銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

山口子さんの栄光と急逝

2010-03-04 15:35:03 | Weblog
 自分の個展に事寄せて、銀座の画廊の解説を三日前から始めさせていただいています。そろそろ、京橋が近づいてきました。となると、忘れられない人が、心の中に急浮上をして来ます。で、ひとまず、その人物・山口子さんについて、語らせてくださいませ。一丁目と二丁目(ともに東側)にある画廊は、また改めて紹介させていただきます。

 ここで、栄光と書いたのは、彼女が私と同い年であって、例の『魅せられたる魂』や、『第二の性』を愛読した世代に当たり、そこに描かれている<女性の自立>を文字通りに体現した人だからです。人につかわれる立場ではなくて、社長という立場で、しかもきれいで上品な場である画廊がその舞台です。
普通なら画廊のオーナーとは裏方のはずですが、彼女には、なんとは無い華やぎもあり、スター性もありました。常に50代にしか見えませんでした。ある人が『お姫様』と表現をしましたが、それがあたっているかも知れず、私は、他のオーナーに気兼ねをしながらですが、正直に言って、銀座(+京橋)で、一番好きな人であったぐらいです。このお姫様か女中かという分類は、まったく別の機会に、後で出てくる山口千里さんから、私自身が「どっちなの?」と質問を受けた、女性を分類する手法のひとつですが・・・・・

 ギャラリーアーチストスペースが画家の溜まり場として、にぎやかだと申し上げました。あちらは、スペースが狭いので、お客さんが体を接しかねないような熱気に満ちています。主役が秋山祐徳太子さんなどなので、そういう持ち味が出ているところです。
ギャラリー山口の方は、もっと広いし、主役が山口子さんなので、その持ち味が反映して、もっと、静かでした。が、それでも、訪れるお客さんが多くて、しかも、名望のある人が多くて、立派な画廊だったのです。

 それは、若いころから、建畠覚造、野見山暁司、篠原有司男、堀浩裁など、現代アートの世界のそうそうたる大物の個展をなさってきて、それらのかたがたにかわいがられてきたと、いわれているからです。お互いがお互いを引き寄せて、ある特別な世界をおつくりになっておられました。だけど、そのお姫様と言われるゆえんがあって、ある主の控えめなところと、結構はっきりものをおっしゃるところとが微妙に混在していて、ともかく、亡くなって見ると、言うにいわれず、もっと、親しくお話をしておけばよかったと思う人なのです。

 外部の人は言うでしょう。「あなたごときが、何を言うの?」と。だけど、亡くなる60時間ぐらい前にあっていて、そのときに返してもらってもよいものが、スタッフさんへのの伝言として1月30日の土曜日に、私に手渡されたときに、突然ですが、私は確信しました。それ以前から、ひそかに感知していた、山口さんと自分との紐帯を、『やはり、あったのだ』と。

 それは、本が四冊です。2007年の秋に、お宅に「だれそれが訪れたときにあげてください」と頼んでおいた、私の四冊目の本、『伝説のプレス』でした。それをきれいなかつ小さなサイズの紙袋に入れ、「川崎さんに渡すように」と伝言をされたのが、亡くなる二日前から亡くなる当日までの間です。しかも、あと二週間以内に、画廊を閉鎖するという超がつく忙しさの中で、その処理が行われました。事務室を整理するときに、この四冊の『伝説のプレス』を、見つけられたのだと感じます。

だけど、そこまでしなくても「あげたわよ」で済むはずのものでもあります。私がそれらの四人に向かって、「あの本の感想は、いかがでしたか?」などと、問い合わせるはずも無いです。

 実は亡くなったあとで、「急にやめるのが、困ると、談じ込んだのだよ。僕。本当に予定が狂うもの」という方もあって、そういう電話もかかってきていた大変なストレスのさなか、画廊にいるのは長くて、八時間でしょう。それが二回しかない段階で、どっちでもよい小さなことに気を使っていただいて、すごく恐縮すると同時に、それ以前のあれこれ、自分が推察していたことが、当たっていたことを感じました。

 それは、まず、2006年のシンポジューム『金と芸術』です。これは、私の当時のメルマガの文章から、発想を得られたでしょう。それを確認したことはありません。昔は、こういう、無名ゆえに上澄みを断りなしに掬い取られることに憤慨したりしましたが、2005年以降は、それは、なくなっていました。

それから、2006年に、私が今よく言う、例の言論の弾圧の、最初期が始まって、パソコンに大変調をきたし、びっくりして大混乱に陥って、2ヵ月後に予定していた、ギャラリー山口の個展を、キャンセルさせていただいたことがあるのですが、

 まず、「川崎さんのいろいろを聞いても仕方が無い」と、私をさえぎり、その次に、「あなたはご主人に、愛されていらっしゃるから」とおっしゃったのです。「だから、愚痴なんか言わないで」ということが、無言のうちに秘められていて。・・・・・

前の方については、私も『はっ』と思って引き下がりました。これに似ている例としては、こいちさんという方が、インタビューアーとなって銀座の画廊街に住む人々を取材したホーム頁があるのですが、その中でも、こいちさんが、たじたじと成っている模様が出ています。きちんと、「いやなことは、いやだ」とおっしゃるわけです。そこは、動じるところは無い。しかも断り方が上品です。だけど、この断られることで、面子をつぶされたと、気を悪くした方は大勢いるかも知れません。

 でも、私はその次の言葉に、驚きとともに、申し訳ないという感じを受けたのです。まず、『愛されている』という日本語は珍しいです。「ご主人に、大切にされていらっしゃるから」なら普通ですが、「愛されている」は、欧米の本を愛読している人の言葉です。これを、聞いたからこそ、彼女が、『魅せられたる魂』派だと感じたわけです。

 それを聞いた瞬間に、『彼女と私の生活が、表裏一体のものであり、どちらが、どちらを選んだか、正解は分からないなあ』と感じたのでした。彼女こそ、もしかしたら、結婚して普通の生活を送ることが、向いている人だったのかもしれないのです。それは、若いころには、本人にさえ見えない本質であり、私だっていまだに、自分探しをしているほどです。私こそ、女・チェ・ゲバラになって、あっという間に死んでしまったほうが、自分にふさわしい生き方だったかもしれない。し、音楽の才能は無いが、シューベルトなんかは、性格や生き方は、似ていると感じます。
 シモーヌ・ヴェイユも近いです。だけど、自分が特殊であり、芸術的志向が強いからこそ、普通であることを希求したのです。それが私にとっての、バランス感覚というものです。・・・・・・一方で、よろいを着て、きちんと社会に面していた山口さんは、静かな世界が、実際には、向いていたのかもしれません。分からない。本当にわからない。ただ、私がどんなに悲しいか?

 そして、本当は膨大な文章が書けそうだったが、抑えたのです。が、その本当の理由さえ、明晰には語れません。
 第一章だけは一ヶ月ぐらい前に書きました。が、それも公開をしていません。

私は人の死をきっかけにして、たくさんのものを考えだす人間で、それは書き下ろさないと先に進めないので、一応書いてみることが多いのです。が、たいてい、原稿用紙換算100枚を超えます。そして、もし、山口さんに関して、それをすれば、私自身、消耗死するでしょう。というのもギャラリー山口とは、現代アートの世界そのものといってもよいほどだからです。そこは、現代アートの世界の、一種の縮図だったので、彼女について70%ぐらいといえども、何かを書くときは、自分が、現代アートの世界を、去る日なのです。須賀敦子さんのイタリアもののように、「すでに、自分はその世界から去りましたよ」というときになって、初めて客観的に、さらに、思い深く、丁寧に書くことができるでしょう。

で、私は、当初は、数夜、今でも時々は、眠れないときがあります。「今は、だめよ」と自分に命令を下しながら、頭の中ではくるくるくるくると彼女のことを思い出し、考え続けています。

『これは、書くこと以外に、何か具体的なことをしなければ成らないわ。でないと、私が、普通に健康に生きていくことが、できない』と思い、彼女が味わうことが少なかったであろう、暇人(ひまじん)の生活に、取り組んでみることにしました。快楽の追求です。が、それのうち、もっとも安全で手軽なのは、食の追及でしょう。すなわち世間で今はやりのグルメ探査です。
探求熱心な私は、四冊ほど、ビュッフェ・バイキングの本を買ってきたのです。体力が無い方なので、今までも、外では、4時間に一回は、何かを食べる人間でした。が、今までは、必ず決まったお店で食べていました。時間が惜しくて、新しいレストランを探すのなど、いやなことだったのです。でも、『彼女の引退後こそ、一緒に、こういう小さな冒険を、したかったなあ』と今は、思うので、二月の初めに、一回ほど一人で、ホテル・バイキングに参加してみました。

彼女のことを思い出しながら味わうのなら、主人と一緒では駄目なのです。生涯未婚(または、非婚)であった彼女とともにあるということは、『孤独でもいいのよ。一人でもいいのよ』と確認することです。私は、一人でも、まったくさびしくなく、丁寧に、小さなケーキなどを味わいました。

そして、2006年の野見山暁司さんのオープニング・パーティで、その当時から秘書になった山口千里さんについて「あの人は、どういう人なの?」と質問をされた日の、信頼されているうれしさを感じたことを、突然に、思い出しました。そして、これこそ、口をつぐむべきかもしれないが、ひそかに『もしかしたら、山口子さんは、奥様を亡くした野見山さんを、好きなのではないかなあ』と思って、どきっとしたことなど、・・・・・その瞬間の情景をさらに、克明に思い出しました。そのときの私の答えは、「あの人は、聖心女子大・出身のお嬢様なの。でも、さばさばしていて、仕事はよくできる人なの。だから秘書が勤まるのでしょう」です。
一緒に、そんな下世話な、打ち解けた会話をもっと続けながら、このプチケーキを食べたかったのに・・・・・と、心中でつぶやき・・・・・・そして、追憶の涙をも、他人には見せずに流したのです・・・・・
                   2010年3月4日     雨宮 舜

補遺、上の文章を読んで、業界に詳しくない方は、私が野見山さんやら千里さんに失礼な書き方をしているとお感じになるかもしれません。ただ、業界の一般的な認識では、もし、場所代無料で野見山さんの個展を開いてあげておられたのなら、山口さんが一種のマネージャーともみなされます。野見山さんのほうでは、最初は新人であった山口さんを、サポートして宣伝に役立っているのだから、貸し借りなしと言うお考えだったと思いますが、山口子さんがわにしてみれば、ちょっと以上に、悲しい思いがあったと思います。生きがいを失ったと言うか、誇りが失われたと言うか。と言うのも自分は、画廊のオーナーであり、東京を動けません。千里さんは、野見山さんと故郷が同じで、飛行機で帰れば実家に泊まる形で、費用を多額に必要としないで、先生のお手伝いができます。そして、野見山さんはまるで、山口子さんのお気持ちに気がつかないで「千里が、千里が何をしてくれた」と、エッセイにお書きになっておられます。

 しかも千里さんは、神経が太いです。それは、生活の中で五役をこなさなければならない忙しさの中で培われたものか、ご実家で培われたものかはわかりませんが、マネージャー、画家、妻、母、先生ですから、多少のことは気にしないというスタンスです。しかし、それがときには、周りの人間に威圧感を与えます。

 その上、裏側に、名誉や、政治力の問題(後注 2)が絡んでいて、複雑極まりないです。美術雑誌同士の競合も含まれています。そういう中で、「死んだら負けよ」という発想が、もしあるとすれば、私はそれを嫌います。その人の功績は控えめであっても、永く伝えられるべきであります。山口子さんは、それこそ、千里さんが言うところのお姫様タイプであったと思います。で、ご自分では何も表現をなさらなかったが故の、その悲しみは、記録しておくべきでしょう。彼女が突然に画廊を閉鎖なさった裏側にはもっと、他の問題も隠されていたとは、感じますが。無責任だとも言われていますが、それほど、悲しみが深かったと感じます。

 でも、恩を売るとか、売られるとか、いうことは外に出して言ってはいけないことでしょうが、内心で感じることは、避けられないです。山口子さんが千里さんを気にしたのは、別に恋愛関係の問題ではありません。ただ、仕事上の生きがいが失われたという点でしょう。一方の千里さんは、昔から野見山先生になついている娘みたいな、いや、孫みたいな存在です。2010年3月4日  雨宮舜
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『韓流シネマ。抵抗の系譜』+イミョンバク大統領

2010-03-04 01:58:07 | Weblog
 前日、富士純子さんに触れたのは、映画『フラガール』から、そのプロデューサーの李鳳宇さんが、インタビューアーをしている、NHK・ETV特集『韓流シネマ・抵抗の系譜』に言及したかったからです。

 これの実際の放映は、2009年、6月24日の三チャンネルです。オンデマンド放送は、全部の番組を配信してくれるのではないらしいので、ここで、それがすばらしい見ものが立ったといっても、どなたもご覧になれないわけですが、

 私が伝える人として、かいつまんでお話をさせてくださいませ。その番組は一見すると硬いみたいで、うっとうしいみたいです。だから、私も、8ヶ月も録画をほうっておいて、この2010年の三月の、1日にやっと見たのですよ。だけど、見終わって、これは、映画という軸をもって語る『韓国の現代史である』ということを感じ、仰天をしました。特に一時間半の間に、見事にまとまっているところにも、納得というか、尊敬を持ちました。

 で、最初に申し上げたいことは、現在の韓国に(相当なハイレベルで)、自由があるということです。日本にもあるらしい? だが、私なんかがみると、全然ないのですよ。日本には自由はありません。特に言論の自由がありません。上手に支配をされていますので、それに気がつかない人が多いのですが、まじめな考えを持っている人はそれを表現した途端に、何らかのヴァリエーションをもって、抑圧されています。

 で、韓国のほうですが、1945年以降は日本よりひどい時代もあった模様です。光州事件とか、南北対立からくる葛藤とかは、深かった模様です。だから、自由がない時代も、1945年以降も長かったのです。

 しかし、今、それらの過酷だった日々を、映画人が、自由自在に語ることができる・・・・・それが、『どうして、可能なのか?』また『なぜ可能なのか』と考えると、結局『政治がよいのではないか』。それは、『首長(この場合は大統領)が立派なのではないか』という結論に達します。

 で、私は最初、誤解をしていて、現在の大統領イミョンバク氏は、日本で教育を受けてきたので、その時代(というのは、1945年から1960年ごろまでという話ですが)の日本の教育の環境はよかったからではないかと、考えて、それを証明しようと、いったんは考えたのです。

 しかし、念のために今、インターネットサーフィンをしてみると、イミョンバク大統領は、1945年の10月にはすでに、帰国をしており(それは、4歳ごろ)日本での教育は何も受けていないのでした。

 でも、五男だそうです。あの時代に、兄弟が多かったというのは、学費の面から言えば、貧乏にもつながるので、相当な苦労をして学校を出られたみたいです。その過程で、強さが生まれたらしいのです。艱難汝を玉にするの典型みたいです。相当スケールが大きいような気がします。ただ、韓国内での人気がないみたいですが、私は、政治家は、後の歴史が偉人度を証明すると思っていて、現在の国民にそれほど、好きになってもらっていなくてもよい政治をすればよいので、そこのハラが座っていれば、結構だと思います。

 ただし、イミョンバク大統領が日本人にとって、好適、または好都合な大統領というわけでもないでしょう。日本人は日本人で、自らを守る必要があるのです。
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 で、誤解を別にすれば、韓国のインテリたちには、相当長い期間の弾圧があって、かつ抵抗の歴史があるみたいです。だから、クリエーターたちも根性が座っている。それで、今は、とても、面白い映画ができるらしいのです。

 私は『牛の鈴音』を見ただけですが、韓国映画とか、ドラマを毛嫌いしているわけではなくて、まったく時間がないだけです。ただ、このNHK・ETV特集に出てきた、ダイジェストとしての韓国の名画たちが、すばらしいメッセージ性とか、思想性を持っていることに驚きました。自由を希求する戦いや、抵抗の歴史があるからこそ、性根の座った骨太の作品ができるのでしょう。

 日本には、上手に身を振る人が多くて、こういう骨太な人が少ないですね。どうしてそうなるのかな? わかりませんが・・・・・
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 さて、今日も、私の、個展に関連した文章を付け加えさせてくださいませ。
昨日、銀座の中央通の、東側5丁目と6丁目の画廊を説明をいたしました。
 今日は三丁目と四丁目を。
『永井画廊』(版画)
  この画廊のオーナーは、実際の人物は、おとなしそうな方です。それで、青山にあるとき見に行っても、何も気がつかず、友人に「あの人って、なんでも鑑定団に出ている人よ」と言われて、初めて気がついたぐらいです。テレビに出ること、メディアを、利用する(いや、利用をされていらっしゃるのかもしれないが)ことで、儲かったのかな? 下世話な言い方で失礼ですが、銀座に個人ビルをお建てになりました。その地階に、龍‘s bar と言うのがあって、私が行った夕方、開いていなかったので、永井さんの社交場(たとえば、オープニングパーティを、特別な有名人を招待して、閉鎖的に行う場所)などと想像をしました。
 私は今、67歳です。見るべきほどの事を見つ(見果てた)と言う心境でミーハーチックではないので、永井さんを見て、『うわ、偉い人なのね』とも思わないし、騒がないです。「人間はすべて、誰もが、平等だ」と言う信念には変わりはありません。でも、金銭的な面からいえば、幸運である人と、そうではない人があるのでしょう。

『コバヤシ画廊』(現代アート)
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 さて、ここで、もうひとつ話題が転換しますが、今、NHKハイビジョンで、メトロポリタンオペラの、『蝶々夫人』を放映しています。それについては、また、別の日に。
                  では、2010年3月4日   雨宮 舜
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