副題1、『わたくしは前報を、一週間程度さらしていて、更新をしたくないほどです。大変、つらい思いをしながら、書いています。敵さんと、わたくしの間では、丁々発止の頭脳作戦が続いているのですが、敵さんも、・・・・・そこまで、あいつは、わかっているのか、これでは、相当のレベルで、過去の謀略事件の修正をしておかないといけないなあ・・・・・・と、考え始めていて、知床の観光船の沈没事故では、賠償金の、問題が、初めて出てきましたね。だけど、大体が、うその事件なのですよ。24人の観光客は乗っていませんでした。
が、敵とわたくしの間では、素晴らしい緊迫感を伴った、応酬であっても、一般の、読者様においては、・・・前報(あと注1)でも、・・・・・これって、わからないところが多いなあ・・とも、お思いでしょう。そこを、本日は埋めていきたいです』
東急不動産が、戦前戦中、戦後、開発した、分譲地のうちで、東横線の中では、最後発の分譲地・常盤台・横浜市日吉(町)一丁目が舞台の話です。
田園調布が、一単位、300坪の分譲地で、お金持ちは、二区画とか、三区画買っていると思います。次にひよしであって、戦前に開発された駅近辺は、二〇〇坪単位で、分譲したと、推察しています。今は、コマ切れ状態なので、二〇〇坪のお屋敷は、ないと、思います。
次に篠原町です。妙蓮寺を中心として、菊名から、東白楽に至る、線路の西側の丘の上です。岸恵子の実家があったところです。これが、150坪ぐらいでしょう。その後、大岡山、雪ガ谷、上野毛、などを、分譲していった可能性がありますが、わたくしには、東横線以外は、わかりません。で、戦後、1950年ごろ、この常盤台分譲地、60区画が、前に松林だったところを、開発して売り出されました。60坪から、100坪までの、単位区画で、お金持ちは、二区画とか、三区画買いました。そして、東西南北の周辺を小規模業者が、開発をして、それらの家も同じ町内会へ吸収されていますので、全戸、100戸ぐらいの分譲住宅団地です。駅まで、徒歩可能(12分ぐらい)ですが、バス便もあります。
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副題2、『ここの住民の特徴は、明治以降、親、または、祖父の世代で、すでに、東京圏、もしくは、阪神圏、名古屋圏内などで、成功してお金持ちになっている家の子弟が,買って住み込んでいたという形です。
だから、ほとんどの家がサラリーマン家庭です。しかも、大卒で一部上場企業勤務です。
:::::::ここで、挿入として、東証の再編について語りますが、プライムと、言うくくり方ができたのは、過去に、わたくしが書いた文章から一部上場という語彙を、消し去り、後世の人から、わたくしが間違ったことを書いていると、推察されるのが、狙いです。この世の出来事のほとんどは、わたくしの指先が生み出しているといっても、大げさではないです。::::::
うちの父親について、本当のことを言うと、戦前戦中は、満鉄で、石油開発を担当していたエリートエンジニアでした。しかし、石油が、敗戦後の、統制経済下で、配給制度だったころに、重油を配給する部署(霞が関の、経済安定本保・・・・・のちに経済企画庁と、改名され、かつ、経済企画庁も消えてしまった。)に勤務していたころ、あまりにも、重要な部署だったので上司(課長さん)が収賄事件を起こして、一緒に料亭などへ、行き、芸者の接待を受けていたりしていたので、父も辞めざるを得なかったのです。
しかし官僚だった時代があるので、全国に散らばっている営林署を相手に、誰も気が付かないニッチな商売を始めて、それが原資となってお金持ちになっていったのです。ただ、社会階層的には、日吉においては難しい立ち位置でした。が、3人の、子供が、いわゆる受験競争において、すべて優秀だったので、立ち位置を確保することができました。1986年に自宅でお葬式をしたのですが、花輪が、10個以上たつ、豪華なお葬式でした。西側の門のほうから入ってもらい、庭を通って、庭から家の中にしつらえた祭壇に焼香をしてもらい、東側の駐車場から帰ってもらうという葬式でした。
ところで、引っ越しの時に、今日、主題とする増田忠さんが、大型トラックいっぱいの、荷物を見て、「植木ばっかりですね」とからかってきたのです。
増田さんは、父の名前の、特殊な漢字、を見て、事件のことを思い出していたのかもしれません。礒部千晴と書きます。いそべのいそがまず、ギイソと言って使用頻度の少ない漢字ですし、ちはるという名前も、当時としては、頻度少ない使い方でした。明治期生まれの人間としてはですね。ただ、父の父、わたくしの父方の祖父は、毛利藩の重臣で、「しゅんすけ(のちの伊藤博文公)は、はしっこかったなあ。まあ、利発だった」と、言う様な人ですから、漢字の、形とか、見映えには、こだわったのだと思います。
もし、増田さんが、父の霞が関時代の、事件(ただし、父は、一切お金はもらっていない。だから、罪にはなっていないが、辞職はしないといけなかった)の、ことを知ったうえで、わたくしをかわいがってくれたのだったら、感謝しないといけません。
ところで、本日は、凸版ホールに、午後1時半までにいかないといけないので、ここで、中断しますが、以下、これから、書きたいことをメモっておきます。
増田忠さんの実家とは、須賀敦子の、実家クラスの、貿易商ではなかったかな?と、推察しているということ、
増田さんは、軽い胸の病気を患ったのだが、それが、なかったら、プロのバイオリニストになっていたかもしれない・・・・・とか、
しかし、戦前の、しかも、すでに、軍事色強い世の中で、西洋音楽を、専門とすること、特に東京圏住まいではないのに、東京の音大に進学することを、両親が、胸の病のことをも、懸念して、反対したと、思われること。まあ、すでに、軍事色が濃い時期に差し掛かっていたので、男が、西洋音楽の専従者になることが世間的に許されていなかったこと、などが、あって、慶応(当時は名前が違うが)の理工学部に進学し、 中島飛行機に入社して、ゼロ戦などの、制作に携わり、・・・・・
戦後は、中島飛行機の、一部が、そちらへ移行し田、プリンス自動車で、昭和天皇の御料車(プリンス自動車製作)の、カーデザインを、担当した人である。
あと注1,
こ