銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

墓じまいに袱紗が必要になり、そこから、石渡篤子先生の、人に依存をしない人生を、思い出す△

2014-11-11 21:21:15 | 政治

 すみません。ちょっと、ペースが落ちています。本作りの時に落とすのですが、今は、本作りではなくて、家族と一緒の仕事に時間を割くという形で、ブログが書けないかなということがあります。

 明日、主人側のお墓を、広島県、呉から鎌倉へ移します。ほとんどの仕事は、主人がやってくれていますが、式というものが、久しぶりなので、黒いお洋服を、用意したり、アクセサリーを考えたりします。

 喪服は、20年ぐらい前に買った洋服があるのです。が、普通の黒いスーツで、行くのが好きですね。時には、パンタロンスーツで、行ってしまったりします。ちょっと、崩すというかな? 礼式、100%ではないのですが、アーチストって、個性が大切ですので、これでいいと思っています。

 ところが、袱紗だけが見当たらない。リフォームをするとき、和服類、美術の道具、本、この三種類のものを、もっとも、大きく動かしました。で、本なども、どこへ行ったかがわからなくて、困るときがあります。本日は袱紗が行方不明になっていて、困ったのです。袱紗とは、和服系統の小物を入れておいた、ところにあったと思うのですが、見当たらない。買うかと、いったん、考えましたが、主人側の兄弟が、主人以外、3人もいるので、どこかのお宅にあるはずだと、電話をかけて、持ってきてもらうこととしました。

~~~~~~~~~~~~~

 ところで、袱紗とは、裏つきのハンカチみたいな大きさのものです。たいてい縮緬で、できています。小さなサイズだから、絹100%の生地(和服の反物)でできています。祝儀用、と、不祝儀用があると思います。が、祝儀用の方では、最も大きな出番が、結婚式ですが、今は、袱紗には、それほど、こだわりませんね。つまり、使わないと思います。結婚式のお祝いなど、祝儀袋が大きいし、水引が豪華です。それを、ハンドバッグ、(男性も、なにか、バッグ)から、出して、受付に渡すという形式でしょう。

 しかし、不祝儀の時は、相手が、新郎新婦の友田氏が、担当する受付けではなくて、お坊様なので、礼儀がより厳しく問われるみたいです。で、不祝儀用の、袱紗ですが、一般的には、小型の風呂敷風ですが、それとは、違うものもあります。違う材料を使い、違う形の、ものもあるのです。私が持っていた、袱紗は、その違う形式の方で、懐紙入れみたいに、軽く縫い合わせたポーチ型になっているのです。西陣織でできていました。

 自分で買ったものではなくて、いただいたものです。それをくださったのは、石渡篤子先生という方でした。2014年現在、もし生きておられたら、100歳以上だと、思われる、世代です。

 ここから先は、石渡篤子先生の思い出に入ります。石渡篤子先生は、マスコミに乗っておられる方ではありません。だけど、私が、心ひそかに感嘆したことが、いくつかあって、それを、語りたいと思います。お子様がおられないので、生徒だった私が語るのも、意味があるかと存じますし。

~~~~~~~~~~~~~

 おひとり様という、事が、今、よく、言われていますね。石渡篤子先生は、一生、独身で過ごされました。それは、なぜかと言うと、ご家庭が、ひどく高度にインテリでいらっしゃって、イギリスへも留学をなさったので、そういう女性につりあう男性が、1920年代とか、1930年代には、いなかったからだと思います。

 お父様と、お母様がどういう方だったかだけは、聞いていないのです。ただ、石渡姓は、神奈川県では、とくに、この三浦半島では多いせいなので、鎌倉時代から続く、武家であって、かつ、地主である形だったのかもしれません。武家だけでは、財政が、整わないと思います。石渡先生のご実家が、お金持ちなのは、逗子の土地を、戦前から、別荘用に開発をなさって、お売りになったからなのではないかしら?

 石渡先生が、ロンドンに留学なさったのは、国費だったかもしれません。だけど、2014年現在100歳程度の女性が、大学へ行くということは、やはり、ご実家が裕福でないと考えられないからです。それが、篤子先生だけではなくて、お姉さまも、高等教育を受けられていて、日本初の判事だったと、記憶していますから、突出して篤子先生だけが、大切にされたわけではないので、それもすごいことなのです。

 たとえば、朝ドラ、『花子とアン』では、村岡花子は、家族の中で、突出して、優遇をされ、よい学校へ、入れて、もらっています。だが、石渡家では、兄弟が、そろって、高等教育を受けているのです。私の実家の方も教育には、熱心だったと思いますが、女性は何人かが、師範学校へ行っているぐらいです。私の世代(1960年代以降)では、女性も大学へ行っていますが、戦前には、師範学校までです。奈良や東京にある国立の大学にひってきする女高師にまで、進んだ人はいません。ところで、篤子先生は、英語の教師です。一時期学習院でも教えておられたと聞いています。

 しかし、お姉さまは、日本初の判事だったと記憶しています。私は、1997年の夏までは、熱心に、新聞を読んでいました。で、お姉さまが何回か、新聞で特集をされておられたので、名前を憶えていたのです。が、今は残念ながら、お姉さまの名前を、失念しています。で、wikipedia で、調べればわかると思ったのに、日本初の女性判事と、いう項目で出てきませんでした。お姉さまは、戦前にどういうルートで、判事になることができたのかしら。

~~~~~~~~~~~~

 『石渡先生は、すごいなあ』と、私が初めて思ったのは、ご自宅に遊びに行かせてもらった時に、「私は目が悪くなるといけないので、電車の中では、本を読まないことにしていました」とおっしゃったことなのです。ここで、先生のお宅に遊びに行かせてもらったと言っても、それは、卒業後、30年以上たって、私が鎌倉に引っ越してきてからなので、先生が、すでに、70を過ぎておられたころです。だから、先生は、一生、電車の中では、本を読まなかった方なのでした。そしてパソコンは無論ない時代であって、先生がもし、目を壊されたとしたら、それは、テレビが原因でしょう。が、先生は、テレビは、それほど、ご覧にならなかったと思います。

 先生が逗子、そして私が鎌倉、で、近所なのと、私は英語がすごく良くできる人で、授業中に石渡先生から、みんなの前で、ほめていただいたことがあるので、自分では、先生になついていたからです。それは、何の課題かというと、夏休みの自由研究で、「自分で、期末テストの問題を作ってきなさい」と言うもので、私のものが、ダントツで、すぐれていたそうです。私はデザインの感覚もあるので、わら半紙一枚の中に、問題を、次の頁に、答えを、丁寧に美しく配置していたと思うし、その設問の持って行き方とか、答えなどにも、熟慮して、置いたので、ほめられました。こういう風にただ、点数を競う勉強ではなくて、自由裁量度が生きる類の、お勉強を、私は最も好きで、得意とする方でした。teachere's petになりたくて、お勉強をしたわけではありません。

 で、子供のころの、そんな思い出もあるので、なついて、先生のご自宅を、訪問すると、高価なお寿司をとってくださって、それには恐縮いたしました。でも、話が弾んで、長居してしまったのです。私が、自分の方については、何をどう話したかは、ここでは、割愛をさせていただきます。が、先生の方のお話のうち、この「電車の中では、本を読みませんでした」と、言うのには、本当に驚きました。先生が逗子から、茗荷谷の、御茶ノ水女子大(その付属高校)までお通いになるのは、丸の内線ができる前は、今よりもっと時間がかかったはずで、往復、4時間は、優にかかったと思います。その間、絶対に本を読まないとは、すごいです。しかも、先生がお勤めになった期間は、20代から60代まで、40年間もあるのですよ。その間、電車の中では本は読まないとお決めになったとは。

~~~~~~~~~~~~

 意志が強い方なのだなあと思います。そういえばロンドン留学以来、ずっと、ロングスカートをはいておられました。今は、女性のファッションが自由であって、時には、ロングスカートをはいている人も、急に短いスカートがはやりだした2014年の今でもいます。でも、それなりに流行があって、ロングスカートは柔らかい生地でできていて、体にまとわりつくようなスタイルとなっていますね。ボイルという木綿などで、大量に生地を使って、シュミーズドレスにしたりする。

 しかし、先生は、黒の、厚手のウールでできた、釣鐘型の、ロングスカートで、そのスタイルを変えず、しかも、髪には、パーマもかけず、・・・・・なので、周辺とは、全く違うスタイルで、暮らしておられました。そのことをいぶかしく思いからかう生徒もいました。私はいわゆる優等生として、先生に、近づいたというよりも、実は、非常におとなで我慢強かったらしくて、母に対しても私の方が保護者だったらしいのですが(むろんの事、心理学的な意味でです)、石渡先生に対しても、一種の保護者というか、見守る態度の人の一人みたいな気持ちがありました。

 言葉に出さずとも、それが、先生に判ったのか、「老後は、同じ敷地内に住んでいる甥に面倒を、見てもらいます」と、おっしゃいました。それを聞いて『本当によかった』と思いました。お屋敷は、2000坪あるそうで、甥御さんの邸宅の息吹も見えないし、聞こえない作りになっていました。が、先生が、実際に逝去なさる頃、本当に立派なご葬儀が行われ、甥御さんは、先生の期待に応えて、あれこれを、やってお上げになったのです。

~~~~~~~~~~~~

 しかし、「目が悪くなるといけないから、絶対に、電車の中では、本を読みません」とおっしゃった石渡篤子先生は、できるだけ、誰かの世話には、なりたくないし、なってはいけないと、お考えになっていると、推察をされました。

 立派な方で、最上級のインテリなのに、逗子の教会へ通うということと、鎌倉近辺に住んでいる卒業生が、地域同窓会を開くのに、出席をなさるのなどを楽しみにして、静かで、つつましい老後をお送りになりました。

 2000坪もあるお屋敷で、樹木類に守られ、そして、金銭的に何不自由もなく、地域同窓会へ、出席する昔の生徒たち、みんなに、古希祝の返礼として、紫色の袱紗をお配りになったのでした。それは、祝儀と、不祝儀の両方に使えるというタイプのものでした。

 先生の晩年は、甥御さんが、丁寧に、丁寧に、面倒を見て差し上げたのが、分かります。でも、それでも、絶対に迷惑をかけないで、生きようと、覚悟を固めておられたのが、分かりました。先生は、どんな誘惑からも、毅然として身を守ることができる方でした。では、2014-11-11  雨宮 舜 (本名、川崎 千恵子)

 なお、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、2579228です。なお、これは、5千字と、いつもより短いので、本日中に推敲を果たしました。どうかよろしく。で、恒例の△印をそうタイトル横につけておきます。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« AOLの表紙が懐かしいNYの地下... | トップ | 朝日新聞一面に、温室効果ガ... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (べりーず)
2020-05-29 22:56:18
石渡篤子さんのこと初めて知りました。アンドリューの「死を思う」に大変感銘を受けましたが、訳者の石渡篤子さんが私の通っている鎌倉の教会の信者だと聞いていました。このブログでより詳しく知ることができました。どうやら石渡篤子さんは逗子にお住まいで、逗子の教会の信者だったかもしれません。長年の疑問が解けて感謝です。
返信する
Unknown (川崎千恵子)
2020-05-31 11:02:43
コメントをいただきありがとうございました。
石渡先生は、三浦半島の名家のご出身の模様で、逗子に在るご自宅は、ご親戚が、相続なさったと、思います。お葬式は逗子の教会で、行われたと、聞いています。私が、外国にいたころだったと、思います。
返信する

コメントを投稿

政治」カテゴリの最新記事