銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

M氏が青地という物を急に設定したので財務局で調査して、西隣に土地を奪われる可能性がある事を知り唖然としたが、結局は救われた・私

2017-12-24 22:09:12 | 政治

 私が非常に、重要な事を書いている最中に、NHKニュースが嫌なしかも、気にかかるニュースを流すことがあります。本日=2017年12月26日には、山尾志桜里の、立憲民主党入党と、貴乃花親方の事情聴取(警察からではない。日馬富士白鵬と、何たる違いか?)+貴乃花部屋へのオマージュ記事が、3つのニュースで取り上げられました。貴ノ岩の十兩・在位が、来場所休んでも保証されることが繰り返し、報道をされました。ところがです。オンラインニュースで見ると、貴乃花親方が事情聴取を受けたことが、出てきません。それは、ですね。私が、このブログにコピペして使うと、日馬富士やら、白鵬との違いが、明瞭に文章化されるので、避けたのでしょう。あまりにも大きな偏波が見えるので、私が言っている事の方が正しい事が、読者の皆様にも、ご理解をいただけるはずだからです。こういうニュースを流す際に、私は、そっちへ、寄せ付けられてしまい、自分が書きたかったことが中途半端になることもあります。それにリアルな世界でも、最近では、大きな、しかも、意味あることが続いています。

 ところで、この一文ですが、実際には26日の夜10時半より公開をしますが、日付だけは、24日にさせてくださいませ。それは、記事のすべてが、表に出てくる様にする為です。ご理解をいただきたく。

~~~~~~~~~~~~

副題1、『益山重夫氏・性善説を取れば、彼の急死は自殺である。引き金は、私が青山敦子弁護士(東大卒、お茶大付属高校時代の同期生)に、・・・・・今日の四時に、益山智恵子さんに、轢き殺されそうになった・・・・・と、外からの電話、および自宅からの電話で知らせた事に、あろう。盗聴機能をわざわざ誇示しながらも仕掛けてきた彼は、それを、聞いて、絶望をしたと、推察される。どうして絶望をしたかというと、彼の方がこの暗殺を計画して、智恵子夫人に命令したと仮定をすると、失敗したので、絶望をしたとなるし、彼はそこまでは、命令をせず、従って、智恵子夫人が独断で、その手の事をやったとなるが、そこまで、妻が、追い詰められていることを知って、それは、自分が、へまをしたからだと、思って、自分を責めて、絶望をしたと、言う事になる。その両説があるが、いずれにしろ、もし、自殺だったら、私の電話が引き金であったことは否めないので、私は、ある程度、悩んだことも事実ではある。しかし、本日、初めて、私の本心ちゅうの本心を語ろう』

 私は、1978年10月11日に、益山智恵子夫人に、セドリックハードトップで、轢き殺されそうになったわけだけれど、その同じ日に、智恵子夫人の夫である、重夫氏が急死した。これは、驚きべきことであり、益山氏が、自殺であれ、脳溢血等の、病死であれ、その当時、8月のお盆シーズンから、2か月弱にわたって、私を苦しめていた存在が、この地球上から、急に、いなくなったのだ。

 あっけにとられる様な出来事で、「狐に鼻をつままれる」とは、このことかと思った。だが、私自身が殺されそうになった直後らしかったので、あまりにも時間が近接しているので、自殺の、線も考えて、いささか以上に気分が悪かった。どうしてかというと、性善説を取る私は、悪事をなす益山氏の方にも、彼なりの、いろいろな都合があったとは、考えていたからだ。・・・・・前の奥様が、アメリカ人と恋に陥って、子供と自分を捨てて、アメリカへ逐電をしてしまった・・・・・というのは、益山氏を、道徳的に自暴自棄にさせたと、見えるので、彼にとっては、この大掛かりな詐欺事件も、ほとんど、お茶の子さいさいの、事案であって、罪の意識すらない出来事だったと、思っている。であろうと、私自身が事件の渦中から考えて居たし。

 しかし、彼は大ミステークを犯した。一つは、昔からのこの近辺の、形状を塾知していて、益山氏の大規模な詐欺計画を、見抜いていた、原正芳氏の実印をもらうのを、避けるために、彼の敷地を【青地】(後ほど、詳しく説明をする)で、囲んだことである。こういう高度な悪でも、私なら、たちまちに裏側とか意図を見抜いてしまう。そこを、見損なっていたという事だ。つまり、私の頭脳レベルを非常に低く見積もっていたという事。たしかに、私はお茶大付属高校卒とも言っていないし、横浜国立大学付属中学卒とも言って居ない。そして、ICUは、1962年当時は、東大に入学するより難しいと言われていたが、アメリカが設立した大学だ。元、海軍参謀である、益山氏は、アメリカを嫌悪していたと思われるので、私が、非常に頭が良い事を大学名から察知することは、無かった模様だ。

 または、判っていたので、上滝氏と、区別をして、私を噛ませなかった。・・・・・私は我が家の実印を主人がすでに押したらしいという事すら知らなかった。たまたま、母が、60坪中の半分、30坪を保有していたので、母の実印が必要になり、その際に、益山夫人が日吉の母の家にそれをもっていっても怪しまれるだろうと言う事で、益山夫人が、主人が帰省中の留守中の、しかも夜に(と言う事は、西隣の原家に気が付かれないで済む時間帯に)、我が家に持ってきたのが、すべての始まりだった。そして、幸か、不幸か、私の母も、ものすごく頭がいい事で、初期段階で、その地籍変更届というものは怪しいわよ」と指摘をした事だった。特にリアルな世界の経済的事案に強かった。もし、彼女が余暇をお琴とか、縫物に使わないで過ごしたら、不動産鑑定士ぐらいは、取れたと思う。まあ、ここは、益山氏側に、大きな失敗がある。

~~~~~~~~~~~~~

副題2、『益山氏は、たった、150坪の山林を買って引っ越して来たのに、1979年の時点で、すでに、自分私用の土地として、200坪を支配していた。また、京急池田分譲地の道路をインフラ整備として使ったうえで、そこから延長して、100坪程度を幅4メートルの立派な私道として作り上げ土地として消費していた。その上、それ以外は、各30坪単位で、14戸分、作り上げていたのだった。ここまでで、すでに、720坪に成るので、すでに、マイナス570坪となる。それは、すでに、570坪ほど、横須賀市の水道山に食い込んでいたとなる。その部分は、重機で整備していて、最初は、原家も、益山氏の作った私道を使って、車で出入りしていたので、和気あいあいとして、付き合っていたみたいではある。しかし、その当時の益山家は、激しい秘密主義であり、町内会にも参加して居なかった。で、原家との間は、微妙なところはあったのだ。

 しかし以前は、ここに住んでいなくて、益山さんが、道路を作った後で、家を建てて、転入をして来た原家も、変だと思うのは当たり前だ。しかも南面で、2メートル程度の高さの築地が、急に、10mにかさ上げされ、しかも、べったりという形で、建売住宅ができて、突然に司会が遮られ、日あたりも悪くなったので、怒りは、深かっただろう。しかも、戦前からの地主であるから、山の地形も熟知している筈の、原家が、益山氏一家を、変だと思うのは当たり前だ。もう一軒、T家というのが戦前からの地主だが、T家は、益山氏が作った私道を使わないと出入りができないので、何故か、益山氏は、安心している。何らかの方法で、恫喝兼、懐柔がすでに済んでいたのであろう。

 以前も言っているが、原正芳氏は、夫婦そろって、税関の職員だし、次兄は流行っている歯科医院を経営している氏、長兄は、横須賀市の市議会議員だから、強気であり、あたりを睥睨して生きて居た。でも、不満がある。それで、後から来た、民間企業勤めの、我が家に対して、留守を預かっているおばあちゃん(奥様の実母)が、折に触れて、私をいじめて来た。

 原家と益山家の、内面での、確執は、益山家が悪い。しかし、原家と、我が家の確執は、原家側が悪い。でも、私はリアルな世界で、喧嘩をする人ではないから、益山家にも原家にも文句を言わないで、財務局へ調査へ出かけることとなる。それは、もしかすると原家が、我が家を壊すことになるかもしれない青地というのが、地籍変更届の書類の中に、線引きをされていたからである。青字の概念については後ほど詳述する。

 で、結論まで、言ってしまうと、財務局に質問に行った結果、私は、益山氏の悪行がすべてわかってしまって、益山氏の悪行を書いた、内容証明を、法務局と財務局の両方に送る事となる。したがって、結果として、意図せずして、原家に成り代わって、原家がやりたかったであろう、益山家への、復讐を、私が、果たしたこととなるのだ。

 私が、財務相局と法務局に、送った内容証明は、当時、東京、大〇弁護士会・会長だった、栗原一郎弁護士に、「何の欠点もない。あなたは、本当に頭がいいのですね」と言われたものだから、もし、益山夫人が、私をひき殺そうとしなかったら、この問題は、このブログに書いても、読者の皆様が、複雑すぎてよくわからないという問題として、終わったであろう。

 しかし、益山夫妻は、近隣トラブルを心理的武器として使い、私がそちらへ多大な奉仕をしたのに、そちらから恨まれている、上滝家を、我が家より上に置いて、優遇し、成功報酬まで、保証しているのに反して、私の方は、上滝氏に、『この機会を利して、5年ほど前に搔いた、恥をこの機会に復讐してやろう』とされ、『我が子が大人に、いじめられるという憂き目に出会い』、そこからも、怒りを感じて、しっかりと調査し、内容証明も送る事となるのだけれど・・・・・そういう事も、これをミステリー小説として書いていく事を助けている。

 しかも、銀座では、画廊のオーナーである中島三枝子さんとか、栗田玲子さんとか、作家である秋山裕徳太子氏とかが、目に見える形で、いじめてくる。そして、鎌倉雪ノ下の、ご近所では、西隣も北隣も、後から引っ越してきてアジサイ畑欺罔事件のことなど真相を小指の先ほども知らないくせに、安野智紗夫人とか、前田清子さんに、教唆されて、いろいろ、おやりになって来てくださる。それが、すべて、心理的な攻撃であるので、小説として書くのに都合が良いのだ。枚挙のいとまがないほどの、種を与えてくださる。

・・・・・で、私は、いじめられながら、「ああ、是って、使えるなあ」と、喜んでもいるのである。はっきり言えば、内心でせせら笑いながら、小堀玲子さん、香月ひとみさん、醍醐イサム等を、見ているのだ。それが、私の本心である。つまり、次の節で述べる三すくみの論理もあろうが、それとともに、神様のお裁きというものを、40年前のこの、益山重夫氏の急死という事案に、すでに、見出しているからだ。以降も時間の長短は有れど、大体同じだと、見ている。

 1978年の件で、上滝家を含む方面の複雑さは、まず、置いて置いて、原正芳家と、私と益山夫妻にもどろう。

~~~~~~~~~~~~~

副題3、『人口兆密な日本では、三すくみの法則が通用すると言われる。したがって、あなたが、誰かをいじめると、どこか、まったく別の方向からブーメランが帰って来て、あなた自身が苦労をするという事を指す。私は、このブログでは、初期的な攻撃は、一切していない。こちらから、先に、相手をどうのこうのすることはない。ただ、相手方が行って来ている事、2017年の冬なら、貴ノ岩騒動だが、それが、安野智紗夫人を助けるためのモノであって、うんぬんかんぬんとは書いていく。それは、ありだ』

 原正芳家は、自分が住宅用地として使っている以外の土地を、相当する保有しています。だから、動きようによっては、それを売れば、益山家と、同等な、金銭を得ることができると考えているでしょうし、家も益山家の五倍程度と、大きくて、毎週末は、庭で、バーベキューパーティを開くなど、生活もひどく派手です。

 本当は益山家に文句の一つも言いたいところでしょう。1978年よりも前に、既に、言ったかもしれません。しかし、何らかの方法で、しっぺ返しを受けたのだと、思います。で、市会議員をしていて、しかも、地元の平地の地主である、お兄さんに打ち明けたのでしょう。しかし、市会議員というものも、個人としては、市長とか、市役所よりは弱いのでしょうね。共産党だったら、大組織を利用できますが、自民党だったと、思います。しかも、今思うと、益山氏の裏に居た、瀬島龍三が、すでに、京急を噛ませていた可能性が高いので、それも、知った、長兄は、弟に、「我慢しなさい。相手は何か知らないが、大きいぞ」と、言っていた可能性があります。でね、共働きの留守を預かっていた、これも、風間章子似の、美形のおばあちゃんに、私はいじめられていたのですよ。

 さて、地籍変更届の中に、我が家の西側に沿って、青地というのが、突然に設定をされていたのです。これが何なのであるかを、教えてもらったのが、最初誰だったのか、今は、記憶が定かではないのですが、法務局の待合室にいた、お客さんの誰かだったかもしれません。もしかしたら、上記の青山敦子弁護士だったかな? 青山敦子弁護士に、お世話になった部分としては、何をどういう風に調査をしたら、真実が判るのかの、方法論を聞きました。また、調査に入ってはいけない部分の事も聞きました。たとえば他人の戸籍謄本を取ってはいけない樋音などは、芸能人のプライヴァシーの問題で、今では、世間の誰もが知るところですが、1978年当時は、そういう知識も公開をされていなかったので、弁護士さんに、お聞きした上で、動いたのです。

 ところで、青山敦子弁護士の名前を出したくなかったのですよ。というのも青山さんは、調査のやり方を教えてくれただけで、それ以上は手を出さないと、言われたのです。友達だからこそ、感情が混じるおで、後が厄介だと、思われただろうし、『あまりにも異常な話だから、川崎千恵子が、被害妄想にでもかかっているのではないか』とも、思われたらしいのです。

 ともかく、誰かからですが、それは、国有地だということを教わりました。で、国有地を調べるのには、財務局に行くべきだと教わります。当時の財務局って、法務局のビルの中に同居をしていました。が、一般人を相手にしていないので、組織として、二十分の一ぐらいだなあと、思うほどの小さな組織でした。で、訪問をします。優しくて、純真そうな青年が出て来て説明をしてくれました。

 青地とは、江戸時代にできた制度で、誰の持ち物でもない山林地主(たいていは、お殿様とか、お代官だった)と、畑を耕している、農民との間に、日照権をめぐる争いを避けるために設定をされた緩衝地帯だそうです。それを、聞いて、江戸幕府とか江戸時代の、官僚って、ものすごく、実情に在った制度を作っているのだと感心しました。山林地主は、普段、あまり、見回りには来ませんね。だから、ちょっとやそっと、利益が少なくなっても文句を言わないと、見做されていて、ある程度の、場所には、そこに樹木を植えない事と、言うしきたりがあったのです。

 それが、明治以降、土地台帳を、作って、そこに、きちんと坪数等を、記載して公図も作る事となりました。それで、青地は、国家の所有地として、登録をされました。で、「それがあると、将来、どうなっていくのか?」という事を質問をすると、それから、先が、「さあ大変」となるのです。「どんぐりコロコロ、転がってー、お池にはまって、さあ大変」という童謡がありますが、その日の、財務局での、私はどんぐりさん状態でした。真っ青という状況です。

 というのも、「青地ですが、最近では、払い下げの対象になってきています。田舎だった土地にも、宅地開発が進んできました。それで、真ん中に線を引いて、両側の地主で分かち合うという事になっています」と、聞いたからです。で、青地とは、伝統的に、一間幅と、決められているそうで、我が家側に全部入って居るそうですから、90cm幅は、原正芳家に渡さないといけません。

~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『2017年現在、私が知っているところによると、悪人たちが、この件を蒸し返して、私をいじめてやれと、案を企画をしたらしくて、我が家の北隣の、伊能さんに、<青地の払い下げで、お金を払え>とかなんとか、言ったらしい。うっすらとだが、それを、伊能さんが、私に話してくれたという記憶がある。で、それを、防ぐために、現在における私と原家と、そして、益山智恵子夫人の実弟である、仲野通巳吉氏との関係をきちんと、書いておこう』

 上の地籍変更届が、起きたのは、1978年である。そして、2017年現在は、原正芳氏は、亡くなっているし、おばあちゃんも亡くなっているし、高齢の奥様が一人で住んでいるという状態に変化している。この奥様が、大変に頭が良くて、地域社会で、活発なカルチュアー活動を展開しているそうだ。さもありなんと、思っている。

 で、私は、この奥様に、自分が頭がいい事を、すでに、認めてもらっていると判断をしている。それは、ポテトサラダと、プレスハムによる食中毒の問題として過去に、すでに書いているのだけれど、原家の西南側に住んでいる同じく地主である家T家の当主が亡くなった時に、50人分の箱膳を、何と原家で、作ったことがあり、その際に、起きたエピソードである。原家は何度もそれを言う様に、派手な生活態度の家だったので、当時では、全く珍しいものだった高さ180cmの大型冷蔵庫を、持っているお宅だった。それに家自体が、50坪は有ったので、二つのお座敷に、座卓形式の、おおきなテーブルを、二つ置き、その上に大皿に盛った料理を次から次へと作って、後ほど、箱膳に盛り付けるという予定だった。私は本当は原夫人とは仲良くない。原夫人は、同年齢の奥様を招いて二人で、楽しそうに、作業をしていた。ただ、材料を買う段階では、加えられず、途中から私が、招かれたのは、当時私が町内会の班長だったので、「あの人も入れた方が、いいんではないかい、ちょっと、顔を立てて置こうよ」という事になったのだと、思う。さて、てんぷらが終わって、お煮しめも作って、お刺身も人数分の、点検だけはして、その次にポテトサラダを作ろうという事になった。材料として、ハムだけが買っていないという事が判った。

 その当時は、山ノ下の大型スーパーはまだ発達をしておらず、山の上の小型スーパーがまだ生きて居る時代だった。ちなみに今はそれは、閉店をしているが。で、そこでは、真空パックの、しかも低レベルのプレスハムしか売って居なかった。プレスハムというのは、今は、あまり見かけないが、くず肉を、寄せ集めて、ハム状態にしたもので、上等なものは、エンドウ豆や、血が入って居たりして、面白い味がするが、低級なものは見るだけで食べたくない感じの、ハムである。しかも、真空パックの中には、すでに、水が溜まっていた。古いのだった。

私はすぐ、中毒事件の事を思い出した。::::::::下には、wikipediaから採った、1951年のニュースをコピペで置いたが、それ以降も繰り返し報道をされている問題だった。

ボツリヌス菌は缶詰、ビン詰、真空包装食品などの嫌気的な食品で発育する病原菌で,欧米諸外国ではソーセージやハムによるA型やB型ボツリヌス菌食中毒が既に1890年後半から1900年初期に明らかにされていました。

 国内でのボツリヌス菌食中毒の発見は遅く、1951年に北海道の岩内町で鰊のイズシを原因食品とするE型ボツリヌス食中毒により、14名が発症し内4名が死亡した事件が最初です。それ以降国内のボツリヌス食中毒は、北海道、青森県、秋田県、岩手県、福島県などで喫食されている魚介類の発酵食品であるイズシを原因食品とするE型菌食中毒が主体でした。

 ところが、近年になり、真空包装食品や缶詰によるA型ボツリヌス菌による集団例や散発的な発生が多発してきました。よって本稿では、真空パックなどの容器包装詰食品のボツリヌス食中毒予防について述べます。::::::: で、挿入から、ここで、元の私の文章に戻ると、

  『これを使うのは、危険で嫌だなあ』と内心で思っている目の前で、原夫人ともう一人の奥様は、その古さを問題とせず、「切り刻んで、ポテトサラダの中に、混入しましょうよ」と、言い合っている。時は6月、戸外は晴れきっていて、熱気がむんむんする。今作って、実際に参列者が食べるのは、3時間か四時間後だ。どうして、二人の主婦が食中毒を心配しないのかが不思議だったが、もし、そこで、私が、食中毒問題を出すと、それに気がついて居なかった二人の主婦に恥を搔かせることになる。年若い私の方が、普段は、目上の存在として、常に、威張っている二人に、恥を搔かせるのだ。復讐をされる可能性がある。むろん、やりたくない。しかし、本質を大切にする私だから、到頭、こう言った。「食中毒が心配だから、お出しする直前まで、冷蔵庫に入れて置いて、単純に飾りとして、上にポンとのっけた方がいい。混ぜるのは反対です。お肉関係の食中毒って怖いのです。人が死ぬ可能性があるから」と。

 あたりの空気が突然に、冷凍状態に陥った。私はいたたまれず、家に帰った。さようならとも言わずに帰った。しかし、30分後に、原夫人が呼びに来たのだった。彼女は聡明な人だった。それで、私も元に戻り、三人で仲良く、50人分の箱膳を用意して、お客さんたちの帰りを待った。得難い経験だった。原夫人は、それ以前にもオートマチック車で、我が家の庭内に、落っこちてきたが、それは、保険で、始末されている事なのだ。

 しかし、原夫人は聡明でも、杉本夫妻と、仲野通巳吉が悪人である。しかも背後に、警察庁が、CIAの私兵として機能をしているし、伊藤玄二郎は谷垣さんが亡くなった後でも、安倍総理大臣を良い様に支配をしている。しかも、最近だが、私が北久里浜のいえに行くたびに異様なことに出会う。電気がついて居たり、または、反対につかなかったり、窓が開いて居たり、反対に鍵が、利かなかったり。それを恐れて行かないわけではなくて、ブログを書くのに忙しいから行かないだけだが、ともかく、1978年に起きたことが、私側の被害としては、連綿として続いているのだ。だから、やむを得ず、これを書くが原家の坊やとは、山火事の原因を作った少年なのだ。

 もちろんのこと悪気はない。ただ、単純にトム・ソーヤーごっこをしていただけだ。そして、ちゃんと責任を取る気持ちはあるのだ。だから、私に119番へ電話をする様に頼んできたのだった。彼は、小学校の高学年だったと、記憶しているが、もし、自分で電話をしたら、自分が原因だと、判ってしまう。また、そばで聞いているおばあちゃんにことが知られてしまう。また、おばあちゃんに知られたら、両親に知られてしまう。国家公務員である両親に、又、市会議員である、叔父に多大な迷惑が掛かる。

 今から40年以上は前の話だ。黒電話には、子機はないし、もちろん携帯もスマホもない。公衆電話は二つあったが、一つはお店のなかなので、他者の耳目があるから使えない。もう一つは遠すぎる。京急池田分譲地って、広大な、地籍があるのだった。

~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『私は、原家の坊やに信認をされたことを本当にうれしく思っている。彼は、おばあちゃんから、私の悪口は聞いていたと思われる。上滝夫人とは、復讐としての、悪口を、垂れ流すのが、得意だろう。それは、坊やも聞き知っていると、思われる。でも、彼は、近隣にある10数軒の中で、最も信頼できる人物として私を選んでくれたのである。上滝家ではなかった。

 そして、私は、四十年近く、この秘密を守ったのだ。もし、鎌倉エージェントというものが存在しない状況であって、伊能さんに対して、この青地の件でアタックをしていなかったら、この秘密を墓場まで持って行ったと思う。しかし、彼等は、鎌倉においても、西隣にあたる白井・小野寺夫妻を駆使して、心理学的に言うと、イライラ、しかねない攻撃を多数回繰り出して来ている。私はその政治的背景がわかって居るので、イライラしないでやり過ごしているが、時々爆発的に、集中して書くわけだ。今回も雪ノ下の方で、町内会総会というのが開かれているので北久里浜の地籍変更届を詳細に書き始めている。というのもどうも、問題のマンション【ルネ北久里浜。または、前名そらヒルズという】を設計したのが、西隣の住民、白井達雄氏だと、推察しているからだ。

 ところで、この坊やの件にまで、言及をしたのは、上の方で言っている、『三すくみの理論』を鎌倉エージェントに、きちんとわきまえて欲しいからだ。彼らは、もしかしたら、青地の件で、原家を、動かして、90センチ分、譲れと将来言ってくるかもしれない。しかし、そうなると、私は仲野通巳吉とか、杉本夫妻について、あれこれを書く。

 今回は、雪ノ下の町内会総会の件で起こっているので、北久里浜の丘の上の山火事まで書いた。当時、そこに住んでいた小室家(今は空き家だが)鷲尾家、広瀬家、仲家の、人々は震えあがったと、思う。バチバチと、木が裂けて燃える音が、30メートル以上は離れているし、間に家を挟んでいる我が家にも聞こえて来た。そして、みんながバケツりれーで、防いだのだった。普通のバケツでは、足りなくて、ゴミバケツをも、使ったのだった。

~~~~~~~~~~~~~~~~

副題6、『西隣の原家に、土地を取られそうになったので、青山弁護士に相談に行くが、うまく対応をして貰えない。青山弁護士は、意地悪をするわけでもない。当時は三人のお子さんの、したの方がまだ小さかったので、自宅で弁護士業務もしていて、私は、自宅に招かれて、おごちそうをして貰った。「うな重を取りました」というような、計らいではなくて、夏休みだったので、ご自分とお子様方の普段の食事を分けてもらうという形だった。しかも、焼きそばや、お好み焼き等の、粉ものではなくて、ごはんだった。その中の、特に保存食がおいしく、かつきれいにできているのには、驚いた。おまめの煮たものには特に驚いた。それは、相当に、神経を使わないと上手にできない一品だ。だから、意地悪で、拒否されたわけではないが、「うーん、よくわからない」という話だった。

 そうだ。この地籍変更届に含まれている様々な、悪辣な仕組みは、東大出身の弁護士さんだって、解けない謎が一杯のモノだった。

 彼女はとても品の良い人で、司法修習生の時など、ひときわ美しかった。彼女が、法務省内かどこかでの、講習を終えた後で、日比谷公園内の、当時はカフェ部門も持っていた日比谷花壇で、お茶をしていた。日比谷公会堂で、(50年前は、そこでクラックの演奏会が良く行われていたのだった)音楽を聞いた帰りに傍を通って、お仲間たちと一緒にお茶をしている彼女に、気が付いて、仰天をした。

 彼女にはおべんちゃらを言ったって、通じるわけもない。そして、今では、弁護士に頼まないで、戦う気分となっている。それは、この地籍変更届で、やり方を、覚えたからだった。

 青山弁護士は、真実を知るまでの、筋道を、特に調査のやり方という意味で教えてくれた。それを今でも使えばいいのだが、乾坤一擲に場合にしか使わないつもりなので、【アジサイ畑欺罔事件という様な悪辣な仕組みが、形成されてしまうし、その証拠因隠滅も着々と進んでいるという始末だ。青山弁護士は、ご主人も弁護士なので、多分、そちらも東大卒だとは、思うが、ご主人にこの件を回してくれる可能性はないみたいだった。事前に同級生で、弁護士になったのが、彼女一人だけだから、誰かを通じて、私の悪口が事前に入って居たのかもしれない。私は途方に暮れる』

~~~~~~~~~~~~~~

副題7、『この章を纏めるにあたって、語りたい、栗原一郎弁護士のサジェスチョンによる救いの事を』

 既に午前、4時半になり、しかも、書き始めて六時間が過ぎています。くりはら弁護士に入ると、また、長文に成るので、ここで、いったん切ります。ただ、皆様に、栗原弁護士の登場を語るのは、当時、30代だった青山敦子弁護士に比較をすると、年長でもあり、かつ、事務所の所在地が、日本橋だったというのが大きいのです。で、合併の話などで、頭脳の限りを尽くした案件を多数ご存じなわけです。

 で、青山弁護士とは相当に違う回答を得ました。それを語りたいのですが、また、字数が多くなるので、明日に回しましょう。お待ちくださいませ。

 ところで、栗原弁護士の名刺も盗まれております。そして、お坊ちゃまが、すでに、敵さんに、取り込まれておられます。で、私はおぼちゃまや、お嬢様(昔からの友人であった)に電話をかけて、正しいお名前を聞くことができないのですが、もしかしたら、栗原太郎氏だったかもしれません。でも、多分ですが、一郎氏です。1978年度中に、二回ほど、お会いしただけですが、それだけで、「法律とは何なのか?」とか、「法的な争いは、どう決着をつけたらよいのか?」というポイントで、見事な処置方法を教えてもらいました。ただ、その時一回だけしか使っておりまんよ。安易には、使わないで、置こうと、思っていますので【アジサイ畑欺罔事件】程度では使いません。町内会総会を粉砕することもできるのですが、それをまだ、しておりませんしね。

 慎重の上にも慎重です。したがって後れを取り、負けることが多いのですが、勝ってどうします? 今のところ、ご近所連中のやっていることは。悪を助けるために動いている事です。それで、勝った勝ったと、喜んでいて何になります? あほらしい。

 だから、リアルな世界では、喧嘩をしないのです。あいまいなままに残して置く。負けているらしいがそのままにしておく。

 なお、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、439XXXXです。

明日でも誤変換を直し、リンク先を整え、加筆もしたら、書いた日付と署名を入れます。

 

 さて総タイトルは、前夜11時には、もっと、大型のものを使っていた。しかし、本日も五時間も書いているのに、その総タイトルを全部含むところまで書けていない。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする