この文章は、一回、総タイトルを変更しました。最初は、『桜が、こどもの、身代りに、死んで呉れて・・・・・その2、登場人物たちを整理して置こう、そのA』でしたが、今は上の物へ変更。
これは、前報(後注1)なので、いつもの会話体を捨てて、小説として書きます。だが、小説として、文章を書く事を、嫌う本心が、体の中に、あります。小説として書くと、自分が今、負っている被害が、さらに拡大する傾向が、過去に何度もあったからです。で、12日は、それへの懸念が、妨害となって、仕事が進行しにくい状態が続きました。
しかし、今回だけは、登場人物のやっている事が、おぞましすぎて、実名で書くことに懸念があり、小説化した方が、よいかなと、思っています。だがね、小説を書いて、それが、読者に受け入れられるかどうか? そちらについても懸念がありました。私は、小説家として、キャリアが、あるわけではありません。『ここに書いてあることが事実です』ということが、自分のセールスポイントでした。それが、自らに迫力を付与し、したがって、このブログが、『天への貢物です』と公言して、読者サービスをないがしろにしているのにもかかわらず、一定以上の読者を確保していたのです。その数は、グーグルなどでは、虚偽の報告をされていますが、結構、膨大なものであり、このブログはすでに、知る人ぞ知る有名なものになっていると感じます。
で、12日から、13日にかけては、引き裂かれる様な、アンビバレントな状況にありました。で、珍しく、書くという仕事のスピードが、落ちていたのです。
しかし、登場人物が、読者には、知られていない人々だという事に気が付いた時から、元気を回復しました。同じ人物が、私の文章の中で、何度も登場していますので、このブログを連続して、お読みいただいている方には、『ああ、あれは、あの人だね』という同定もできるとは、思います。だが、それらは、有名人ではありません。最近名誉都民となった、長嶋茂雄氏というわけでもないので、
本格的な小説として書くためには、登場人物の、キャラを立てるべく、さらに詳細に、説明しないといけません。が、それは、また、膨大な時間を要求し、紙で書くのではないブログという世界で、それが、通用するのかどうかに、ついて、私側に疑問があります。
でも、両者の間の、欠片を埋めるべく、登場人物が、過去に行ったことの概略を、・・・・・罫線で挟んで、挿入し始めると、やや、生き返る心地がしました。それは、自分にとって、書くのが、面白い課題だったからです。というのも、それが、意外な効果を上げることにも気が付いたからです。
それは、自分だけには、分かっているこの小説もどきの全体構造を、明らかにするのでした。
名声がすでに、確立した小説家だったら、そんな過剰なサービスは致しません。構成については、自らの内部の秘密条項として、とっておき、読者には、その一日で、読者が読むことが可能な分量を提示するという方法をとるでしょう。新聞小説、または、週刊誌の連載小説然り。だが、繰り返し言いますが、私は美術畑の人間で、小説家としてのキャリアが、ないのです。
で、謙虚にも謙虚にも、あらすじが、わかってしまってもいいから、登場人物についての解説をしていきたいと思います。で、これが、意外にも、重量感たっぷりの文章へと昇華していくのですよ。いつも、書き手としての私を神様が見守ってくださっていると感じていますが、今回のこれも、書き始めてから、30時間後には、この文章が、意義深い、教養エッセイになって行っているのを、感じ取っています。今は、14日の、夜10時ですが、推敲を開始します。その最先端は、@@@@7罫線で示します。
====小説としての、鎌倉雪ノ下問題(=桜が、子供の身代わりになって、死んで呉れた)の登場人物たち解説====
+1)、村岡百合子;;;;;
1942年生まれ、現在、72歳のクリエーター。本来は、美術畑の人間だが、自らの周辺にあまりにも異常なことが起きるので、その謎を解こうと決意して、思索を続けている。大学で、哲学をする手法を学んでいるので、思索とは、文章に書き落とさないと、堂々巡りをすることは、知っており、思索の結果を文章に落とし、メルマガ、もしくは、ブログで、世界へ向けて発信をしている。
その哲学する道具である、パソコンに、2007年から異常が頻発し、無言電話もかけられ、真夜中にワン切りも、頻発し、メールなどで、デートの約束をした日には泥棒が入り、ご近所や、銀座などで、いじめられることが頻発する・・・・などの現象が起こり続け、やがて、これは、自然なことでも、個人的なことでもないと、気づき始める。
+2)、桜井友二;;;;;
主人公百合子が、1985年、鎌倉へ、転入してきたときの町内会長。アメリカ・カリフォルニアで、生まれた二世であり、それゆえにか、羽田空港で、航空機燃料を扱う会社を経営している。社長であるのと、扱う商品の単価が高いので、富豪である。高い丘の上にある、邸宅は、30年前には、鎌倉駅のホームから遠望できた。今は、樹木が成長したので、見えないが。その東側の境界地主は、鶴岡八幡宮であり、自然に満ち溢れた、鎌倉でも、上質な方の住まいの一つである。
妻は双葉出身の淑女で、子供たちは、東大と慶応卒業である。自他共に許す、町内一の、立派で幸せな人なのだが、どうしてか、相当に臆病でもあり、信念も足りないので、町内に跳梁跋扈しているわがまま主婦たちをコントロールできない。で、たった20戸しか家がないのにもかかわらず、この町内は、トラブル噴出で、もめごとが絶えない地域となっていた。
ここで、百合子は・・・・・どうしてか・臆病で・・・・・と、まるで答えが出ないみたいに書いているが、実は出ている。帰米二世として、二つの祖国の間で、揺れ動いた青春時代を送ったために、ああいう・・・・・ぬえ・・・・・みたいな、人物になったと。CIAなどとも、深い交流があったと推察している。
+3)、世島龍三;;;;;;
戦後日本最大のエージェント、元海軍参謀、益田重夫氏と親友、益田氏が仕掛けた一種の詐欺を、百合子が、横須賀市北久里浜で、見破ってしまったことから、しつこく百合子を追いかけている。特に「ライターとして、大きくなることは許すまじ」と、考えている、一応死んだこととなっているが、手下、および、パペットは、莫大な数がいるはずで、桜井友二氏とも直接に、懇談をしていた可能性もある。
次に出てくる佐藤端二郎は、むろん、直接の子飼いエージェントである。また、その次に出てくる、山上たかしも、むろんの事、子飼いエージェントである。
+4)、佐藤端二郎;;;;;
日本一発刊部数の多いタウン誌と、私費出版をメイン業務としている鎌倉の出版社社長。人たらしの天才で、鎌倉の名刹のトップたちとは親しいし、市役所・県庁人脈とも通じている。NHKをも自由自在に動かす。+6)の花沢昇・大川範子夫妻は、とくに、親しい。またその縁で、この山の大勢の住人と一緒に会食などして、すでに、手なづけて、いる可能性は大きい。
また、中央大学法学部出身なので、その人脈を生かして、法曹界を動かし、裁判の判決を利用して、百合子を脅かしたり、苦しめたり、悲しめたりしている。銀座の画廊にもむろん手を出している。埼玉景子法務大臣の死刑場公開もむろん彼からの要請で行われた。
+5)、遠野夫妻、その1;;;;;
銀行に勤めていたと、推察される如才ない夫婦。三人の子供がいる。だが、妻は、実母ではない。略奪婚の勝利者だと思われるその妻は、若尾文子似の美形で、しなしなと、動作だけは優雅だが、怜悧な本質を持ち、計算高く、どうしたら、自分が、周辺を支配し、一番になれるかを考え続け、工夫し続けている。
百合子の土地が盗まれてしまった事の一番の主因者である。が、そんな事情への反省などみじんもなくて、百合子が、海外へ版画修行を続けた頃に、鬼の居ぬ間の洗濯の一つとして、北側の崖地を開墾をして、20坪ぐらいの新たな、土地を取得している。そこが、折に触れて、自分たちサイドを強化するために、使われる。これは後出の、+12)へ続く。
+6)、花沢昇・大川範子夫妻;;;;;
二人そろって、背が高く、体重も重い。妻・大川範子は、陶芸教室の主宰者である。そこに出入りしていた、有機野菜の販売人花沢昇と、結婚をしたが、収入が多額なので、夜は、よく鎌倉市内へ操り出し、そこで、「自分は、鎌倉の有力者、佐藤端二郎の元愛人だったから、いろいろ便宜を図ってもらっていて、弟子が、200人いる」と、豪語している。
200人もの人に悪口でも言われたらかなわないので、ご近所みんな+12が道を開けて通すので、さらにわがままになっている。2001年から百合子宅では、二匹目の猫を飼い始めた。それが大川範子宅に、遊びに行った事をきっかけに、帰してくれない様になり、2004年ごろから、百合子宅と、大きな争いになる。2005年の8月末に、百合子の猫が、百合子の方を好きな事を初めて知り、パニックに陥って、警官を呼び、自分側の名誉を確保しようとしたために、さらに大きなトラブルを招く。
その日の1年半後に、癌で逝去。ただし、3か月前まで、普通の状態で、小町通りを歩いていた大川範子を見かけている百合子は、『彼女は、あまりにも大きなへまをしたので、トカゲのしっぽきりよろしく、殺害をされたのではないか』と、ひそかに疑っている。彼女自身は、パーティコンパニオンをしていた時に、佐藤端二郎と知り合ったと言っているが、百合子は違うと思っている。たぶん、二人は高校時代から、知り合っていたのだろう。
+7)、堀切家;;;;;
この山は、トラブルが頻発していると、百合子は、ここを売りたがっている人から聞いた。「家内が、ノイローゼになったので、引っ越していきたい」と、その上流紳士は言っていた。その時は、百合子は、その売り家を買わなかったが、2回も3回も同じ場所に売り家がでて、そのチラシが、横須賀の家に入り続けるので、1985年にはとうとう購買を決意する。その時の売り手が、堀切氏で、百合子に「私は、元は、映画館を経営していました」という。「ここは、東西南北、だれにも接しないで済む家で、自然環境も素晴らしいので、売りたくないのですが」と、苦渋の表情を浮かべる。
百合子は内心で、『それだけのトラブルに、あなたも巻き込まれているのですね』と感じたが、『自分は、すでに、幼稚園で、PTA会長を経験しているほどのベテラン主婦なので、乗り切れるだろう』と、思い、引っ越してくる。家は貧しい資材で、作り上げられていて、町内で、一番小さかった。そのうえ小さい子のいたずら書きがいっぱいであり、堀切氏一家が、庶民的であり、かつ、だらしがない人だったのもわかった。だが、百合子は『この家は、庭が広いので、後で増築すればいい』と考えていたし、前の家を売り払ってはいないので、自分は、金持ちのつもりだった。が、『家の小ささによって、近所の傲慢主婦たちの、軽蔑の意識を呼び覚ましていたらしい』と、あとで、気が付く。
+8)、梶本夫人;;;;;
百合子の道一つ隔てた北隣の隣人。鎌倉駅近くの有名な小児科医院の令嬢。横浜国立大学の付属小学校やら、中学校のPTA会長の経験のある、インテリ夫人。だが、女中がいる家で、乳母日傘で育った人特有の、さばけないタイプの人であり、硬くて、庶民的な、他の主婦たちとは、合わなかった。
そのうえ、遠野夫人、大川範子、角田夫人などが、主催する井戸端会議とは、最も近い家なので、騒音による怒りもあろう。また、角田夫人の田舎のエリート特有の粗野な威張り方をも、嫌いだろう。したがって、二人は、心理的に最も大きな確執を抱えていたと思われる。角田夫人は、共産党員らしいと後で、分かってくるのだが、それ特有の組織的な動きで、梶本夫人を追い込み、集団でいじめていくので、梶本夫人は、単なる繊細なインテリから、ノイローゼ傾向の強い、とんがった人へと変化していく。
で、過剰な防衛反応を起こし、自分の宅地の角をとんがらかせる。騒音による侵害が、土地そのものの強奪への恐れへ発展をしたと思われる。下の写真は、角田夫人が、親の家を相続し、そこへ、新築の家を建てて引っ越していった後で、撮影したもので、後ろが更地になっているが、そこに、梶本家が、2005年までは、建っていた。
1985年に、百合子が転入してきた時は、上の土留めは、すでに、構築されていたのだが、梶本夫人はさらに、奇想天外なことをやっていた。それは、中型の電動のこぎり(丸い刃がついているもの)を買って、道路に2本の切込みを入れているという行動である。
梶本夫人はのちに、誠実な百合子が丁寧に、接遇する様にしたので、だんだん落ち着いてきて、毎日、昼間は庭で彫刻をなす様になり、個展も行う。だが、あとから考えると、Do it yourself の実行者だから、上のとんがり切った土留めも、彼女が一人で、制作したのかもしれない。
こういう行動は、他の、数の力を頼む人間たちが、最も軽蔑をするものである。で、百合子が引っ越してきた当時は、いじめられきっていた。それは、百合子のケースと似ている。百合子の方は、大川範子のわがままによって、猫を外へ出せないこととなり、仕方がないので、自分で猫に寄り添って、散歩をさせていた時期があったが、その時期も角田夫人たち一向に、たいへんに軽蔑されいじめられるという経験をした。
そこから敷衍して、類推すると、百合子がここへ引っ越してきた当時の、梶本夫人の被害意識は、ただならぬ段階に達していたと、推察される。が周辺から感じ取っていたであろう、『いじめられている』という感覚は、ただならぬ強いものであっただろう。で、心理学やら哲学を深く志向する百合子は、集団的いじめをやすやすとおこなう、角田夫人をひどく憎むのだった。そして、一般の人から見れば、気違いだと言われている、梶本夫人の方は、深いレベルで、気の毒だと、思った。
ここで、一般の人というのは、町内会長桜井氏も含まれる。桜井友二氏は、百合子に向かって、繰り返し、繰り返し、「梶本夫人は気違いです。彼女は気違いです。だから、困っています。村岡さん助けてください」と言っていた。この梶本夫人も1980年代に限って語る。その後については別の機会に語ろう。
+9)、梶本家長女;;;;;
小学校の先生をしているのに、母親にくみしだかれきっていて、自由に動けないみたいである。50を過ぎても、自宅(個室があるが、そこで)でメールをチェックできないみたいで、自宅へ上がる石段の途中で、長時間かけて、メールをチェックしている女性。
母親は、彼女が、未婚なのに、堀切家の娘が結婚をして、孫ができて、騒ぐので、それが、原因で堀切家と、けんかになったと桜井氏は、百合子に説明をした。母は、夫がご近所側に味方をしたことをひどく怒って、夫を北側の一室に閉じ込め、お料理も作ってあげていない模様であった。その夫(長女にとっては父)が、パーキンソン氏病で、足が自由に動かないのに、娘さんは、その生ごみをもって下へ降りて、行くことはしない。普通、娘は父と仲良くなって、いろいろ、成長するのに、父親との関係は断絶している。全般的にかわいそうな印象の濃い女性。
+10)、梶本家長男;;;;;
鎌倉を離れて東京で、妻と暮らしている。孫は生まれていない。本人は、美形であり、両親の愛情を一心に受けている感じがある。お嫁さんは超絶的な美人、のちに、2011年になって、このお嫁さんが、軽音楽系ピアニストとして、有名人であることを知る。この長男一家と接触したことで、百合子は初めて、この一家が、東邦映画の重役梶本正澄氏の義弟一家だと気が付いた。
百合子の父は、旧制山口中学時代に、梶本氏と大親友であった。で、梶本夫人にこういうことを言ってみたいとは思いながら、近所の人間関係があまりにもとんがっていて、複雑なので、手を出さないでいた。そのうち、梶本夫人や両親から相続して土地へ新居を立てて引っ越していき、しかも、老人ホームへ入居。
長男は、一種の高等遊民なのだが、その祖父から母へ相続された所で、駐車場を経営しているので、生活は安泰の模様。
+11)、ミスター梶本;;;;;
後日いろいろがわかってくるのだが、上品な男性で、鎌倉では、有名な合唱団にも属していたそうだ。だが、百合子が、新聞を取りに行った際、また、回覧板を回しに行った際に気が付くのは、南側の居間には、ミスター梶本の居場所はない事だった。ウィークデイの昼間はもとより、お嬢さんが在宅している土日にも、ほかの休日にも、ご主人の姿は居間にはなかった。実は、北側の一室に閉じ込められていて、しかも、パーキンソン氏病を患っており、ほとんど、閉じこもり(または、引きこもり)状態だったのだ。ある時など、ぼつぼつという以上の遅さで、小さな生ごみの包みを持ちながら、石段を歩き降りているのに出くわして、気の毒なことだと、思った。が、毎日石段を下りて、小学校へ勤めに行く、お嬢さんでさえ、「お父さん、何か、用事がある?」と話しかけることができないのだから、百合子が何かを、話しかけても、永続的な改良が出来するわけでもなく、気の毒なご家庭だことと思いながら、ただ、放っておくほかはなかった。
+12)、遠野夫妻、その2;;;;;
梶本夫妻が、これほどのごたごたした形になってしまったのも、百合子に言わせれば、遠野夫人が主催する井戸端会議に最も大きな原因があった。それは、2014年の今でいえば、マウンティング(つまり、女性同士の優劣を図る)用の場所で、あって、結局のところは、そういうことに一番熱心で、興味を持っている安野夫人の一人勝ちになるのだが、そこから、逃げるのは、同世代主婦には、非常に難しいことだった。
角田夫人;;;;;
この事件の全体を長期間にわたって、見渡すと、『角田夫人は、非常に弱い人間ではないか』と、思い到っている。百合子の、72年にわたる人生経験をかけていうと、弱い人間ほど、困ったちゃんはいないのだ。強い人間は、考える力を持っている。しかし、弱い人間は、考えるという面倒くさいことをやっている時間が持てない。または、待てない。したがって、モノを丁寧に考えない。誰か、別の人間で、彼女が、『あの人は、自分より目上だ』と考えている人のいうことを聞く。だが、本質に基づいて丁寧に考えるということはやらない。こういう人は力というものに頼りたがる。そして、洗脳をされやすい。そしてその結果、組織というものを信奉し、左翼運動に入れ込みやすい。
左翼運動にもいろいろあるが、花沢昇も所属をしていたはずで、したがって大学は中退となり、野菜の販売人などをやっていた。しかし、彼の所属をしていたのは新左翼系だ。角田夫人は、共産党系だと思われる。新左翼系は内ゲバを繰り返したりして、乱暴そのものだというイメージがある。それにメディア対策も上手だ。柄谷行人氏が、2011年の9月11日に反原発デモに参加しようと呼びかけたのなど、その最たるものだ。だが、組織に所属している人間の数が少ない。で、実働部隊が少ない。
ところが共産党員は違う。組織に属している人間が膨大な数いる。で、鎌倉駅周辺で、繰り返しデモ隊が表れて嫌がらせをする。一回、それを書いたら、それが、効果があると、みなされたらしくて、メールや電話で外出の予定が決まっているときは、鎌倉駅周辺で、デモ行為がある。
そして、共産党という全組織を上げて、深くて、恐ろしいわなを仕掛けてくる。最高裁がアスベスト被害に、国の責任があると判決を出したのも、その一つだが。(なお、どうして、アスベストが問題かは、別の時に語ります)
だが、もう一つ、百合子の実妹夫婦を使った罠が仕掛けられていた可能性も感じ始めた。それが角田夫妻の案だったら、恐るべき悪人となる。
++++++++++
百合子の実妹;;;;;;
百合子の実妹は、7歳も年下である。で、百合子の方では、一切、嫉妬心も競争心もないのだが、妹の方は、常に姉を意識しているみたいだ。ある時、「お姉さんは、バラの様な人だから。(つまり、派手で主役である)でも、私は違うから」といった。これは、野村監督の有名な発言「長嶋さんは、ひまわりで、僕は月見草です」に似ている言葉だ。確かに百合子は、小さい時から学級委員とか、入学式総代とか、卒業式総代とかをやるので、両親の自慢の娘だった。普段は虫も殺さぬ様におとなしいのだが、どうしてか本番に強いタイプであって、舞台の上では、まったく上がらない。落ち着いて堂々としている。
だから成果を上げ続けた。だけど、結婚してから百合子は突然に、しぼんでしまった。百合子の夫は、百合子のエッセイを読む人からべた褒めである。「立派なご主人で、奥様が悪妻で、ご主人がお気の毒ですね」と、夫に直接言う人が多い。それから、夫が、日産自動車の研究所をやめて、鍼灸医に、なってから患者として接触した人たちも、べた褒めである。
百合子自身も誠実だと認めているし、いつも明るい人だと認めている。だが、夫婦となると、同い年だというのは、とても難しいところがあるのだ。特に百合子の父が、25歳までに結婚をしないのなら、別の人とお見合いで結婚をしなさいと言っていたので、彼に結婚をせかした。これが、大問題で、夫の方に、夫としての心構えがなかった。
広い家で、個室をもって生きてきた人間が、突然、6畳一間で、24時間、顔を突き合わせて夫と向き合う。その相手は、ありとあらゆる意味で自分とは違う人なのだ。お茶の入れ方。おちゃわんの洗い方ひとつ違う。そして、働いている妻が、今までは料理から洗濯まですべて実母にやってもらっていたのに、急に二人分をこなさなければならず、負担が急激に増えたということにも、思いが及ばない。世の中に離婚が蔓延しているが、その理由もよくわかる。きっとこういう時のすれ違いに、どちらかが耐えられないのだ。
これが、神田川の世界で、セックスから先に始まった関係だと、また違うのかもしれないが、1960年代の、きちんとした家庭の娘や息子は、お見合いではなくても披露宴前にセックスなどしなかった。
だが、世の中の大勢の若い人に言っておきたい。「すったもんだが、どれほど、あっても、離婚をしない方がいいよ」と。「最後の段階では、結婚をしていたことのありがたさを感じることもあるからね」と。百合子は、将来の予測ができる人なので、無論離婚はしなかった。だが、喧嘩をしないタイプだから、不満をすべて自分の内部に抱え込むし、家事もすべて自分で、こなそうとするので、やがてパンクして病気になった。したがって、勤務先の東大も辞めることとなる。
突然に人生が暗転をした。エリート階層からまっしぐらに降下する。元理系エリートが陥った専業主婦なんて、非常につぶしのきかない存在で、周辺との、ずれは、はなはだしいのだった。だから、百合子は、梶本夫人の不器用さを理解し愛した。彼女が周辺とずれていることも、単に、哀切なことであって、憎む対象でもなく、軽蔑する対象でもなかった。
しかし、ここで、問題なのは、妹との関係だ。特に1960年代ころの関係だ。7つ年下だ。で、百合子が25歳で、結婚をしたころ、彼女は、まだ、高三だった。現在、神奈川県で、一番人気が高いと言われる翠嵐高校在学中だった。その後、千葉大の薬学部へ入学した。そして、きちんと、滞りなく、医師(家)向けの薬品会社へ就職した。つまり留年はしなかったということだ。結婚もむろん、大学在学中に知り合った男性で、同じ企業に就職した。秘密を守る必要があって、そうするべきなのだそうだ。
お正月に、実家でパーティをする。そこで出会った妹は、百合子にこういった。「私、お姉さんを反面教師にするわ。だから、日本橋から、15分で帰宅できるマンションを買うのよ」と。それに続けて、「教授に、こう言われているのよ。あなた方は国家の税金で、勉強しました。だから軽々しく仕事をやめてはいけません」と。それは、百合子の挫折をあざ笑う趣があった。百合子は無論傷ついたのだが、お正月パーティの分に気を壊してはいけない。だから、妹に、同じ様な言葉をぶつけられてもいつも我慢をした。
そして、妹は、子供を産み、保育所に預けて育てた。二重保育も、むろん頼んだ。夫婦そろって高給取りだから、長期の冬休みには、一家で、スイスへスキーをやりに行っていた。
:::::::ところで、百合子が良く「保育所で、子供を育ててはだめですよ」と、言うのは別に妹を思い出して言っているのではない。妹の子供は立派に育ちあがり、大金持ちの一族と結婚をして、二人の子供を産んでいて、しかも、自分の仕事も持っている。その夫も会社を経営しているが、そこで一緒に働いているのではなくて、自分はきちんとした別の大組織に勤務をしている。夫側の両親と2所帯住宅を建てて、ほぼ同居している。「保育所で子供を育ててはだめですよ」というのは、百合子側の、昔の生活圏(横須賀)で見聞きした専業主婦たちの、状況から、考え出したことだ。妹は常に、遠くの、東京に住んでいた。例の日本橋から15分のところだ。:::::::
百合子は、常に妹を避けてきた。あまりにも威張りかえられるからだ。そして、百合子の母は、成果主義の人だから、夫婦で、1500万程度の収入がある、妹一家を誇りにしていた。百合子なんか、母から見れば、失敗作だ。特に2000年を中心として、現代アートの修行に励み切っていて、お金はバンバン使うし、海外修行をするために鎌倉の家を出て逗子で一人暮らしをしていたから、離婚になるかもしれないので、母を悩ませていた失敗作だった。
しかし、それから、10年後、老人ホームで最晩年を迎えていた母は、百合子に向ってこう言った。「結局、あんたのところが、一番華やかに、なったわね」と。なんか、涙が出るほどありがたかった。ずっと成果主義であって、妹を百合子の上においていた母が、最期に百合子を認めてくれた瞬間だった。百合子が大事にしているもの、心とか、愛という物の価値を認めてくれた瞬間だった。百合子の家族は、今平凡である。可もなく不可もない。エリートでもないが、落ちこぼれでもない。で、家族間で争いがない。穏やかだ。
それは、妹と比較をすると相変わらず、負けてはいる。しかし、母は、金銭的には豊かで、社会的な名誉もサラリーマンとしては、高位についている妹夫婦と比べて、わが家の方が、どことなく、潤沢な感じがすると言ってくれたのだ。本当に、心の問題と、雰囲気の問題として、わが家の方が豊かだと言ってくれたのだ。
私が、ときどき「どうもエリートサラリーマン家庭の、平均資産額は、三億らしいわよ」という金融資産を、持っている家庭の一つが妹の家だと思う。不動産も、二年前は、4つも持っていたのだ。だが、老後に向かうので売るという形で、整理をしたらしいが、ともかく百合子より資産家なのである。
だが、その妹が、この10年間どうも変なのだ。別の意味で、何か、秘密を隠していると、見えるところがある。たとえば、元の勤務先をやめて広告会社へ、転職した。妹のいうのには、『今はね、新薬のパンフレットも、いちいち、個別の会社では作らないのよ。広告会社が、すべての制約会社の新薬のパンフレットを作るの』という。で、もともと高給取りだったがさらに高給をもらえる様になった。喜ばしい。でも、秘密を守る必要があるという製薬業界の、新薬競争はどうなったのだろう? 広告会社というのは、実は電通を始め、CIAと、ツウツウの組織なのだ。何かが、変だった。
妹の説明を聞いても、百合子は『あれっ』と思う思いを捨てられない。『これも、例の敵たちの企画したことではないかしら』と。百合子の周辺では、知人や友人が莫大なレベルで出世していっている。そして、そのたびに、百合子から離れていく。百合子だけが一人取り残されている。その手法が妹にも及んだのかしらと、かすかな疑問がわく。だけど、それを妹に確かめるすべもない。
そうやって、もやもやとした歳月を過ごしていた。ほぼ、10年間以上も。ところがこの2014年の二月に、驚天動地の電話が妹から、かかってきた。まず、電話が、彼女の方からかかってくるのが、変だ。百合子が実家を出てから、47年間、妹から電話がかかってきたことは、一度もない。妹との会話は、すべて、親族、親戚パーティの中で交わされたものだった。
しかも電話の内容が、驚くべきものだった。彼女は「お金が、ない」とまず言う。ありえない言葉だった。給料が高かったのだから、厚生年金が夫婦で、月に50万円になるはずだった。まだ、65歳だからもらえないとしても、貯金があるだろう。父からの遺産が、5千万円、母からも5千万円をもらっている。それに、自宅以外の3つの不動産から家賃収入があるはずだった。それを売ったとは聞いていたが、その収入を夫がすべて管理をしている? でも、それに不満があるのだったら、弟に愚痴を言えばいい。弟は、遺産分割にしても、妹とは、何度も会話を重ねている。だから、お金のことを相談しやすい。もし、本当にすべての預金通帳を夫が管理しているのだったら、「すみませんが、妹名義のものは、妹に管理させてください」と弟が言えばいい。
百合子は頭が混乱をした。退職金などをまともに管理していたら、彼女自身の資産が、既に、2億に達しているはずだった。妹は大金持ちにもかかわらず、ウールのものでも、コインランドリーへ行って、自分で洗うのだと言っていた。非常に倹約家だとも聞いていた。それなら、年に500万円使っても、後、30年間大丈夫なほどの貯金がある。再び、『夫から、精神的な虐待を受けているのではないか?』とも、ひそかに、思った。
その後、洋服の話に移った。着るものがないという。で、「ぜひ、私のうちにいらっしゃい。それで、好きなものを選んだらいい」と言った。百合子は捨てるのが嫌いなので、茶箱やプラスチックケースだけでも、8箱ぐらいのブラウスやセーター類を持っている。そのほかに和服。さらに続けて「昔ね。あなたに洋服をもらったでしょう? 今度は反対にしたらいいわ」とも。「だけど、あなたにもらったものは、超高級品だったから、私のものじゃあ、気に入らないかもね」といった。高給取りの妹は、医学会にも、よく出席をする。日本全国のホテルでのパーティに出席する。だから、すべての洋服が、数十万円単位の価格のものだった。百合子が、最近買っている五千円から、二万五千円までの洋服では気に入らないだろう。だけど、人間、本当に困ったらそれなりに工夫をする。百合子は海外で暮らすことや、本を作ることにお金がかかるから、洋服はすべてランクを下げた。
三〇代のころに使っていた洋服類からすべて、ゼロを一ケタ落とした。そういう工夫がどうして、妹にできないのだろう。変だ。
ただ、その瞬間にも、百合子はこう感じていた。『これは、大変なことになった。困ったことだ。我が家の電話はすべて盗聴をされている。そして、同時に録音をされているだろう。この電話が録音をされて、私や妹のことをよく知らない人間に聞かせれたら、自分にとって、大損になる。そして、敵たちは確実に、それをやるだろう』と、感じたからだ。百合子がパソコン関連のサポートを頼みたくて電話をする場合にも機械音が、「これは、録音をします」と、必ずいうし。
この6月2日と、12日の大騒動(=拉致誘拐未遂事件)の前に、<金銭を話題にして同情を引くと、百合子が完璧に引っかかる>と、敵は気が付いていたのだった。で、妹を利用して、同じ種類の罠をかけてきた? こういう疑問を、百合子は潜在意識の中で、この8か月、ずっと抱えて生きて来たのだった。今、百合子は60%の確率で、あの電話は罠だったと思っている。
何を目的とする罠かというと、録音が目的だった。妹が非常におかしな声で、ひいひいと叫んでいる。そのすさまじい恐ろしさと、悲しみの深さを聞けば、妹が理性を失って、病気の段階に入っているとは、だれもが考えるだろう。『この妹の姉だったら、当然、姉もおかしいわよね』とだれもが思うだろう。そういうたぐいの罠だったのだ。
兄弟から、わなを仕掛けられてしまうなんて、恥ずかしい話だけれど、妹にそれを頼んだ人間が、彼女が逆らえない相手だったと考えると納得ができる。そして、その電話を、聞かせられた人が、佐土原夫人や、ミスター冴木とかミセス冴木だったら、彼、彼女らの離反や、裏切りも納得できる所業となる。
妹の夫;;;;;;
百合子は常に、隔靴掻痒の念を、妹の旦那に対して抱いていた。それは、40年に及ぶ。が、やはり、残念なことであり、改善を試みた。そのためには、原因を探らないといけない。幾つもの原因があった。たとえば、西洋星占いでいうと、性格が合わないと出ていた。(笑い) しかし、工夫をしてもしても、40年間を超えて、和解ができたことはない。というか、本当にスムーズに気持ちが通い合ったことがない。それが、この2014年の2月に妹から来た異常な電話を受けた時に、潜在意識の中で沸騰をした。で、2億円を超える金融資産を持っている妹が、こんなにひーひーいうのは、旦那がすべての預金通帳を管理していて、妹が、自由にお金をおろす事ができないのではないかと、一瞬疑ったのだ。
百合子と妹夫婦の関係が、最悪だったのは、父の死の前後だった。それが、また、1985年なのだから、雪ノ下で、土地を盗まれた同じ時期といってよい。人生で魔の時というのは、何度もあるのだが、あの頃もそれにあたる。
父に関しては、医療も葬式もすべてを妹夫婦が牛耳った。辛うじて遺産相続だけは、母と父が考え抜いた遺言書があったので、妹と、私は書類の字面上の数字は対等だった。
明治生まれであって、長男優先主義の父は、長男に、当時は価格が高かった不動産を数件残した。妹には一軒のマンションと、弟と共有の土地をあげた。二人がもらったものは、賃貸収入を生んでいくものなので、数字上の遺産額より、高い価値を持っている。あの時の相続では、実際の金額を考え合わせると、弟が65%、妹が25%、百合子が、10%程度の配分だった。こうなったのは、両親にすれば、「次の、母の時の相続で、ある物件(一戸建ての小さな木造アパート)を百合子に渡す予定があるので、どうしてもこの際は、これで、我慢をしてくれ」ということだった。不動産とは、所有者の名義の問題がある。それと、妹と百合子が、仲が良くないとみているので、二人で、一つの物件を、共有をさせることができないとみていたからだった。
百合子はお金には無頓着の方だったけれど、調停委員に、「あなたは、本当のお子さんですか?」と言われた。遺言書相続とは、家庭裁判所で、調停委員の前でそれを開く必要があるのだった。で、調停委員に、そこまで言われるほど、自分が不利だと知って、さすがに顔色が青ざめた。でも、裁判を起こさなかったのは、弟の百合子に対する慰藉、慰労の動きが、大きい。
当時の横浜の家庭裁判所は、京浜東北線の、石川町と関内の間にあった。家裁を出た途端に、弟が「お姉さんに、お話があります」という。彼は、当時のその近辺を事前によく調査していたと見え、もっとも落ち着けるレストランとして、教育センターの二階にあった、すえひろを選んだ。すえひろは、美術関係者が、よくパーティをするところで、百合子も慣れている場所なので、落ち着いた話し合いができた。弟は、『僕の貰った金融資産の中から、動産(株式など)を、2000万円分お姉さんにあげます。それで、どうか、この遺言書に書いてある分配を、了承するという印を押してくださいませんか」という。
2014年のいま、2000万円と聞いても、『フーン。それがどうした?』という金額だが、1985年当時はまるで違った。横須賀ならピカピカの新築の一戸建て(ただし、地所は、30坪程度だが)が、買えた。この時の弟の態度を信頼したので、次の相続の時も世間一般でよくいう、争続には、ならなかった。
しかし、父の遺産の相続が確定したのちに、新しい問題が生起した。それが、妹の旦那の提案した家族会議だった。今の言葉でいう相続税対策である。確かに、父の遺産相続の際に、百合子は、1300万円の相続税を支払った。それは、その年度の鎌倉市内での、高額納税者の18位だった。そして、何回も奈良の春日神社から寄付を募るお手紙が来たほどだった。
百合子にとっては、父の遺産そのものが望外の収入だし、それがすべて、金融資産として手に入ったのだから、1300万円を支払うのは、懐が痛むという感じはなかった。ところが、妹と弟にとっては、遺産の中で、不動産の占める割合が大きいので、金融資産として、わたる金額は百合子に比べると少なかったと思われる。その中から、妹が、1300万円、弟が、2000万円以上(実際の額は不明)支払うのは、痛手だったのだろうと、想像する事はできる。
で、百合子以外の家族にとっては、節税対策というのが、重要だったのは、今では理解ができる。実家へは、百合子は夫を伴わず、一人で出かけた。そういう風に要請をされていたか、どうかを、今では忘れているが、百合子の家族は、子供たちを含めて、すべて、お金には執着をしないタイプである。一応の生活ができればいいと思うタイプで、無関心なのだ。意外と美形に生まれて、「お宅のお嬢様って、松嶋菜々子に似ていると、評判なのよ」と、ママ友が言ってくれたりするので、二人の子供に「タレントになったらどうなの?」と、粉を振り替えてみたりするが、「フーン」と言って、笑うだけだ。そんな世界に、関心など皆無だ。『有名になろう』とも、『お金を稼ぐ必要がある』とも思っていない。
で、実家について、椅子に座った。目の前に、A4サイズ、プリントアウト6頁のパンフレットが置かれた。びっくりした。一つの家の内輪の事なのに、まるで会社の企画会議だ。今の百合子なら、あれほど、びっくりしない。同じ様なものを、ウィンドーズ版のパソコンで作ることができる。だが30年前の当時、パソコン特に、マッキントッシュはいじったことがないし、ただ、ただ、圧倒をされて、引っ込むしかないのだった。概要はこうだ。「母と、弟が半々で今、持っている横浜の土地に、7億円を銀行から借りて、7階建てのビルを建てる。用途は、学校。教室なら、設備投資が、少ないので、ビル建設費が、安上がりで済む。出来上がったら隣の、大規模・専門学校へ貸す。テナント料で、借金を返していく。
ローンの期限は、30年~40年とする。その時、68歳の母が、あと20年生きても、その後10~20年のローンが残っている。それは、2.5~3.5億円ぐらいになっているはずだ。2.5~3.5億円だったら、その時点で、母が持っている資産と、相殺するはずで、したがって、相続税を払わないで済む」ということだった。すごくいい話の様だった。だが、百合子は乗り気ではない。そういう計算そのものよりも、義弟とは言っても血のつながらない男性が、ここまで、わが家の内部に食い込んできて、引っ掻き回すのが嫌だった。だがむろん、それを言葉で発言をするわけでもない。弟も何も言わない。で、3分ぐらい静かな時間が流れた。突然に母がしじまを破った。明るい声で、「私ねえ。70を超えて、7億も借金をするの、いやだわ」と。
その時、母は、実際には、まだ70代ではなくて、60代だから、ひどく若く見えて、こういう死後どうしよう、こうしようという、実際には不吉な話を出しても不遜な感じがしてはいなかった。その時までは。だけど、70を超えて、7億という、語呂合わせを利用して、母がその借金の重さを語った時に、一気に、その話の胡散臭さが表面化した。
借金を7億すると、返済は、20億を超える。重い、重い足かせだ。百合子も弟も、母のその明るい一言に救われた思いがした。その時、1985年だった。銀行の審査を経て、設計にかかり、工務店を選んで建設を開始する。結果、ビルが開業するのは、早くても1987年、遅かったら1989年になる。それは、バブル絶頂期だが、たった、1年しかもたないで、バブルは崩壊をするのだった。借金を、7億円まるまる抱え込んで、テナント料が入らなかったらどうなっただろう。鎌倉でも投資の失敗で、家や店を手放す人が出た。
百合子はそういうわけで、計算高い義弟が嫌いであり、2月の時点で妹が慌てふためいて、「お金がない」という電話をかけてきたときに、彼女の夫を一度は疑った。しかし、その家庭の様子をよく知っている弟に言わせると、「まさか、それ、はないでしょう」ということ。で、それで、安心をすればいいのに、百合子には、まったく新しい疑念がわいてきた。
「これは、やはり芝居でしょうね。演技です。でも、そういう風な演技をせよと、妹に命令したのはだれ?」と。第一義的に浮かぶのは、妹が転職した先が電通とか、マッキャンエリクソン博報堂などの、会社、もしくはその系列会社であって、その上司という可能性。次に夫である義弟だ。まさかと思うが、当時、自分が書いていた文章やら、そのテーマを考え合わせると、あながち、『それは、違う』とも言えないところがあるのだった。
その時、百合子がブログの世界で何を書いていたかが問題だ。書いていたのはマルハニチロの農薬混入事件が嘘の事件であると書いていた。マルハニチロの農薬混入事件は、嘘の事件であると主張をしていた。これは、私のブログで、昔から書いている、毒入り餃子事件が嘘だという文章を否定するために、新たにおこされた諜略行為であって、阿部俊樹はやっていないと主張をしていた。また、銀座の画廊、レタンを中心に、鵠画会の真実という項目も書き始めていた。
両方とも、百合子が鎌倉えーえじぇんとと、その協力者と呼ぶ連中にとっては痛手となる文章だった。それを、阻止して書かせないために、この妹の嘆き哀願する電話の声を、関係者に利かせるという措置を取るべく、こういう企画が立てられたと仮定をすると、ピタッとタイミングが合う。
ここにきて、今まで誰にも語っていないことが問題となってきた。それは、毒入り餃子事件が起きた当時、義弟は、大阪にいて、JTの研究所に出向・勤務をしていたという事実だ。無論の事、義弟があの事件を計画をしたのではないことは確かだ。だが、JTの製品に、毒が入っていた。で、百合子は直観として、これは、自分を狙っている嘘だと感じたのだ。その後の展開を見ても決定的なうそだと思われる。百合子の義弟に手を出してきた脅かしだと感じた。
タイミングから考えると、今回の妹の電話もなんか、関係があるがごとくに思われる。
後注1、
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます