった。
室内も広くてたぶんパジェロIOより広いだろう。
コラムシフトに足踏み式パーキングブレーキ、小物入れやカップホルダーがあちこちにあり使いやすい。
そしてコイツの一番いいところはリッタカーの車体に1.3リッタのエンジンが付いているところなのだ。
ダイハツの4気筒エンジン、軽やかなエンジン音。
今回は高速は使わず国道を使ったが40kmから60kmへの加速などパジェロIOやミニカでは考えられないパワーで快適運転だった。
ただステアリングが少しアンダーステアなところがあり、カーブで思ったより曲がらない所が気になった。
まあ、ミニカは貨物車でパワーウインドーも無ければ、給油時には鍵を持っていって給油口を開けなければいけない。
まあクルマの原点みたいなクルマで、街中を走っているとゴーカートに乗っている気分になったりする。
パジェロIOはというと一番の欠点は車重が重いので軽快でない、おまけにガソリン食いのクルマなのだ。
そしてコイツだけ運転席側に給油口が付いている。
スタンドで何度も間違うクルマなのだ。
そういう意味でこのパッソ、ちょっとした買い物も長距離の運転にも快適に使えそうだ。
燃費も良くてパワフルな車として印象に残った。
あの母がこんなパワフルなクルマに乗っていたとは、こちらもビックリだった。