司馬遼太郎の『街道を行く(ニューヨーク篇)』文庫として39番を、今夜電車の中で読み終わりました。本日は遅く帰ってきて疲れきっていて、もっと、違う話題を取り上げるつもりでしたが、なんというチャネリングだろうと驚いたことには、朝日新聞の夕刊で沈寿官氏が、司馬遼太郎氏の思い出を語っていることです。
私はタイトルにある文庫本を、2週前に池袋のサンシャインビル内の、古本フェアーで買いました。雑誌太陽がたくさん出ていて、それを、買い求めるついでに買ったのです。出品者は阿佐ヶ谷の書店。
私はそもそも、司馬遼太郎氏の単行本は今まで一冊も読んだことのない人間です。だいたいがノンフィクションと、ドキュメンタリー、およびエッセイが好きで、大学卒業以降は、もっぱらそういう分野だけを読んできた人間で、小説を読むなら、海外ものと、決めていて、日本の現代小説はほとんど、読んだことのない人間です。特に司馬遼太郎氏は、有名で読者も多そうだから別に私が読んでも、物の数にも入らないだろうと思っているから、子供がすきで、薦められても、感化もされませんでした。
「街道が行く」については、1980年代と90年代は東京へ行くたびに週刊誌を買っていたから、(元気なときには週に四冊、電車の中で読みました)週刊誌で読みましたが、ほとんど印象に残っていないのです。挿絵画家が、変わったのを意識しているぐらいです。
~~~~~~~~~~~
まとまったものを読んだのは、今回の文庫本が初めてです。その『ニューヨーク散歩』という原稿用紙換算、300枚の掌編には、圧倒されるほどの面白さを感じています。
特に最後が、服部剛丈(よしひろ)君の両親で結ばれています。特にその行動・・・・・80万人の署名を集めて、「アメリカ社会での銃をなくすこと」を求めておられることで、終わっています。こちらこそチャネリングと、感じるゆえんです。それは、ごく最近に私がマイケル・ムーア監督の、ボウリング・フォー・コロンバインという映画を見て、マイケル・ムーア監督という、一種の天才というか、預言者に強く、共感したということと、このエッセイ集(文庫)の最後が、銃反対で結ばれていることを、さします。
この文章がはじめて世に出たのは、中扉裏の記述によると、1993年6月25日号の週刊朝日となっています。服部君が、「フリーズ」と言う言葉を理解できず、相手を信じて進んだがために射殺をされてしまったのは、きっと1992年だったのでしょう。それが、ハロウィンデーだったと、この本には書いてありますから。ハロウィンデーは秋です。から、次年度にこの文章ができたわけです。それが、文庫化されたのが、1997年で、私が買った古本が、1998年発行の第六刷です。それを、12年後の今読むことにもチャネリングを感じています。
この本では、最後にそれ(服部君の事件)が、置かれていて、それがひそかなメッセージ性を帯びています。しかし、声高なプロパガンダではありません。司馬遼太郎氏は、連想に次ぐ連想で、まったくintimate(親密)な、人付き合いの結果として、そこへ導入をされるように書いておられるのです。
しかも時は日米関係が悪くて、(アメリカのほうが神経質になっている時であり、悔米という言葉が大騒ぎで、報道をされていたと書いてあります)、司馬氏は自らの講演の内容でさえ、変更を余儀なくされています。相手側から要請をされたというより、ご自分から気を使っておられるのです。
~~~~~~~~~~~
このアメリカ側が神経過敏である、という現象は、私がニューヨーク滞在中にも肌身に感じました。私はあきだけですが、1999年と2000年に滞在していて、ポケモンが子供に悪影響を与えるというキャンペーン、対抗するかのごとく、パールハーバーという映画が製作され、それが、公開されるころに、愛媛丸事件(日本の高校生が乗っている海洋実習船にアメリカの原潜が乗り上げた)が起こりました。人としては基礎医学の研究をしているひとが、研究材料を持ち出したという点で、大犯罪人扱いを受けました。東芝が高額のなんとか、保障金を払わなければなりませんでした。
踏んだりけったりの扱いを日本、および日本人が受けていると感じていました。ニューヨークにいながら、切なくて、切なくて、どうしてこうなるのかを考え込みました。特に2000年の方が、授業がない形で、しかも夜は2DKぐらいの広さの中で一人暮らしなので、十分にものを考える時間があり、考えに考え込みました。
すると、日本人は、非常におとなしくて、何もやっていないことに気がつきます。アメリカにたてつくなど、そんなことは何もやっていません。
しかも在米の特に戦後、渡米をした(元?)日本人は非常に元気ではっきりものを言いますが(その典型が村上春樹しでしたが)、日本に暮らしている、普通の日本人は、超がつくほどおとなしいばかりです。
それなのに、過剰に攻め立てられ、責めたてられます。
それが、なぜかということに考えが及んだときに、日本は、被植民地国家であり、アメリカは何か、そのことで、良心のやましさを感じているのだと、気がついてきたのです。アメリカというよりも軍産共同体なのですが、彼らは国民(市民と呼ばれる)を味方にしていますので、アメリカ総体となります。特に東京裁判に、大きなジレンマがあることを、知り始めます。それゆえに、靖国参拝が、忌避されるのでしょう。それと、もうひとつあって、それは、お金の問題でしょう。やはり、大量のお金がアメリカへ流れる仕組みはできていると感じています。
服部君事件は切ないこと、極まりないですが、どうも、ハロウィンと、結びつけて報道をされている模様ですが、それは、期日が違うようです。その二週前、で、単なる御呼ばれにお応えしようとした日に、番地を間違えただけで、射殺をされたのです。
この事件については、マイケル・ムーア監督は賢明(?)にも触れていません。
それは、創作の秘密として理解ができます。映画とは、観客に見てもらわなければなりません。アメリカの普通のレベルの国民(市民)に見てもらいたいとすれば、愛国心が邪魔して、誤解を受けやすいこの事件を、導入するわけには行かなかったと推定されます。でも、ムーア監督の説を丁寧に理解すれば、監督の創作動機のひとつとして、裏にこの服部君事件はあったと考えられます。
~~~~~~~~~~
ところで、服部君事件はあまりにも大きいので、ここで、論をそこから離します。
そして、司馬遼太郎氏ご自身の創作の秘密へと入って行きたいと感じます。
司馬氏は、ご招待によって、一週間程度奥様(秘書を兼ねる)と一緒に滞在をされたわけですが、それが二回目の訪米(ニューヨークに関しては)だそうです。その間に頭をよぎったことが、実際の文章となるには、三ヶ月を要しています。もちろん、さっと書けたのかもしれませんが、文字数制限が連載の誌面のほうにあって、それで完成まで三ヶ月を要したのかもしれません。が、いずれにしろ、博識多彩で、連想につぐ、連想で、文章は進んで行きます
私は自分の文章作法において、誰かから学んだという意識はないのですが、「あ、そうか。私もよく、横へそれてしまうが、元に戻ればそれは、許されるのだ」と考えた次第です。
そして、穏やかなことを間に含めて、ちらっと、メッセージを発する、そういう手法も、期せずしてというか、知らず知らずのうちに、同じ手法をとっていました。恐る恐る始まった、政治的なメッセージの発信ですが、ちら、ちら、ちらっと、袖の下からのぞかせるぐらいが、好ましいことだと直感的に悟りもして、そうやっております。それが、この文庫本を読んでいて、正しかったことが、よくわかりました。
2010年4月27日、早朝も早朝、午前一時に、雨宮舜
私はタイトルにある文庫本を、2週前に池袋のサンシャインビル内の、古本フェアーで買いました。雑誌太陽がたくさん出ていて、それを、買い求めるついでに買ったのです。出品者は阿佐ヶ谷の書店。
私はそもそも、司馬遼太郎氏の単行本は今まで一冊も読んだことのない人間です。だいたいがノンフィクションと、ドキュメンタリー、およびエッセイが好きで、大学卒業以降は、もっぱらそういう分野だけを読んできた人間で、小説を読むなら、海外ものと、決めていて、日本の現代小説はほとんど、読んだことのない人間です。特に司馬遼太郎氏は、有名で読者も多そうだから別に私が読んでも、物の数にも入らないだろうと思っているから、子供がすきで、薦められても、感化もされませんでした。
「街道が行く」については、1980年代と90年代は東京へ行くたびに週刊誌を買っていたから、(元気なときには週に四冊、電車の中で読みました)週刊誌で読みましたが、ほとんど印象に残っていないのです。挿絵画家が、変わったのを意識しているぐらいです。
~~~~~~~~~~~
まとまったものを読んだのは、今回の文庫本が初めてです。その『ニューヨーク散歩』という原稿用紙換算、300枚の掌編には、圧倒されるほどの面白さを感じています。
特に最後が、服部剛丈(よしひろ)君の両親で結ばれています。特にその行動・・・・・80万人の署名を集めて、「アメリカ社会での銃をなくすこと」を求めておられることで、終わっています。こちらこそチャネリングと、感じるゆえんです。それは、ごく最近に私がマイケル・ムーア監督の、ボウリング・フォー・コロンバインという映画を見て、マイケル・ムーア監督という、一種の天才というか、預言者に強く、共感したということと、このエッセイ集(文庫)の最後が、銃反対で結ばれていることを、さします。
この文章がはじめて世に出たのは、中扉裏の記述によると、1993年6月25日号の週刊朝日となっています。服部君が、「フリーズ」と言う言葉を理解できず、相手を信じて進んだがために射殺をされてしまったのは、きっと1992年だったのでしょう。それが、ハロウィンデーだったと、この本には書いてありますから。ハロウィンデーは秋です。から、次年度にこの文章ができたわけです。それが、文庫化されたのが、1997年で、私が買った古本が、1998年発行の第六刷です。それを、12年後の今読むことにもチャネリングを感じています。
この本では、最後にそれ(服部君の事件)が、置かれていて、それがひそかなメッセージ性を帯びています。しかし、声高なプロパガンダではありません。司馬遼太郎氏は、連想に次ぐ連想で、まったくintimate(親密)な、人付き合いの結果として、そこへ導入をされるように書いておられるのです。
しかも時は日米関係が悪くて、(アメリカのほうが神経質になっている時であり、悔米という言葉が大騒ぎで、報道をされていたと書いてあります)、司馬氏は自らの講演の内容でさえ、変更を余儀なくされています。相手側から要請をされたというより、ご自分から気を使っておられるのです。
~~~~~~~~~~~
このアメリカ側が神経過敏である、という現象は、私がニューヨーク滞在中にも肌身に感じました。私はあきだけですが、1999年と2000年に滞在していて、ポケモンが子供に悪影響を与えるというキャンペーン、対抗するかのごとく、パールハーバーという映画が製作され、それが、公開されるころに、愛媛丸事件(日本の高校生が乗っている海洋実習船にアメリカの原潜が乗り上げた)が起こりました。人としては基礎医学の研究をしているひとが、研究材料を持ち出したという点で、大犯罪人扱いを受けました。東芝が高額のなんとか、保障金を払わなければなりませんでした。
踏んだりけったりの扱いを日本、および日本人が受けていると感じていました。ニューヨークにいながら、切なくて、切なくて、どうしてこうなるのかを考え込みました。特に2000年の方が、授業がない形で、しかも夜は2DKぐらいの広さの中で一人暮らしなので、十分にものを考える時間があり、考えに考え込みました。
すると、日本人は、非常におとなしくて、何もやっていないことに気がつきます。アメリカにたてつくなど、そんなことは何もやっていません。
しかも在米の特に戦後、渡米をした(元?)日本人は非常に元気ではっきりものを言いますが(その典型が村上春樹しでしたが)、日本に暮らしている、普通の日本人は、超がつくほどおとなしいばかりです。
それなのに、過剰に攻め立てられ、責めたてられます。
それが、なぜかということに考えが及んだときに、日本は、被植民地国家であり、アメリカは何か、そのことで、良心のやましさを感じているのだと、気がついてきたのです。アメリカというよりも軍産共同体なのですが、彼らは国民(市民と呼ばれる)を味方にしていますので、アメリカ総体となります。特に東京裁判に、大きなジレンマがあることを、知り始めます。それゆえに、靖国参拝が、忌避されるのでしょう。それと、もうひとつあって、それは、お金の問題でしょう。やはり、大量のお金がアメリカへ流れる仕組みはできていると感じています。
服部君事件は切ないこと、極まりないですが、どうも、ハロウィンと、結びつけて報道をされている模様ですが、それは、期日が違うようです。その二週前、で、単なる御呼ばれにお応えしようとした日に、番地を間違えただけで、射殺をされたのです。
この事件については、マイケル・ムーア監督は賢明(?)にも触れていません。
それは、創作の秘密として理解ができます。映画とは、観客に見てもらわなければなりません。アメリカの普通のレベルの国民(市民)に見てもらいたいとすれば、愛国心が邪魔して、誤解を受けやすいこの事件を、導入するわけには行かなかったと推定されます。でも、ムーア監督の説を丁寧に理解すれば、監督の創作動機のひとつとして、裏にこの服部君事件はあったと考えられます。
~~~~~~~~~~
ところで、服部君事件はあまりにも大きいので、ここで、論をそこから離します。
そして、司馬遼太郎氏ご自身の創作の秘密へと入って行きたいと感じます。
司馬氏は、ご招待によって、一週間程度奥様(秘書を兼ねる)と一緒に滞在をされたわけですが、それが二回目の訪米(ニューヨークに関しては)だそうです。その間に頭をよぎったことが、実際の文章となるには、三ヶ月を要しています。もちろん、さっと書けたのかもしれませんが、文字数制限が連載の誌面のほうにあって、それで完成まで三ヶ月を要したのかもしれません。が、いずれにしろ、博識多彩で、連想につぐ、連想で、文章は進んで行きます
私は自分の文章作法において、誰かから学んだという意識はないのですが、「あ、そうか。私もよく、横へそれてしまうが、元に戻ればそれは、許されるのだ」と考えた次第です。
そして、穏やかなことを間に含めて、ちらっと、メッセージを発する、そういう手法も、期せずしてというか、知らず知らずのうちに、同じ手法をとっていました。恐る恐る始まった、政治的なメッセージの発信ですが、ちら、ちら、ちらっと、袖の下からのぞかせるぐらいが、好ましいことだと直感的に悟りもして、そうやっております。それが、この文庫本を読んでいて、正しかったことが、よくわかりました。
2010年4月27日、早朝も早朝、午前一時に、雨宮舜
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます