自分の個展に事寄せて、銀座の画廊の解説を三日前から始めさせていただいています。そろそろ、京橋が近づいてきました。となると、忘れられない人が、心の中に急浮上をして来ます。で、ひとまず、その人物・山口子さんについて、語らせてくださいませ。一丁目と二丁目(ともに東側)にある画廊は、また改めて紹介させていただきます。
ここで、栄光と書いたのは、彼女が私と同い年であって、例の『魅せられたる魂』や、『第二の性』を愛読した世代に当たり、そこに描かれている<女性の自立>を文字通りに体現した人だからです。人につかわれる立場ではなくて、社長という立場で、しかもきれいで上品な場である画廊がその舞台です。
普通なら画廊のオーナーとは裏方のはずですが、彼女には、なんとは無い華やぎもあり、スター性もありました。常に50代にしか見えませんでした。ある人が『お姫様』と表現をしましたが、それがあたっているかも知れず、私は、他のオーナーに気兼ねをしながらですが、正直に言って、銀座(+京橋)で、一番好きな人であったぐらいです。このお姫様か女中かという分類は、まったく別の機会に、後で出てくる山口千里さんから、私自身が「どっちなの?」と質問を受けた、女性を分類する手法のひとつですが・・・・・
ギャラリーアーチストスペースが画家の溜まり場として、にぎやかだと申し上げました。あちらは、スペースが狭いので、お客さんが体を接しかねないような熱気に満ちています。主役が秋山祐徳太子さんなどなので、そういう持ち味が出ているところです。
ギャラリー山口の方は、もっと広いし、主役が山口子さんなので、その持ち味が反映して、もっと、静かでした。が、それでも、訪れるお客さんが多くて、しかも、名望のある人が多くて、立派な画廊だったのです。
それは、若いころから、建畠覚造、野見山暁司、篠原有司男、堀浩裁など、現代アートの世界のそうそうたる大物の個展をなさってきて、それらのかたがたにかわいがられてきたと、いわれているからです。お互いがお互いを引き寄せて、ある特別な世界をおつくりになっておられました。だけど、そのお姫様と言われるゆえんがあって、ある主の控えめなところと、結構はっきりものをおっしゃるところとが微妙に混在していて、ともかく、亡くなって見ると、言うにいわれず、もっと、親しくお話をしておけばよかったと思う人なのです。
外部の人は言うでしょう。「あなたごときが、何を言うの?」と。だけど、亡くなる60時間ぐらい前にあっていて、そのときに返してもらってもよいものが、スタッフさんへのの伝言として1月30日の土曜日に、私に手渡されたときに、突然ですが、私は確信しました。それ以前から、ひそかに感知していた、山口さんと自分との紐帯を、『やはり、あったのだ』と。
それは、本が四冊です。2007年の秋に、お宅に「だれそれが訪れたときにあげてください」と頼んでおいた、私の四冊目の本、『伝説のプレス』でした。それをきれいなかつ小さなサイズの紙袋に入れ、「川崎さんに渡すように」と伝言をされたのが、亡くなる二日前から亡くなる当日までの間です。しかも、あと二週間以内に、画廊を閉鎖するという超がつく忙しさの中で、その処理が行われました。事務室を整理するときに、この四冊の『伝説のプレス』を、見つけられたのだと感じます。
だけど、そこまでしなくても「あげたわよ」で済むはずのものでもあります。私がそれらの四人に向かって、「あの本の感想は、いかがでしたか?」などと、問い合わせるはずも無いです。
実は亡くなったあとで、「急にやめるのが、困ると、談じ込んだのだよ。僕。本当に予定が狂うもの」という方もあって、そういう電話もかかってきていた大変なストレスのさなか、画廊にいるのは長くて、八時間でしょう。それが二回しかない段階で、どっちでもよい小さなことに気を使っていただいて、すごく恐縮すると同時に、それ以前のあれこれ、自分が推察していたことが、当たっていたことを感じました。
それは、まず、2006年のシンポジューム『金と芸術』です。これは、私の当時のメルマガの文章から、発想を得られたでしょう。それを確認したことはありません。昔は、こういう、無名ゆえに上澄みを断りなしに掬い取られることに憤慨したりしましたが、2005年以降は、それは、なくなっていました。
それから、2006年に、私が今よく言う、例の言論の弾圧の、最初期が始まって、パソコンに大変調をきたし、びっくりして大混乱に陥って、2ヵ月後に予定していた、ギャラリー山口の個展を、キャンセルさせていただいたことがあるのですが、
まず、「川崎さんのいろいろを聞いても仕方が無い」と、私をさえぎり、その次に、「あなたはご主人に、愛されていらっしゃるから」とおっしゃったのです。「だから、愚痴なんか言わないで」ということが、無言のうちに秘められていて。・・・・・
前の方については、私も『はっ』と思って引き下がりました。これに似ている例としては、こいちさんという方が、インタビューアーとなって銀座の画廊街に住む人々を取材したホーム頁があるのですが、その中でも、こいちさんが、たじたじと成っている模様が出ています。きちんと、「いやなことは、いやだ」とおっしゃるわけです。そこは、動じるところは無い。しかも断り方が上品です。だけど、この断られることで、面子をつぶされたと、気を悪くした方は大勢いるかも知れません。
でも、私はその次の言葉に、驚きとともに、申し訳ないという感じを受けたのです。まず、『愛されている』という日本語は珍しいです。「ご主人に、大切にされていらっしゃるから」なら普通ですが、「愛されている」は、欧米の本を愛読している人の言葉です。これを、聞いたからこそ、彼女が、『魅せられたる魂』派だと感じたわけです。
それを聞いた瞬間に、『彼女と私の生活が、表裏一体のものであり、どちらが、どちらを選んだか、正解は分からないなあ』と感じたのでした。彼女こそ、もしかしたら、結婚して普通の生活を送ることが、向いている人だったのかもしれないのです。それは、若いころには、本人にさえ見えない本質であり、私だっていまだに、自分探しをしているほどです。私こそ、女・チェ・ゲバラになって、あっという間に死んでしまったほうが、自分にふさわしい生き方だったかもしれない。し、音楽の才能は無いが、シューベルトなんかは、性格や生き方は、似ていると感じます。
シモーヌ・ヴェイユも近いです。だけど、自分が特殊であり、芸術的志向が強いからこそ、普通であることを希求したのです。それが私にとっての、バランス感覚というものです。・・・・・・一方で、よろいを着て、きちんと社会に面していた山口さんは、静かな世界が、実際には、向いていたのかもしれません。分からない。本当にわからない。ただ、私がどんなに悲しいか?
そして、本当は膨大な文章が書けそうだったが、抑えたのです。が、その本当の理由さえ、明晰には語れません。
第一章だけは一ヶ月ぐらい前に書きました。が、それも公開をしていません。
私は人の死をきっかけにして、たくさんのものを考えだす人間で、それは書き下ろさないと先に進めないので、一応書いてみることが多いのです。が、たいてい、原稿用紙換算100枚を超えます。そして、もし、山口さんに関して、それをすれば、私自身、消耗死するでしょう。というのもギャラリー山口とは、現代アートの世界そのものといってもよいほどだからです。そこは、現代アートの世界の、一種の縮図だったので、彼女について70%ぐらいといえども、何かを書くときは、自分が、現代アートの世界を、去る日なのです。須賀敦子さんのイタリアもののように、「すでに、自分はその世界から去りましたよ」というときになって、初めて客観的に、さらに、思い深く、丁寧に書くことができるでしょう。
で、私は、当初は、数夜、今でも時々は、眠れないときがあります。「今は、だめよ」と自分に命令を下しながら、頭の中ではくるくるくるくると彼女のことを思い出し、考え続けています。
『これは、書くこと以外に、何か具体的なことをしなければ成らないわ。でないと、私が、普通に健康に生きていくことが、できない』と思い、彼女が味わうことが少なかったであろう、暇人(ひまじん)の生活に、取り組んでみることにしました。快楽の追求です。が、それのうち、もっとも安全で手軽なのは、食の追及でしょう。すなわち世間で今はやりのグルメ探査です。
探求熱心な私は、四冊ほど、ビュッフェ・バイキングの本を買ってきたのです。体力が無い方なので、今までも、外では、4時間に一回は、何かを食べる人間でした。が、今までは、必ず決まったお店で食べていました。時間が惜しくて、新しいレストランを探すのなど、いやなことだったのです。でも、『彼女の引退後こそ、一緒に、こういう小さな冒険を、したかったなあ』と今は、思うので、二月の初めに、一回ほど一人で、ホテル・バイキングに参加してみました。
彼女のことを思い出しながら味わうのなら、主人と一緒では駄目なのです。生涯未婚(または、非婚)であった彼女とともにあるということは、『孤独でもいいのよ。一人でもいいのよ』と確認することです。私は、一人でも、まったくさびしくなく、丁寧に、小さなケーキなどを味わいました。
そして、2006年の野見山暁司さんのオープニング・パーティで、その当時から秘書になった山口千里さんについて「あの人は、どういう人なの?」と質問をされた日の、信頼されているうれしさを感じたことを、突然に、思い出しました。そして、これこそ、口をつぐむべきかもしれないが、ひそかに『もしかしたら、山口子さんは、奥様を亡くした野見山さんを、好きなのではないかなあ』と思って、どきっとしたことなど、・・・・・その瞬間の情景をさらに、克明に思い出しました。そのときの私の答えは、「あの人は、聖心女子大・出身のお嬢様なの。でも、さばさばしていて、仕事はよくできる人なの。だから秘書が勤まるのでしょう」です。
一緒に、そんな下世話な、打ち解けた会話をもっと続けながら、このプチケーキを食べたかったのに・・・・・と、心中でつぶやき・・・・・・そして、追憶の涙をも、他人には見せずに流したのです・・・・・
2010年3月4日 雨宮 舜
補遺、上の文章を読んで、業界に詳しくない方は、私が野見山さんやら千里さんに失礼な書き方をしているとお感じになるかもしれません。ただ、業界の一般的な認識では、もし、場所代無料で野見山さんの個展を開いてあげておられたのなら、山口さんが一種のマネージャーともみなされます。野見山さんのほうでは、最初は新人であった山口さんを、サポートして宣伝に役立っているのだから、貸し借りなしと言うお考えだったと思いますが、山口子さんがわにしてみれば、ちょっと以上に、悲しい思いがあったと思います。生きがいを失ったと言うか、誇りが失われたと言うか。と言うのも自分は、画廊のオーナーであり、東京を動けません。千里さんは、野見山さんと故郷が同じで、飛行機で帰れば実家に泊まる形で、費用を多額に必要としないで、先生のお手伝いができます。そして、野見山さんはまるで、山口子さんのお気持ちに気がつかないで「千里が、千里が何をしてくれた」と、エッセイにお書きになっておられます。
しかも千里さんは、神経が太いです。それは、生活の中で五役をこなさなければならない忙しさの中で培われたものか、ご実家で培われたものかはわかりませんが、マネージャー、画家、妻、母、先生ですから、多少のことは気にしないというスタンスです。しかし、それがときには、周りの人間に威圧感を与えます。
その上、裏側に、名誉や、政治力の問題(後注 2)が絡んでいて、複雑極まりないです。美術雑誌同士の競合も含まれています。そういう中で、「死んだら負けよ」という発想が、もしあるとすれば、私はそれを嫌います。その人の功績は控えめであっても、永く伝えられるべきであります。山口子さんは、それこそ、千里さんが言うところのお姫様タイプであったと思います。で、ご自分では何も表現をなさらなかったが故の、その悲しみは、記録しておくべきでしょう。彼女が突然に画廊を閉鎖なさった裏側にはもっと、他の問題も隠されていたとは、感じますが。無責任だとも言われていますが、それほど、悲しみが深かったと感じます。
でも、恩を売るとか、売られるとか、いうことは外に出して言ってはいけないことでしょうが、内心で感じることは、避けられないです。山口子さんが千里さんを気にしたのは、別に恋愛関係の問題ではありません。ただ、仕事上の生きがいが失われたという点でしょう。一方の千里さんは、昔から野見山先生になついている娘みたいな、いや、孫みたいな存在です。2010年3月4日 雨宮舜
ここで、栄光と書いたのは、彼女が私と同い年であって、例の『魅せられたる魂』や、『第二の性』を愛読した世代に当たり、そこに描かれている<女性の自立>を文字通りに体現した人だからです。人につかわれる立場ではなくて、社長という立場で、しかもきれいで上品な場である画廊がその舞台です。
普通なら画廊のオーナーとは裏方のはずですが、彼女には、なんとは無い華やぎもあり、スター性もありました。常に50代にしか見えませんでした。ある人が『お姫様』と表現をしましたが、それがあたっているかも知れず、私は、他のオーナーに気兼ねをしながらですが、正直に言って、銀座(+京橋)で、一番好きな人であったぐらいです。このお姫様か女中かという分類は、まったく別の機会に、後で出てくる山口千里さんから、私自身が「どっちなの?」と質問を受けた、女性を分類する手法のひとつですが・・・・・
ギャラリーアーチストスペースが画家の溜まり場として、にぎやかだと申し上げました。あちらは、スペースが狭いので、お客さんが体を接しかねないような熱気に満ちています。主役が秋山祐徳太子さんなどなので、そういう持ち味が出ているところです。
ギャラリー山口の方は、もっと広いし、主役が山口子さんなので、その持ち味が反映して、もっと、静かでした。が、それでも、訪れるお客さんが多くて、しかも、名望のある人が多くて、立派な画廊だったのです。
それは、若いころから、建畠覚造、野見山暁司、篠原有司男、堀浩裁など、現代アートの世界のそうそうたる大物の個展をなさってきて、それらのかたがたにかわいがられてきたと、いわれているからです。お互いがお互いを引き寄せて、ある特別な世界をおつくりになっておられました。だけど、そのお姫様と言われるゆえんがあって、ある主の控えめなところと、結構はっきりものをおっしゃるところとが微妙に混在していて、ともかく、亡くなって見ると、言うにいわれず、もっと、親しくお話をしておけばよかったと思う人なのです。
外部の人は言うでしょう。「あなたごときが、何を言うの?」と。だけど、亡くなる60時間ぐらい前にあっていて、そのときに返してもらってもよいものが、スタッフさんへのの伝言として1月30日の土曜日に、私に手渡されたときに、突然ですが、私は確信しました。それ以前から、ひそかに感知していた、山口さんと自分との紐帯を、『やはり、あったのだ』と。
それは、本が四冊です。2007年の秋に、お宅に「だれそれが訪れたときにあげてください」と頼んでおいた、私の四冊目の本、『伝説のプレス』でした。それをきれいなかつ小さなサイズの紙袋に入れ、「川崎さんに渡すように」と伝言をされたのが、亡くなる二日前から亡くなる当日までの間です。しかも、あと二週間以内に、画廊を閉鎖するという超がつく忙しさの中で、その処理が行われました。事務室を整理するときに、この四冊の『伝説のプレス』を、見つけられたのだと感じます。
だけど、そこまでしなくても「あげたわよ」で済むはずのものでもあります。私がそれらの四人に向かって、「あの本の感想は、いかがでしたか?」などと、問い合わせるはずも無いです。
実は亡くなったあとで、「急にやめるのが、困ると、談じ込んだのだよ。僕。本当に予定が狂うもの」という方もあって、そういう電話もかかってきていた大変なストレスのさなか、画廊にいるのは長くて、八時間でしょう。それが二回しかない段階で、どっちでもよい小さなことに気を使っていただいて、すごく恐縮すると同時に、それ以前のあれこれ、自分が推察していたことが、当たっていたことを感じました。
それは、まず、2006年のシンポジューム『金と芸術』です。これは、私の当時のメルマガの文章から、発想を得られたでしょう。それを確認したことはありません。昔は、こういう、無名ゆえに上澄みを断りなしに掬い取られることに憤慨したりしましたが、2005年以降は、それは、なくなっていました。
それから、2006年に、私が今よく言う、例の言論の弾圧の、最初期が始まって、パソコンに大変調をきたし、びっくりして大混乱に陥って、2ヵ月後に予定していた、ギャラリー山口の個展を、キャンセルさせていただいたことがあるのですが、
まず、「川崎さんのいろいろを聞いても仕方が無い」と、私をさえぎり、その次に、「あなたはご主人に、愛されていらっしゃるから」とおっしゃったのです。「だから、愚痴なんか言わないで」ということが、無言のうちに秘められていて。・・・・・
前の方については、私も『はっ』と思って引き下がりました。これに似ている例としては、こいちさんという方が、インタビューアーとなって銀座の画廊街に住む人々を取材したホーム頁があるのですが、その中でも、こいちさんが、たじたじと成っている模様が出ています。きちんと、「いやなことは、いやだ」とおっしゃるわけです。そこは、動じるところは無い。しかも断り方が上品です。だけど、この断られることで、面子をつぶされたと、気を悪くした方は大勢いるかも知れません。
でも、私はその次の言葉に、驚きとともに、申し訳ないという感じを受けたのです。まず、『愛されている』という日本語は珍しいです。「ご主人に、大切にされていらっしゃるから」なら普通ですが、「愛されている」は、欧米の本を愛読している人の言葉です。これを、聞いたからこそ、彼女が、『魅せられたる魂』派だと感じたわけです。
それを聞いた瞬間に、『彼女と私の生活が、表裏一体のものであり、どちらが、どちらを選んだか、正解は分からないなあ』と感じたのでした。彼女こそ、もしかしたら、結婚して普通の生活を送ることが、向いている人だったのかもしれないのです。それは、若いころには、本人にさえ見えない本質であり、私だっていまだに、自分探しをしているほどです。私こそ、女・チェ・ゲバラになって、あっという間に死んでしまったほうが、自分にふさわしい生き方だったかもしれない。し、音楽の才能は無いが、シューベルトなんかは、性格や生き方は、似ていると感じます。
シモーヌ・ヴェイユも近いです。だけど、自分が特殊であり、芸術的志向が強いからこそ、普通であることを希求したのです。それが私にとっての、バランス感覚というものです。・・・・・・一方で、よろいを着て、きちんと社会に面していた山口さんは、静かな世界が、実際には、向いていたのかもしれません。分からない。本当にわからない。ただ、私がどんなに悲しいか?
そして、本当は膨大な文章が書けそうだったが、抑えたのです。が、その本当の理由さえ、明晰には語れません。
第一章だけは一ヶ月ぐらい前に書きました。が、それも公開をしていません。
私は人の死をきっかけにして、たくさんのものを考えだす人間で、それは書き下ろさないと先に進めないので、一応書いてみることが多いのです。が、たいてい、原稿用紙換算100枚を超えます。そして、もし、山口さんに関して、それをすれば、私自身、消耗死するでしょう。というのもギャラリー山口とは、現代アートの世界そのものといってもよいほどだからです。そこは、現代アートの世界の、一種の縮図だったので、彼女について70%ぐらいといえども、何かを書くときは、自分が、現代アートの世界を、去る日なのです。須賀敦子さんのイタリアもののように、「すでに、自分はその世界から去りましたよ」というときになって、初めて客観的に、さらに、思い深く、丁寧に書くことができるでしょう。
で、私は、当初は、数夜、今でも時々は、眠れないときがあります。「今は、だめよ」と自分に命令を下しながら、頭の中ではくるくるくるくると彼女のことを思い出し、考え続けています。
『これは、書くこと以外に、何か具体的なことをしなければ成らないわ。でないと、私が、普通に健康に生きていくことが、できない』と思い、彼女が味わうことが少なかったであろう、暇人(ひまじん)の生活に、取り組んでみることにしました。快楽の追求です。が、それのうち、もっとも安全で手軽なのは、食の追及でしょう。すなわち世間で今はやりのグルメ探査です。
探求熱心な私は、四冊ほど、ビュッフェ・バイキングの本を買ってきたのです。体力が無い方なので、今までも、外では、4時間に一回は、何かを食べる人間でした。が、今までは、必ず決まったお店で食べていました。時間が惜しくて、新しいレストランを探すのなど、いやなことだったのです。でも、『彼女の引退後こそ、一緒に、こういう小さな冒険を、したかったなあ』と今は、思うので、二月の初めに、一回ほど一人で、ホテル・バイキングに参加してみました。
彼女のことを思い出しながら味わうのなら、主人と一緒では駄目なのです。生涯未婚(または、非婚)であった彼女とともにあるということは、『孤独でもいいのよ。一人でもいいのよ』と確認することです。私は、一人でも、まったくさびしくなく、丁寧に、小さなケーキなどを味わいました。
そして、2006年の野見山暁司さんのオープニング・パーティで、その当時から秘書になった山口千里さんについて「あの人は、どういう人なの?」と質問をされた日の、信頼されているうれしさを感じたことを、突然に、思い出しました。そして、これこそ、口をつぐむべきかもしれないが、ひそかに『もしかしたら、山口子さんは、奥様を亡くした野見山さんを、好きなのではないかなあ』と思って、どきっとしたことなど、・・・・・その瞬間の情景をさらに、克明に思い出しました。そのときの私の答えは、「あの人は、聖心女子大・出身のお嬢様なの。でも、さばさばしていて、仕事はよくできる人なの。だから秘書が勤まるのでしょう」です。
一緒に、そんな下世話な、打ち解けた会話をもっと続けながら、このプチケーキを食べたかったのに・・・・・と、心中でつぶやき・・・・・・そして、追憶の涙をも、他人には見せずに流したのです・・・・・
2010年3月4日 雨宮 舜
補遺、上の文章を読んで、業界に詳しくない方は、私が野見山さんやら千里さんに失礼な書き方をしているとお感じになるかもしれません。ただ、業界の一般的な認識では、もし、場所代無料で野見山さんの個展を開いてあげておられたのなら、山口さんが一種のマネージャーともみなされます。野見山さんのほうでは、最初は新人であった山口さんを、サポートして宣伝に役立っているのだから、貸し借りなしと言うお考えだったと思いますが、山口子さんがわにしてみれば、ちょっと以上に、悲しい思いがあったと思います。生きがいを失ったと言うか、誇りが失われたと言うか。と言うのも自分は、画廊のオーナーであり、東京を動けません。千里さんは、野見山さんと故郷が同じで、飛行機で帰れば実家に泊まる形で、費用を多額に必要としないで、先生のお手伝いができます。そして、野見山さんはまるで、山口子さんのお気持ちに気がつかないで「千里が、千里が何をしてくれた」と、エッセイにお書きになっておられます。
しかも千里さんは、神経が太いです。それは、生活の中で五役をこなさなければならない忙しさの中で培われたものか、ご実家で培われたものかはわかりませんが、マネージャー、画家、妻、母、先生ですから、多少のことは気にしないというスタンスです。しかし、それがときには、周りの人間に威圧感を与えます。
その上、裏側に、名誉や、政治力の問題(後注 2)が絡んでいて、複雑極まりないです。美術雑誌同士の競合も含まれています。そういう中で、「死んだら負けよ」という発想が、もしあるとすれば、私はそれを嫌います。その人の功績は控えめであっても、永く伝えられるべきであります。山口子さんは、それこそ、千里さんが言うところのお姫様タイプであったと思います。で、ご自分では何も表現をなさらなかったが故の、その悲しみは、記録しておくべきでしょう。彼女が突然に画廊を閉鎖なさった裏側にはもっと、他の問題も隠されていたとは、感じますが。無責任だとも言われていますが、それほど、悲しみが深かったと感じます。
でも、恩を売るとか、売られるとか、いうことは外に出して言ってはいけないことでしょうが、内心で感じることは、避けられないです。山口子さんが千里さんを気にしたのは、別に恋愛関係の問題ではありません。ただ、仕事上の生きがいが失われたという点でしょう。一方の千里さんは、昔から野見山先生になついている娘みたいな、いや、孫みたいな存在です。2010年3月4日 雨宮舜