銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

小説で描く、現代日本政治・・・第二部、国際基督教大学界隈にて、1960年代・恋愛篇△

2015-09-27 14:53:37 | 政治

第二部、三鷹、国際基督教大学界隈にて、1960年代・恋愛篇

 前号までのあらすじ
 村岡百合子は、1965年の大学在学中に一度、社会人になってから北久里浜で、もう一度、二回も、現代日本における最高の権力者たるCIA または、そのエージェントと、出会ってしまい、彼らの悪徳と悪行を目撃してしまった。しかし、別にそれを気にしないで、人生を送って来て、画家(プラス版画家)になっていく。しかし、特殊な版画を制作しているがために、海外修行が必要であって、56を過ぎてから、三回も海外研修に行く。そして、その感想文をメルマガで配信をし始めた。それがたまると、本の形へ変換していく。
 ところが、百合子が書く力をアップさせていくたびに、異様なことが周辺に起こり始め、やがて、自分が激しい弾圧行為の下に置かれていることを知る。うすうすだが、相手がどういう組織であるかを察知し始めた百合子だったが、テーマを政治から放して行くと、かえって、攻撃が深まることも知り、政治の諸悪をブログで、分析し続ける。
 困った敵連中は、百合子が愛している息子に攻撃を仕掛ける。証拠が残らない様に、勤務先全体をブラック企業化して、勤務者をいじめ続ける。百合子は、その仕組みに気が付いてきていて、息子を助けたいと思うが、どういう形で、それができるかどうかを悩みぬいている。
 そのうちに思いがけない事が起きた。息子の子供(=孫)に、発達障害の恐れがあることが分かって来たのだ。それはだんだん解消して来て、4歳にもなると、ほとんど心配が要らないと、分かってくるのだが、はじめは、それが見えておらず、悩みぬいた息子は、疲労困憊をして、会社勤務ができなくなり、依願退職をしてしまう。
 孫に発達障害がある事には悩まなかった百合子だが、息子が会社を辞めてしまったことには、深い悲しみと、悩みを抱いた。原因が自分にあることを自覚していたからだ。そして、給料が入らなくなった息子一家がどういう風に生きていくのかに、思いをはせていくのだった。 
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第一章、『三鷹国際基督教大学、本館一階化学実験室にて 1965年9月某日』
 
 三鷹にある国際基督教大学で、学生に向けて主に講義が行われている建物は、ウィリアム・ヴォーリーズが、設計をした旧中島飛行機の研究所だったという。そこの一階の西はじに、化学実験室があった。後年、竹中工務店が、施行をした理学棟と言うのが別にできて、それは、そちらへ移動をするのだけれど、1965年当時は、そこにあった。そこの床は厚い木製の材でできているのだけれど、すでに、薬の作用で、でこぼこになっていて、百合子は、そこに、自分が扱っている水銀が、突沸と言う現象の為に、転がり落ちて入り込むので、百粒を優に超す、小さな玉を拾い集める作業があって、消耗しきる実験を、毎晩、夜の10時ごろまでやっていた。
 ところで、当時の国際基督教大学にはアメリカから潤沢な寄付金が流れ込んでいたらしくて、少数精鋭主義のたいへん贅沢な、指導方法が採用されていた。教授は東大卒業後、ハーヴァードとか、MITで研鑽をした、俊秀で、当時まだ、30代だったが、卒論(卒業実験)で受け持った学生は、たった、三人しかいなかった。
 
 3人とは、元来が、仲良くできないものだ。百合子はたちまちに、外される人材となって孤立化した。
 しかし、仕方がない事だった。百合子は、中学生の時にすでに、歯が悪くて、前歯に、金冠を入れていた。これは、百合子を、14歳から後、30年間悩ませる大いなる劣等感の、源泉だった。現在の百合子は、近代的治療をほどこして、白い前歯を獲得したが、一番大切な思春期に大いなるダメージを受けていたのだった。
 ここで、三人を紹介しよう。純粋な日本人なのにローリーと言うアメリカ人風の、愛称で呼ばれている少女。そして、百合子、最後の人材は、畦倉弘夫と言う日本橋で、社長をしているという家柄のお坊ちゃまだった。
 ローリーと畦倉君がことさらに仲良くするのが、目の前で展開するのだけれど、『何か不自然で異常だなあ』とは、感じていた。だが、百合子はローリーをことさらに苦手としていたので、二人の前で、今なら軽く放てるだろう「何やっているのよ、あなた方二人は。ここは大学ですよ。本分を忘れちゃあだめでしょう」などと言う軽口を、その時は、利けなかった。
 百合子がローリーをことさらに苦手としていたのは、ローリーがAFS経験者だったからだ。百合子は、中学生時代から英語が得意で、お茶大の付属高校の一年の時に、AFSの交換留学生に応募していた。ところが、先生が、受験用紙をくれないという形で、オミットされてしまい、試験が終わってから、友達から、それがすでに終わっている話だと、教えてもらったのだ。大きく大きく傷ついた。いろいろな原因はあったであろう。しかし、後年、学年を超える大きな同窓会に出席をして、その同じ先生が、他の学年でも、学内で、選別をして、子供たちに、望み通りには、受験をさせないということを知った。それを知ってからやっと落ち着いた。つまり、こういう事だったのだ。お茶の水女子大は、全校生徒が、一学年、140人以内の小さな学校だ。だから、AFS合格者は、おおくても3人を超える事ができない。AFS協会は、日本全国へアメリカの影響力を与えたいと願っていて、一つの学校から、3人を超える合格者を出すことはなかった。
 それなのに、応募希望者が毎年10人を超えるとしよう。すると、先生が合格を、望んでいるセレブのお嬢様が不合格になる割合が増える。しかも学内には、銀のさじを咥えて生まれてきたお嬢様がいっぱいいる。先生にとっての、都合よく生きるための、苦肉の策だったのだろう。
 
 で、この経験から、百合子は東大卒、特に戦前に東大を出た人に対して、大いなる不信感を抱く様になる。その驚くべき意地悪をした先生が、東大卒なのに、英語の発音が下手だったからだ。その次に、AFS経験者に対して、構える気持ちができてしまった。受験して不合格だったのなら、単にその経験を隠すだけで済んだだろう。しかし、差別の対象となって、受験ができなかったのは、大きな傷となったのだ。で、ローリーに対しては、大きな苦手意識を持っていた。
 もう一つ、別に、ローリーを苦手とする問題があった。それは、ローリーが、ことさらにさばけた態度を取る、大人の女だったことだ。後年、百合子は56を過ぎてからパリや、ニューヨークへ滞在型研修に出かけ、ローリーとそっくりな、さばけた態度を取ることができる様になるのだけれど、1965年当時は、それは、とても無理な話だった。
 
 で、畦倉君とローリーは実験中に軽口を交わすのもさることながら、帰宅の、打ち合わせを必ず、実験室内でやるのだった。畦倉君は、社長の息子なので、当時では珍しい姿だと思うが、車で通学をしていた。それを一階にある実験室の前の道路に横付けする。実験室から、10mも離れていないところに通用口があって、ローリーは畦倉君の車を見た途端に、小走りで、そこから出て行って、乗せてもらうのだった。それが、映画のワンシーンの様に、百合子が実験をしている実験室の、窓のそばで、繰り広げられた。
 ローリーは地方の出身者なので、三鷹市内で、下宿をしていた。そこまで、車で送ってもらうのだけれど、その打ち合わせを、異常にべたべたとしながら、やるのだった。百合子はさばけていない硬い学生の常として、うわさ話を知らなかった。お茶をしたり、お酒を一緒に飲んだりはしないので、他人の私生活の事は知らない。だけど、どうしても、腑に落ちなかった。だって、ローリーと畦倉君が、恋愛の関係にあるはずはなかったからだ。そういう点では、人を見抜く目は、確かな百合子だった。
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第二章、『三鷹国際基督教大学、本館一階化学実験室にて 1965年10月某日』
 
 さて、そういう畦倉君の、特殊な工作が、目立っていた頃の、ある日の夕方、彼が、いつも通り、帰り支度をしていたが、ローリーの姿はなかった。で、『どうしたのだろう?』と、いぶかしく思っていると、背の低いローリーとは別の、背の高い女の子が現れた。たぶん下級生だとは思ったが、今まで、見たことのない子だった。化学実験室は、少人数制特有の小さなものだったし、空気の流通をよくするために、ドアは、一年中開け放たれていたので、その子が訪問をして来たことは、百合子にも畦倉君にもすぐに、分かった。
 畦倉君は、瞬時に、立っていき、ドアのところで、彼女と、体を合体させてキスをした。もちろんの事、百合子は仰天をした。何度も言う様に、場所は神聖なる化学実験室だ。そして、まだ、日の高い明るい時間帯だった。
 畦倉君が、フェロモン旺盛の、だらしない子だったら、これもありだが、彼は、社長の息子であることを自覚をしていて、エチケットを守る、しっかりした青年だった。
 『えっ、これって、本当のキスではないでしょう。例のローリーとのイチャイチャと同じく、演技でしょう?。でもなぜ、ここまでの、演技をする必要があるの?』と自問自答をした。すると、すぐに答えは読めた。
 
 畦倉君は、婉曲なレベルで、百合子の求愛行動を拒否しているのだった。顔から火が出る様に、恥ずかしかった。『しのぶれど、色に出に、けりな我が恋は、・・・・・』と言う新古今和歌が、頭に、すぐに、浮かんだ。
 
 が、しかし、これもまた腑に落ちない出来事だった。百合子は前歯の金冠に劣等感があったので、自分の女としてのセールスポイントは、処女性だけだと判っていた。そして、親にも間接的な形ではあるが、同じことを、いわれていた。「お前には、イットと言うものがない。だから、若さだけが取り柄だ。25歳以内までに結婚をしないとだめだ」と。
 イットとは、英語の代名詞の、それ、it を指すが、当時(戦前)では婉曲な表現で、色気があるということを表す言葉だったのだ。で、百合子にも恋愛めいたきっかけはあるにはあったが、誰とも、深入りをすることはなかった。畦倉君にも無論、ラブレターを出したこともなければ、電話を掛けたこともない。現在の言葉でいう告白と言うのをしたこともなかった。
 
 国際基督教大学は、少人数制で、しかも、講義内容も、複雑なので、学生一人一人が、自分用の郵便受け(ただし、厚さ3cm幅25cm)を持っていた。それには、名前がついているので、ラブレターを相手に送るのには、最適な環境があり、「どここそで、何時に待っている」とか「待っていてね」と言う簡単なメモ書きをそこに入れる事で、恋愛を、楽に、始めることができた。ただ、畦倉君を相手に、百合子が、そのメールボックスを利用して、ちょっかいを出したことは、一度もなかった。
 
  この現象がどうして起きたかの謎をここで解いておこう。
 実は百合子は、恋愛・過多・体質の女だったのだ。別に、自覚はなかった、容貌に劣るという自覚だけがあって、自分がいわゆるフェロモンが旺盛な女だとは、夢にも知らなかった。水も滴るいい女と言う表現がある。どうしてか、そういう体質を持っているのだった。これは、56歳の時に、高名な手相観の女性から、指摘をされたことだった。「あなたは、芸術家でよかった。これが、普通の主婦だったら事件を起こしていますよ」と言われた。金星帯という、恋愛をつかさどるラインが、これほど、はっきりと出て居る人間も少ないそうである。だから、ラブレターを出そうが出すまいが、『あなたを注目していますよ。あなたを、好きですよ』というサインが、体からあふれ出ていたのだろう。それを、そういう事が解る畦倉弘夫は、キャッチしていたのだ。そして、うっとおしく思い、早く振り払おうとしたのだろう。だって、日本橋の会社の社長に将来なる予定の、男性の奥様が、前歯が、金歯だったら、外(パーティ)へ出せないではないか。当たり前だ。
 しかし、そんな色気たっぷりの裏側が自分に秘められているとは夢にも知らない百合子は、『バカにされたなあ』と言う思いを強く抱いた。『的外れなポイントで、バカにされた』と言う思いを抱いた。
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第三章、『四谷見附近辺、1961年9月某日』
 
 第一章で、述べたAFSの傷を、16歳の時に負ってしまった百合子は、それ以来、勉強をするのをやめてしまった。一般的な意味でのそれであって、好きなことは深く行ったが、受験勉強をするのはやめてしまった。暗記物など大嫌いな、子供となっていた。で、現役での、大学受験には失敗をしてしまった。百合子は、お茶大の付属高校に入る前には、横浜の付属中学に通っていて、そこは、1950年当時は一割の卒業生が東大へ、進学するほどの名門中学だった。で、百合子はそこでの、入学式総代であり、卒業式総代だったのだから、当然のごとく、東大を受験するものだと、親から思われていたし、地域社会からも期待をされていた。だけど、18歳の時には、受験をするという意味では、落ちこぼれ状態だった。
 親との関係がまずくなって、親戚に、3か月預けられていた。そちら(=山口県防府市)で、毎日、野山を散歩したのは、きっと、後日にとっては、大きな財産になっている。ただし、ずっとそちらでお世話になっているわけにもいかないので、三か月で帰郷して、二学期から入れる予備校を探した。
 四谷にある駿台予備校と言うところが、二学期でも入れるそうだった。そして、二学期から入る生徒は、駿台予備校固有の、入学試験を受けずに入ることができるそうでもあった。ただし、前夜から徹夜で並ばないと、数が、いっぱいになり、入れないそうでもあった。で、前夜から出かけてみると、数教室にわたって、長机に、2人ずつ座って待つ様な手配がしてあった。
 百合子は722番の番号の席へ座った。ほぼ、10時間も待つのである。コンビニもない時代に、よく体がもったものだと思うが、それが、若さなのだろう。721番の席を取った子は、美大を受験するという背の高い都会風の、イケメンだった。723番と、724番は都会風ではなかった。で、主に721番が、自然にできた四人組の会話の主導権を握った。
 次の日の明け方になると、予備校側から人が出て、数時間の、お散歩をしていいとのお達しが、下った。『番号もしっかり覚えたでしょうし、隣の人の顔も覚えたでしょうから、不正がないと、信じるとのことだった。繰り返して言うが、コンビニもない時代だった。そして、お嬢様学校を出た百合子は外で、一人で、喫茶店に入るなどと言う習慣もなく、ただ、静かにあたりを徘徊をしていた。四谷見附の、陸橋の上にいた時だった。ふと後ろから視線を感じた。振り返ると、723番君がそこに立って、百合子をじっと見つめていた。百合子は、その時、初めて、自分が女として見られていると感じた。嬉しかった。容貌に、劣等感を抱いていた百合子にとって、そんな体験は初めての事だった。だけど、さばけていない百合子は、それだからと言って、相手と、会話を始めるわけでもない。相手も、こちらに向かって、何かを話しかけるでもない。それっきりの間柄・・・・・の筈だった。だが、再開の機会はやって来た。
 夕日が外の樹木を照らしている時間帯に、百合子は、駿台予備校の廊下で、壁に張り出されて居る模試の結果を見ていた。午後の無試験入学組、1000人近くの中で、百合子の番号は、たいてい、30番以内に入っていた。で、大きなマジック数字で、出て居るので、見つけやすかった。その時、たまたま、723番君が傍に立っていた。で、723と言う番号を探すと、それもあった。嬉しくなって、「あら、あなたのもあるわね。あそこに」と言った。
 百合子はその時に初めて、無償の愛とはなんであるかを知った。相手の住所も知らない。そして、将来の、関係も何もない。依存もなければ、支配もない。感情のしこりもない。だけど、そんな相手の事でも、相手の成功がうれしい。そして、相手も、百合子の好成績を喜んでくれている。何ともきれいな空気が相手との間に流れた。
 その時に百合子は、自分の傷をいやしてくれた小説の中の主人公と、723番君を重ね合わせた。
 それは、ロマンローラン作の【ジャンクリストフ】の中に出て来る、オリヴィエ・ジャンナンである。主人公のジャンクリストフと、比較をすると華奢で、体が弱い。だが、信念は固くまじめである。フェロモンが横溢とは言えないので、妻に、パリにありがちな不倫をされてしまう。そして、それを許さない。723番君は、私の愛読書の、その副主人公に似ている。そう感じる。と抽象的な世界での、思考を抱く。ただ、それだけの関係の筈だった。リアルな世界でのボーイフレンドでもないはずで、住所も教えあわないで別れた。
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第四章、『三鷹駅前、バス停、1962年 10月某日』
 
 1960年代に、国際基督教大学へ向かうバスは、三鷹駅から出て居た。2015年現在は武蔵境駅から出て居る。理由は当時の武蔵境駅は、特に南口は、本当の田舎であって、バスロータリーを作る余地がなかったからである。今は、駅南口は、すっかり変貌をして、大きなバスロータリーができている。
 で、1962年の、10月の文化祭当日の、百合子は、三鷹駅前のバス停に、村岡浩二君を迎えに行った。例の723番君である。どうして、連絡が取れたかって? 彼が、住所を探し出してくれたのだった。偶然の賜物である。彼が夏休みにバイトをした証券会社に、百合子一家の、資料が含まれていて、『あっ、これは、ミス722番の実家だ』と、直感をしたそうだ。それで、手紙をくれた。
 
 百合子は当然のごとく、ひどくうれしく思った。で、手紙の返事を書いて、文化祭に遊びに来てくださいと、書き添え、日時と場所を指定して置いた。三鷹駅に現れた彼は学生服を着ていた。彼の父は、旧海軍工廠で、戦艦大和を作ったそうである。それは後日聞くことと成る。そして、戦後、パージなどいろいろあったうえで、海軍工廠が、変遷した結果の、石川島播磨造船所で、課長をしていた。だから、別に貧乏な家というわけでもないのだが、いかんせん、男の子が四人もいて、全部大学へやっていたので、教育費が大変だったのだ。私立大学へ二人、国立大学へ二人入れていたが、東京へ三人を遊学させていたので、ひどく、緊迫したお小遣い事情だったのである。ICUの男子学生と比較をするとなんと違う事だっただろう。後年、出会うことになる畦倉弘夫君など、三越か高島屋か、銀座のテーラーかで買ったであろう上質のツィードのジャケットを着ていた。そして、もう一回、村岡浩二の当日の様子に戻ると、胸には、白飯の粒がついていた。『なんと、子供っぽいのだろう』と驚いたことは驚いたが、すでに、オリヴィエジャンナンに擬しているのだ。あばたもえくぼで、ただ、ただ、ほほえましく思った。
 そして、百合子は普段は抑圧して隠している、かわいい人モードを全開した。生真面目な人と周辺からみなされている百合子は、本当はとても面白い、そして、かわいいところもある人間だった。それは、百合子に対して、好きではないモードを全開にしていた若い日の母でさえ、「あんたには、かわいいところがあるからね」と認めていたくらいだ。
  そして、母からの愛を巡って、百合子にライバル意識をむき出しにして居た妹の真紀子でさえ、「お姉さんは、バラみたいなところがあるのよ。でも、私は月見草ですからね」と言われていた。しかし、この言葉だけは、頷けなかった。百合子にしてみれば正反対だった。「暮にはサンモリッツに、スキーに行って来ました」と、お正月の集まりで、話し、洋服は、三越か、高島屋で、ブランド物を買い、おけいこ事は、テレビに出てくる様な、有名な先生について習っていた妹の方こそ、バラの女だと、思っていた。
 だけど、いずれにせよ。この1962年の10月のある晴れた日の午後の、百合子は、薔薇の女だった。弾むような声がでて、弾むような笑顔が自然に出て来るのだった。
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第五章、『三鷹駅 → 国際基督教大学正門前 のバス車中 1962年10月某日』
 
 三鷹から、午後に出るバスには、学生の姿が少なかった。通学生でお祭りに参加する予定の子たちは、すでに午前中に学内に到着している。招待客もお昼までには、到着しているはずだった。だが、百合子にとっては、それが、好都合だった。自分だけがその良さを知っている秘匿したい少年、村岡浩二(=723番君)と、初めてのデートをするのだった。別に、誰にも見せびらかす必要はなかった。二人だけで、人の少ない一帯を散歩するつもりだった。
 
  バスは空いていた。そこへ、同級生の俣江氏が乗って来た。この青年に対してだけは、君付けができない。彼は、他の大学から転入してきたので、三歳ぐらい年上だった。単に年上なだけではなくて、どこか、他人を支配したいのだと、思わせるところがあった。何で、支配をするかと言うと文筆の能力の高さである。しかし、百合子は俣江氏の文章を読んでも、評価を高くすることはできなかった。一種の有名人になる願望を持っていて、その目標は、埴谷雄高か、吉本隆明かと言うところだっただろう。
  だが、一方で、人なつっこさを、発揮して、人気者になる才能もあった。このバスでの邂逅の四年後、彼は、学内一のマドンナをしとめるのだ。演説の才能と政治力によって。
 ところで、人間の能力の高さを測る基準の一つとして、日本では、出身大学の人気度とか入試のむずかしさが挙げられている。年を取ってくると、勤務先の有名度とか、その会社内での役職も、判定のスケールとなる。
 
 ところが、20代の前半、特に大学在学中には、まったく別の尺度で、その人間の能力が図られる時期がある。それは、恋愛能力の高さ如何であって、簡単に言うと、異性とベッドインできるかどうかと言うことだ。結婚に結び付かなくてもいいのだ。ともかく、相手を落とすこと。これで、優劣が決まる処がある。つまり、恋愛で獲得した女性の、レベルが高いと、レベルが低い方に勝つ。また、ベッドイン未満の関係において、自分を好きだと告白して近寄ってくる女性の数が多い方が、それが、少ない男性より上だとなる。これは、女性にも当てはまる要素かもしれないが、ただ、女性の場合は、男性ほど、顕著に見えないことも多い。それは、百合子の様に、「結婚式まで、処女で居ないと、自分のセールスポイントが何もなくなってしまう」などと、考えている女性もいるはずだから。
 
 この時点で、百合子は、未だ校倉弘夫には出会っていなかった。だが、後日の、今、2015年になって、俣江氏と畦倉君の二人を比較すると、なんと大きな懸隔があっただろうか?と、思い至る。 
 畦倉君は、有名タレントと、どこか似ていた。たとえば加山雄三の若き日とか、松岡修造の若き日とか。そういうムードがあった。
 俣江氏には、その手の、身体的な魅力はなかった。だが、人懐っこさを利用して、すべてのクラスメートとよく会話を交わすこと、および、出版物で、クラスを支配していたのだった。
 出版物とは、お手製の雑誌である。クラス23名全員から原稿を募集して、それを編集し、ラシャ紙に、ガリ版で印刷した物を、23部作り、同級生に、寄贈した。1962年だからコピー機も普及しておらず、ましてや、パソコンはなかったのだから、すべてアナログの手作業でできている。内容は、イラストによる、自分のプロフィール、言葉による他者からの評価などで、編成をされていた。
 他者からの評価として、俣江氏は、『あなたは、いつまでもそのままでいいのですよ』と言うオマージュを、クラス一、美しくて、しとやかな女性に捧げていた。美しさと言うのはいろいろな種類がある。美しいという意味だけなら、他にも美しい女性はいた。だけど、態度そのものを含めた総合力で、美しい女性とはだれかと言うと、俣江氏が、『そのままでいい』と言った女性が一番だった。
 
 百合子は後年画家になっていく。それは、小さいころから、その要素があって、『自分は、美醜に対する判断能力は高い』と思っている。そして、後年画家として、メルマガを経営していたころに、読者から、『美形好きの村岡さん』とからかわれもした。だから、俣江氏のオマージュについては異存はなかった。
 だが、彼女に比較して、自分の頁を見た時に、あまりにも粗末な、そして、好意のない扱いを受けていたので、ひそかに俣江氏を恨んでいた。と言うか、もともと嫌いだったのが、さらに嫌いになった。
 どういうことかと言うと、俣江氏からの、評価の言葉は無くて、他の男の子二人からの評価の言葉が載っていたのだが、・・・・・とても、つまらない女だ・・・・・と、百合子を規定している文章だった。一つは「百合子さん、空を見てごらん、空は広いよ」と言うもので、換言すると、「あなたは、視野が狭い。そのうえ、がちがちの、がり勉で、つまらない」と言っているのだった。
 
 もう一つは、「志ん朝の落語を聞いてごらんなさい。面白いよ」と言うものだった。こちらを、換言すれば、「あんたって、ユーモアが無くて面白くない」という事だった。
  これらは、当時の、同級生から見れば真実だっただろう。だけど、その陰に、「あいつは、恋愛をできない女だ」と言う編集者俣江氏の、低い評価があったのではないだろうか?
 
 軽々しく、言葉には出さない。だけど、何事につけても深く深く考えるのが、百合子だった。だから、『こういう頁は、自分の真実を表していない。いやな雑誌だ』と、とらえた。
 しかし、その1962年の秋の日に限って、百合子は、自分が思いがけない形で、俣江氏に、復讐をしたのを知った。
彼は運転手のそばで、ポールにつかまり、こちらに背を向けて、こちらを見ようともしないのだ。入ってすぐの席と言うか、真ん中より、前のベンチ席に百合子と村岡浩二は腰かけていた。そこが、出口ドアに近いので、便利だと考えたのだ。だから、前方にある入り口から入った途端に、彼は百合子たち二人に気が付いたはずだ。もし、何も痛痒を感じなかったら、百合子たちの前を通り、「おや、デートですか。珍しいですね」と、言うぐらいの軽口を言い放ち、そのあとで、後ろヘ進んで、空いている席に座ったはずだ。しかし、三鷹駅前で、停車中の3分間ぐらい、また、それに足すこと、運行中の30分、彼は席が空いているのにもかかわらず、運転手のそばで、ずっと立っていたのだった。
 『きっと、こういう事だろう』と思うのだが、驚きを隠せないので、百合子を無視する作戦に出たのだろう。『なあんだ。俣江氏って、意外と子供っぽいのね。自分が慣れていない事象に出会うと、逃げちゃうんだ』と、思って、愉快だった。
 
 百合子は、この様にして、相手が低く見ているのに、相手を凌駕する精神状態に達することがある。しかし、リアルな世界では、それを言葉には出さないので、ずっと状況は変わらない。だが、時々だが、この様に、天佑を受けて、相手を深く驚かすことがある。
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第六章、『横浜駅ダイヤモンド地下街。1962年10月某日』
 
 百合子は浩二を、いざなって早々に三鷹を引き上げた。本館周辺の人の居ないあたりを散歩しただけで、お祭り広場には、歩み寄らず、さっさと二人の共通の生活圏である横浜へ引き上げた。村岡浩二は、当時は横浜の大学へ通っていたのだ。そして百合子の自宅も横浜にある。
 二人が初めて、二人だけで話し合う機会である。まず、あたりさわりのないところで、愛読書が何かを話し合い始めた。すると、「僕の愛読書は、【我が闘争】です」と彼は言う。百合子は仰天をした。これは後になって、『浩二が、呉で育ったことの影響が大きい』と感じなおす。戦艦大和を作った町だ。敗戦後の、進駐軍の侵攻などに、違和感があったのかもしれないと、思い直していく。あばたもえくぼだから。だけど、先ほどまで、あたりに充満していたバラの花の様な雰囲気は消えてしまった。
 特に東京圏の高校育ちだったら、女の子を前にして、僕の愛読書は、【我が闘争】です。などと、1962年に言うバカはいないだろう。1960年に樺美智子さんが死んだばかりだった。
 『これは、困った事になった。男の子と、女の子として初めて付き合い始めた相手なのに、話題が全然合わないぞ。こういう会話を続けるのだと、ICUの男の子の方が、会話の内容が深くて面白いだろう。駄目かな。この出会いは。つぶれるかな?』と、内心で思いながら、でも、何かが不思議で、浩二の次の言葉を待った。
 珍しくも百合子は、自分の方は沈黙を守った。すると、浩二が毅然とした感じで、「僕は検事になろうと思っているのです」と言った。
  百合子は慌てて、頭の中で、記憶を反芻し始めた。『ねえ、オリヴィエジャンナンって、何の職業に就いたのだったかしら? 確か学者だった筈よね。そして、時々文章を書いて、ジャーナリストめいたこともしているのよ。つまり、彼の姿って、ロマンローラン自身を反映しているのよ。参ったなあ。駿台四谷予備校、午後クラス、受験番号723君って、外見は、オリヴィエ・ジャンナンにそっくりなのよね。清潔で聡明な感じを持ち、きゃしゃな体に強い精神力を秘めている。そこまでは、ぴったり同じなのだけれど、望んでいる方向が違うのよね。困ったなあ。予想外の展開だわ』と、思い続ける。
 
 で、百合子はぼそっと「私ね。あなたって、エンジニアになって、白衣でも着て、研究所で、何かを発見したり発明したりする方が、似合うと思うんだけど」と、言ってみた。それに対して返答はなく、そこで、会話は途切れた。
 
 で、10月の初デートでナポリタンでも食べただろうか。そのあとで別かれて以来二人には、何の交流もなかった。『このままフェイドアウトしていくのかしら。そうだったら、あれが大変にラッキーだったということになるわ。よかった。俣江氏に、お祭りの日に彼を見せることができて。そして、次の週に、「見た。私だってボーイフレンドぐらいいるのよ」って、自慢しないで置いて』 『ともかく、俣江氏は、一瞬だけだけど、村岡浩二を目撃したのよ。そして、清潔感あふれるあの顔を見たのよ。彼の判断基準では、ベッドインまで行ってこその、恋愛だと思うけれど、あの一瞬の目撃で、そこまでは、判定できなかったでしょう。でも、私が掌中の珠として、ごく上等な感じのボーイフレンドを持っていることは、見せられたのだから、ラッキーだったわ。それだけでも、感謝するべきで、それ以上は、浩二君には望まないこと』と、思っていた。
 
 次の年、1963年に入った。ほとんど、忘れたころだった。村岡浩二君から二回目の手紙が来た。そこに、『僕、今度、工学部応用化学科へ、転入学しました』と書いてあった。
 
 百合子は生涯で初めて、自分にも力があるということを知った。そして、恐ろしい影響力であることも知った。
 だけど、無論のことうれしかった。『彼は頭がいい。だから司法試験には受かるだろう。そして、検事と言う職業についたら、ご近所様や、親戚には、大きな顔はできるだろう。そして、裁判所で、主役にもなれるかもしれない。だけど、ある人間を死刑にするかもしれないという職業は、人間として、できるならつきたくない職業だ。ストレスがかかるはずだ。威張ることができる代わりに、引き受けないといけないストレスが、大きい。
 威張れるということも快感があるかもしれない。だけど、幸せな毎日を送るという緩慢な快感も、良いものだ。彼には、これから先、ラッキーな人生が開けるだろう。よかった。よかった』と、思った。
 祈りに似た暖かいものが胸を満たした。
 
 
著者敬白
 
 ところで、夜の九時半から、次の日の、午前一時までかけて、また、文章を足しました。そして、15000字を超えたところで、この章を閉めるとさせていただきます。だが、全体を見回すと、小説としては、この章内では、まだ、何も結実をしておりません。だが、伏線を張っているのだと思ってくださいませ。後日、まとまってきます。本日の章は、すべて、将来への展開に役立たせるための、伏線となっています。
  今、大体の誤変換も直し、
 完成したしるしである、三角じるしを、総タイトル横に付けておきました。 
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