副題1、『27日(月)に、いったん公開をして、最後まで、書けないと判断をして、いったん、引っ込めたものを、大幅に、加筆して、再度、公開します』
【百分で、名著】という番組があることに、気が付いたのは、何時だったでしょうか? 礒野アナウンサーが司会をしていたころです。イソノ・アナウンサーのイソは、義礒と言って、私の実家の、苗字にも使われている漢字だったので、ふと、注目をして、そのころから、見始めています。
いや、間違えました。イソノアナの前後が、中條アナと、考えていたのですが、その女性は、正しくは、竹内陶子アナでした。名前を、謝って記憶をしていたので、イソノアナの前の、竹内等子アナの時期から、この番組は、見ています。で、第一期、島津有里子アナは、見ていないのです。
だから、2013年から、ほぼ、10年にわたってみていると、思います。
この番組に起用されるNHKアナは、非常に優秀です。というか、目立たないけれど、感じが良くて、理解力が高いです。もう一人の司会者として伊集院光が居るので、女子アナの方は、突出しない様に努めています。
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副題2、『島津有里子アナの、武骨さと、まじめさに驚いて、初めて、NHKアナについて、ググる事となった』
ところで、あまり突出をしない、この番組を司会する女子アナですが、島津有里子さんには、相当に驚かされました。ただ、非常にまじめな人で、事前に、当該の、書物をきちんと読んできて、かつ、なかなか、ユニークな意見を言う人でした。意外と武骨で、しかも、しっかりと、ご自分の意見を言う方なのです。それで、興味を持って、ググってみて、東大を出ていることを知りました。その時点で、一本ブログを書いて居ます。その後、本日、又改めて、ググってみて、彼女が、東京女学館を出ている事を知りました。それにしては、優雅さが足りないとは思いました。しかし、女学校では、お勉強のできる人は、結構、男子的リーダーシップをとるものです。それで、あの武骨さが、生じたのかもしれないと、思いました。
その後、その島津さんが、医学部を、受験するために、NHKを対局すると、言ううわさが出てきました。今、ツィッターで、ご自分の近辺を報告しているそうです。自由度が増したので。ああ、ご立派ですね。
後注1へ(もし見つかったら、後で、彼女について書いた一文を文末に置きます)
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副題3、『その百分で名著で、ヤマザキマリが、安倍公房の【砂の女】を解説しています。称揚的にね』
私は、その番組の安倍公房編、第一回と、第二回は、すでに、見ました。ヤマザキマリが、発言をしている内容については、何も言いません。というのも、私は【砂の女】を読んでいないから、ヤマザキマリが、言っていることが、当たっているのか、当たっていないのかが、まるで分らないからです。映画は見ています。しかし、その原作を映画化することは、無理だったのではないかなあ? 私は、映画を、見た時には、岸田今日子が、いいおうちの育ちで、かつ、大変なインテリだと言う事は知っていたので、岡田英次もそうなんだろうね・・・・と考えただけなのです。それ以外の感想は持って居ません。しかし、小説砂の女を、解説する、ヤマザキマリの、ブラウスには、二度、その録画番組を見たからこそ、改めて、びっくりをさせられました。で、
今、新稿を書きかけ中ですが、いったん、引っ込めます。・・・・・ヤマザキマリの考え抜いた戦略
を、書いて居ます。
しかも、この二週間以内に、私のレコーダーには、世界最強応ドリームマッチという、番組が録画されていました。今、削除してしまった後で、いつ、録画されていたかを、検討しているのですが、録画番組名は、アナザーストーリーとなっていて、中身が、そちらだったのです。で、いろいろな努力をして、その番組(途中から始まっていて、しかも最後は、消えている、不親切極まりない録画形態だった)が、タイトルさえ分からないものの、歴史学者本村凌二氏のラインから、やっと探し当てたのです。それで、それが、お正月特番だったと、知りました。本年度=2022年度の、BSプレミアムのです。そこでも、ヤマザキマリさんは、主役級の大活躍です。
しかし、その番組では、おしゃれ度という意味では、個性が出ていませんでした。ピンクのテーラードカラーのジャケットに、ピンクのワイシャツ(襟だけが、正当に白いもの)ですが、ヤマザキマリにしては、平板です。
ともかく、今のNHKの得に教養系番組では、彼女は、突出して露出が多いという点が、政治に結び付くのです。というのも、それは、栗田玲子さんと、伊藤玄二郎の密接な結びつきが、おおもとで、起きている現象だからです。
それを今から、語っていきたいのですが、しかし、単純ではありません。迂遠も、迂遠、相当に遠回りをして語っていきたいと思います。
副題α、『お茶大付属高校の、クラス会を利用して、恐ろしいだまし討ちに出会った。無論、友達が、企画したことでは無くて、伊藤玄二郎が企画をしたことだったと思うが、二人の、・・・・・彼の、知人で、お茶大付属高校とは、関係のない・・・・・人間が、協力をした居たと、思っている。それは、栗田玲子さんと、岩波ホールの支配人だ』
さて、本日は、百分で名著の、主役(=解説するゲスト)して出てきた、ヤマザキマリさんについて述べたいのですが、
その前に、2014年11月の豆腐屋うかい(東京タワー下)における、お茶大付属高校、昭和36年卒のクラス会での、驚くべきだまし討ちについて述べないといけません。
その日は、黙って、恥をかかされたままで、二次会まで、出席して帰りました。しかし、内心では、すべての因果関係がわかっていましたよ。そして、むろん、怒っていました。が、まず、その政治性を分析することが大切だと、思ったので、関係者に怒りの電話はかけては、おりません。
夜九時に、宇都宮和代さんにだけ、「あなたは、栗田玲子さんを知っていますか?」という質問をしました。怒りではないです。質問です。電話でですが。すると、彼女は、驚くべき乱暴さで、「しらないっ」と叫びました。それで、すべては、わかりました。彼女は、この日、彼女の大親友(Sさん~=ヒマラヤのトレッキングまで、一緒に行く女性。現在は、未亡人である元、都立高校教師=教育大学卒、二人とも、今は、旦那がいない立場だと思うし、お給料が高かったし、年金も高かったしで、大親友として、行動をしている。尚、Sさんの父君は、辞書の編集者である)と、二次会まで、一緒にいました。その後、電車の中、または、三次会を二人だけで、行って、・・・・・私(=雨宮舜=本名、川崎千恵子)が、その日の罠について、真実を見破っているか?・・・・・について、見当し合っていたと、思います。
Sさんは、今回の罠について、事前(と言っても、会が始まってからかな?)に知らされてはいたと思いますが、企画には、加わっておりません。で、和代さんは、私の事をよく知らないので、主役として、しかも、平気で、恐ろしい罠をひっかけてきたのですが、Sさんは、和代さんよりは、ずっと、深く私の事を知っているので、「彼女はきっと、罠を見破っていたわよ。きっと何らかの形で、すべてを書くわよ」と、和代さんに知らせたので、和代さんは、夜九時には、すでに、ビビり切っていたのでした。で、九時前で、Sさんと別れた直後、栗田玲子さんに、「ばれたらしいの」と、携帯で、告げていたと思います。
で、栗田玲子さんから、「もし、私と、あなたとの関係を、彼女から、聞かれたら、絶対に、私達の間に、関係があって、今回の罠の事を、私から頼んだとは言わないでね」と、命令をされていたと思います。それで、知らないーっと、どなったのでした.馬鹿みたいです。和代さんは、お茶大卒で、立正佼成学園の先生を、30年以上続けていたのに、まるで、小学生みたいに、礼儀知らずの叫び声をあげたのでした。私が、「川崎です。あなた、栗田玲子さんを知っていますか?」と直球を投げたので、パニックに陥ったのでしょう。
しかし、和代さんは、私の事を知らなすぎです。そして、和代さんを使った、栗田玲子さんも、私の真実を知りません。私の文章なんか読んだことが無いのです。そして、ただ、ただ、あっちこっちから知らされている、悪口だけを信じて、私を小ばかに仕切っているので、宇都宮和代さんに、「こういう罠を仕掛けてください」と、命令をしたのでした。実は、次の章で、語りますが、栗田玲子さんと、和代さんの間には、イタリア大使館を媒体とする、上下関係があると、思いますよ。
栗田玲子さんに、「こういう罠を仕掛けましょう」と、提案した、伊藤玄二郎も、この2014年ごろは、全く、私の真実を、知らないのです。何をというと、私の本当の頭脳レベルをです。まったく違った情報を信じていて、私の事を、頭が悪いと思っていたので、その日のこざかしい罠が、通ると思っていたのでした。
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副題β,『栗田玲子さんとは、銀座のガレリアグラフィカという画廊を経営しているオーナーだが、その近辺に、社屋を持って居た、朝日ソノラマの社長飯田隆君(私の中学の同期生で、CIAエージェントないでは、現在のトップクラスで、アメリカ大使館内に住んでいると、私が推察している、成岡庸司君と、早稲田大学の同期生である。むろんの事、三人は、横浜国立大学付属中学時代は、私とも同期であった。飯田隆君は一時期週刊朝日の、編集長をしていたエリートで)と親しいと感じている。飯田君が、朝日ソノラマの社長などという、小さな下部組織に、転職するのは、ひとえに、栗田玲子さんとの、関係を確立するためだったと、推察している。
栗田さんは、教育大学の西洋史学科卒です。したがってお茶大の西洋史学科卒の、宇都宮和代さんとは、1960年代から、親しかった可能性があるのです。二つの大学は、地域社会的に、文京区、丸ノ内線、茗荷谷駅を、最寄りとする、近隣の関係にあったので、文化祭や、ゼミの、交流などで、お互いに、結婚前の、20歳ごろから友人であった可能性があります。
そして、和代さんの、イタリア一年間の研修が、もし、イタリア政府からの、招請であったとすると、栗田玲子さんの、推薦状などが、役だった可能性があるのです。それが、仮になかったとしても、和代さんの研修期間以降、イタリア大使館主催の賀詞交歓会とか、各種パーティで、二人が、親しくなった可能性が高いのです。または、教育大学、西洋史学科卒の、池田理代子さんを含め、山本容子さんを含めた(そこに、ある時期から、ヤマザキマリさんも加わった)、女子会が、年に一回、か、それ以上、開かれている間柄かもしれません。その中で、栗田玲子さんは、突出して、リーダーシップをとれるというか、ボス気質を発揮する人だから、宇都宮和代さんに対しては支配的だと、思われます。
彼女は、その卒業大学の入学試験時の、偏差値の高さを武器に、銀座の画廊のオーナーたちの中でも、突出して、上の地位にあり、常に、画廊オーナーたちを睥睨しているでしょう。したがって、知名度とか、収入が抜群に相手の方うえでも、池田利代子さんに対しても、山本容子さんに対しても、ヤマザキマリさんに対しても支配的、命令的であるはずです。その五人の中で、美貌という意味では、和代さんが一番です。大変美しい人です。ただし、テレビに出る有名人ではありません。で、その栗田玲子さんから頼まれれば、宇都宮和代さんが、私を裏切るのなど、手もなく実行できる事なのでしょう。
というわけで、卒業以来、ほとんど、接触していない私と比較すると、和代さんにとって、栗田玲子さんは、圧倒的に親しい間柄なので、彼女から頼まれれば、なんでも言う事を聞いたと思いますよ。
ここで、小さいことですが、意外にも重要な動機だったかもしれないのが、肌の色の白さと黒さの違いです。私と、和代さんは、1958年入学組、編入性として、お茶大付属高校に入学し、最初は、あいうえお順の席についていたのでお隣でした。しかし、それほどには、親しい間柄には、成らなかったのは、入部したバレー部で、先輩が、私たち二人に対して、対比的、対照的なあだ名をつけたのです。しろちゃんと、くろちゃんという。私がしろちゃんで、これは、学校中で、通用する、あだ名となり、卒業後もそれで、呼ばれています。和代さんは、大変な美女です。アレジのパートナー後藤久美子と、南野陽子を足して二で割ったほどの美人です。だから、黒ちゃんというあだ名を当然嫌っていて、それゆえに、私を避ける向きがあったので、私もそれに呼応して、親しくなっていないのです。私は仕立てに出る方ですが、和代さんの気持ちを、こちらに向けようという無理は、しないです。
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副題γ、『和代さんとは、生涯、親しくならないままで、終わりそうだが、和代さんにとっての、親友であるSさんと、心の交流を、私が、40年ぶりに、再開したのは、担任の先生の、AFS受験を排除するといういじめからだった。書類を渡さないと、言う陰湿ないじめに、16歳で出会ってしまった、私は、もう好きな事しか勉強をせず、一般的な入試を行う大学受験は、失敗した。その時(=1961年)の結果を、CIAエージェントたちは、55年ぶりに掘り起こし、それをありとあらゆるところで、使っている。ここに、金子(旧・中根)美都子さんという聖心女子大の教授だったお友達が登場する。
ここにものすごいエピソードを書きたいのです。初出として。しかし、それには、触れていると、ヤマザキマリさんからは、遠く、遠く、離れてしまいますので、美都子さんには、ふれず、AFS受験を担任の先生に、陰湿に、除外されてしまった話に戻ります。
AFS制度とは、1950年代は、お茶大付属高校の、一学年の、生徒の10%が応募するほどの、人気の留学制度でした。 そのころのアメリカは、世界再浮遊で、世界最強だと、思われていました。沖縄のことなどを考えると、AFS制度に応募するなんて言うのは、実は、私には、向いていないことだったかもしれないのですが、英語は、非常によくできる生徒だったのです。どうしてかというと、横浜国立大学付属中学には、すでに、フルブライト留学生のアメリカ人の先生が、来ていたし、先生方もお若くて、授業は最高に、密度が高かったのでした。当時の横浜国立大学の付属中学では、11%の子供が、東大へ進学しました。是って、小学校から、或る付属で、そういうパーセンテージって、すごいでしょう。そのころは、栄光よりも慶応普通部よりも、付属の方が上だったのですよ。ところが、お茶大付属高校は、相当に気風が違うのでした。そして、私は、実は堀先生を嫌いでした。👉
私は、顔の表情が本当に、思いを正直に表すらしいのです。それで、窮地に陥ったのは、ベイカーさんというCIAスパイ(当時は、エージェントという語彙は、使わなかった)が、「僕は三鷹警察署長と親しいから」と言った際に、思わず、不審な表情を浮かべてしまったのです。それで、ばれた失敗したと思ったベイカーさんは、その後、キャンパス内で、後ろから首を絞めて私を殺そうとしたのでした。ところが私は助かりました。しかし、それ以降、ベイカーさんは、常に、私を殺そうとしているのでしょう。最近、やっとそれに気が付きました。そして、日本の警察は、CIAの御家来なので、私の不運や、不遇が、その点からも起きています。
しかし、損ばかりしていたら、あまりにもつらいでしょう。それで、政治について、身を挺して、語る、真実を、このブログで、さらしています。それが、ある種の偶然で、天に選ばれた人間の、生きるよすがでもあり、使命でもあるからです。という色字の部分を挿入して、元へ戻ります。AFSwお受験できなかったところへ戻ります。
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教室で、満座の中で、石渡篤子(英語担当)先生には、ただひとり、べた褒めされるほどでした。石渡先生とは、その姉気味が、日本初の、判事か、検事になった人で、逗子の名門の出のお嬢様で、戦前にロンドン留学済みの先生です。堀先生は、東大卒ですが、海外留学の経験はない方です。
その現場を、一度も同級生になったことのない、金子美都子さんは、見ていないのです。で、私に直接電話で、「子供の時の序列は、大人になってからも変わらないのよね」と言いました。つまり、序列として、あなたは、下の方よと言われたのです。東京の春秋社から、著書が出ているので、こういう言葉は、すべて、伊藤玄二郎の指図で、出ていると考えます。私は、新村先生(数学の先生、御父上は、文化勲章受章の学者、新村出)にも満座の中で、一人褒められているし、森本(源氏物語研究の学者、池田亀観の弟子の国語の担任)先生にも満座の中で、一人褒められています。全部、美都子さんは、見ていません。そして、野口和子先生(世界史)には、そっと影に呼ばれて大いに褒められました。
でね。AFSnお留学試験に戻ります。合格することを夢にも疑わず、ある授業の前の、数分間に、アメリカに行ったら、あれをしたい。これをしたいと、言っていたら、後ろから、ちょんちょんと、肩を叩かれて、「しろちゃん、それって、もう終わっているわよ。私は落ちたけれど」と言われました。
:::::::ここですが、この友人は、バレー部の人ではありません。しかも、これは、一年次の、二学期で、10月の初めだったかなあ? 入学して、半年です。それでも、すでに、しろちゃんと、みんなから呼ばれていたのは、どれほどに、私がかわいい性格の感じの人だったかを語っています。母が言っていました。「あんたは、絶対に社交ダンスをしてはだめよ。どこか、かわいいところがあるから、○○さん(旦那の事)以外の男性から、手を出されるからね」と、固く禁じていました。まあ、それは、40代になってからですが、子供のころから、大人の人には、男性女性を問わず、かわいがられてきたのです。そして、高校時代は、友人からもかわいがられていたのでした。それが、一生、しろちゃんというあだ名で呼ばれている事に結実していきます。:::::::::::
で、その後ろからの、助言で、AFS受験を堀先生に、書類を渡してもらえないという陰湿な方法で、排除されていたのが、わかった途端に、バレー部もやめてしまいました。実は、・・・・・バレーで親しくしていたポコちゃんと、一緒に申し込みに行ったのに、どうして、ポコちゃんだけ、書類をもらえたのだろう。どうして、ポコちゃんは、私にそれを教えてくれなかったのだろう・・・・・と、誤解をして、一緒にバレーをすることがつらくて、たまらなくなったからです。しかし、その40年後、夜に電話をかけて、ポコちゃんが、裏切ったのではないと、言う事を知りました。実はAFSの試験というのは、地域単位で行われて、ポコちゃんは、東京北部、私は、横浜市の住民だから、「そっちで、受けていると思っていたわよ」と、彼女は言いました。
この夜の長電話というのが、鎌倉ではできないことだったのです。主人がすごく嫌がるからでした。彼は父とは全く違う男尊女卑の人なので、何か、彼が反対することを、やりたかったら、別居するしかないのでした。お金がないと、できませんが、58歳の時から、61歳まで、逗子で、一人暮らしをしたのは、最高の結果を招きました。一方で、ご近所様は、「離婚をするよ。彼女は、人生の失敗者だねえ」と、嘲笑をしていたらしいのです。
しかし、長電話を、夜にできると言う事、一つをとって、見ても素晴らしい経験でした。58歳だと、ほとんどの友人は、まだ、仕事中で、夜しか長電話が出来ないのです。人生の中で、わだかまっていたことを電話で、問い合わせて、解決していくことが出来て本当によかったです。
そのうちの一つが、バレー部で、一緒で、しかも英語が得意なポコちゃんから、裏切られていたのではないかと、言う疑問を解くことでした。それが晴天という形で、解決したので、8人の同期入部、の友達に、順々に電話をかけることにしました。しかし、実際に、直接話をしたのは、Sさんと、K2さんだけです。K1さんは、東大に行き、同期の人とは、連絡を絶っています。東大のお友達の方が合うのでしょう。K2さんは、これまた、子供っぽいお嬢様と、少女のころには思っていた方ですが、大人になると、智慧の人でした。美貌の人ですが、友人たちの間に、生じた、お茶の先生をめぐる分裂に、悩んで、悲しんで、いました。同情心の篤いいい人です。実は、ポコちゃんを含めて、8人の内、4人が、同じ先生に習っていて、K2さんは、習っていないからこそ、友人たちの間に生まれた確執を悲しがっていたのです。
しかし、これは私にはどうしようもありません。
で、最後が、Sさんでした。彼女は、和代さんの親友なので、順番としては、割と遅くかけた方です。しかし、Sさんは、私が、バレー部をやめた、本当の理由を聞くと、同情をしてくれて、話が弾みました。その時、お父さんのことを、話したかどうかを覚えていないのですが、子供のころから知っている、事実として、
Sさんのお父さんって三省堂で、辞書の編纂をしていた人なのです。それで、Sさんは、子供のころから、和風好みでした。で、私は、迎合ではなくて、純粋に「海外に行くと、結構、日本びいきになる。で、歌舞伎とか、邦楽って、わかってきた」と言った様な気がします。で、それでかなあ?
漫画【舟を編む】ができたのだと、考えています。【舟を編む】は、取材先として、岩波書店と、小学館が選ばれているそうです。三省堂ではありません。しかし、発表された年度を考えると、私と、Sさんの電話を盗聴したのが、2000年ですから、十分に、間が空いています。
これはね、知人や、友人の方に、光を当てて、私を取り残し、悲しませる・・・・と、同時に、その友人を私から引き離すという、調略・作業の、ごく初期のものだったと、思います。
こういうことは、すでに、20年間、わかっていても、なかなか、書けないことだったのです。。だって、あそこの家って、電話が盗聴をされているんだと、思ったら、誰も電話をかけて来てくれないでしょう。だから、自分が損ですよね。だから、書けなかった、話です。しかし、あまりにも、緊迫してきているので、真実を、何もかも語ろうと、考えているのです.。
ところで、午前1時半になったので、ここで、終わりとさせてくださいませ。明日もお出かけしないといけないし、・・・・・ヤマザキマリさんが、なぜ、NHKの教養番組に出ずっぱりに出ているかについての、分析としては、まだ、20分の一ぐらいです。だけど、自分の身も守らないといけないので、ここで、終わりとさせてくださいませ。今、急に知人がばったばたと、亡くなっているのです。それは、自分もそろそろですから、自己防衛をしないといけません。すでに、80歳ですから。。