私は11日の朝は、午前8時半に寝ました。しかし、9時半には、既に目が覚めてしまいました。あまりにもはっきりした、しかも意味がある夢を見たからです。夢とは、現実の生活を見事に反映をしております。たった一時間で起きてしまうと、健康に悪いです。しかし、この夢の話はどうしても文章として書き残しておきたく、健康をいとわず、起きてしまいました。
で、今から、それを書き綴っていきますが、別に用途はありません。でも、自分としては、重要だと、思っている述懐です。恐れ入りますが、お付き合いいただきたいと、おもっております。
副題1、『シーン1は、国際基督教大学のさくらまつりが、影の、起因となっているだろう』
私は今、現実にとても迷っていることがあります。それは、3月の末に、国際基督教大学で、さくらまつりが毎年あるのですが、今年だけ、特別な意味があるからです。
国際基督教大学は、昔の中島飛行機を利用して建っているので、800メートルぐらいの長さの、旧滑走路を、進入路として利用しており、そこに、ソメイヨシノの大木が育っております。その開花を寿ぐ会が、毎年開かれているのですが、本年2016年は、私達、1966年卒の人間にとっては、卒業後50周年に当たり、学長ご招待の、ビュッフェパーティがあるのです。
それに私は行きたくないのです。それは、長谷川智恵子の、障害児、間引き推奨発言事件の陰に、塩見和子さんが居るだろうとか、スタップ細胞疑惑の陰に、三輪喜久代さんが居るだろうという様な発言をしているからですね。
それと、もう一つ、大きな理由があります。それは、片山祐輔君のなりすまし疑惑とは、仕組まれた冤罪であって、彼は、それを、知っていて、納得の上で、罪びとを引き受けていると、言っています。
同じことは、周南事件の保見にも繰り返され、マルハニチロの農薬混入事件の阿部俊樹にも繰り返され、寝屋川事件の山田浩二にも繰り返されました。最初の片山事件がどうして起こされたかと言うと、私の第一次フェイスブック時代に、北海道在住の画家に成りすまして、毎晩、私を心理的に、苦しめた存在があり、それが、どうも、国際基督教大学時代の1年時のたった23人の同級生のうちの一人、古村浩三君だろうと、思っており、それを、このブログ内で、暗示的に、2012年度中に、言っています。そういう事を書いている最中に、今年だけ、私達、66年卒業生は、学長ご招待で、ただで、お料理が食べられるパーティにご招待を受けているのです。しかし、このパーティには嘘が含まれているのでした。と言うのも、2012年にすでに、一回同じ名目のパーティが、6月に開かれているからです。
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副題2、『鎌倉にも長い桜並木があり、そこを、来る3月30日、吉右衛門が練り歩く予定だと言う事を、10日に歌舞伎座で初めて知った』
鎌倉で、鶴岡八幡宮の正門(=三の鳥居と言う)から、南にまっすぐ通る、若宮大路と言うのは、日本の道百選に入っているそうです。それは、1.5キロメートルぐらいの長さがあるのですが、海岸から、一の鳥居、二の鳥居と、あって、二の鳥居から、三の鳥居までは、段葛(ダンカズラと、読む)と言うプロムナードがあって、車道より、50cmぐらい高い、土の道ができています。その両側に、サクラが植えてあります。
これが、2013年から、2014年にかけて、急に衰えるのです。私はその原因をご近所の人々(鎌倉エージェントと私が日ごろ呼んでいる)が行っている悪辣な仕組みに在ると、見ています。無論の事、化学的な、原因もあるでしょう。一般的に考えられるのは、両側の、車道からの排気ガスの影響です。しかし、それは、1970年代から始まっている事なので、急に2013年に衰えるのは、おかしい事なのです。もう一つの、化学的原因は、両側の商店街の人の有志が、午前4時前後に散水する様になったと、聞いています。それが、過剰な、水分であって、根腐れを起こしたという案です。
しかし、私は、自分たちを守るために、周南事件を起こした、鎌倉エージェントの悪辣さに、真因があるという論を張っています。そうすると、突然に、八幡宮様が50%、そして、税金が50%投入され、数億円の予算をかけて、竹中土木の指導の下に、実際には、斎藤土木が、改修事業を行う事となり、一年以上、それが、塀に囲まれて、行われていました。
それが、整備事業と呼ばれていて、完成したそうで、近々竣工式を迎えることとなったのです。その式が、3月の30日に行われ、吉右衛門が、お練りを、そこで行うそうです。午後1時半から二の鳥居発です。一般の人は、段葛が細いので、その道で、お練りを見ないで、午後二時過ぎに、太鼓橋周辺に、一行が到着するので、そこから舞殿までの間で、見物してくださいとの、ことだそうです。「そこら辺りに来て、待っていてください」というポスターが、歌舞伎座に置いてありました。
これは、一般的に言えば、祝賀行事でしょう。しかし、私にとっては、ある種の重荷になっている行事です。こういうニュースに接するたびに、伊藤玄二郎を中心とする、鎌倉エージェントにどれほど、苦しめられてきた事かを、全部思い出すからです。最近の大きな出来事は、鎌倉近代美術館の閉鎖ですが、その職員用玄関前に在ったアメリカキササゲの伐採他、多数の事象があるからです。それも、特殊な、夢を見た一因となっているでしょう。
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副題3、『超が付くほど、厄介なことは、このICUの学長ご招待50周年祝賀、行事は、2012年6月12日に、すでに、一回ほど、行われているのだった。で、そちらが嘘だったと言う事になるが、どういうスピーチを学長は今度行うのだろうと、それは聞きたい気もするが、ある意味で、その会に出席することそのものが、マゾヒズムの極致でもあるのだったが』
2012年の6月12日だったと、しかと覚えております。そして、今ほど、はっきりとではなくて、ぼやかして、その会に対する疑問を呈しているのですが、ブログに委細を書いています。学長ご招待パーティは、私達1966年卒の人間に対しては、すでに、2012年度に、非常に、派手な形で、行われているのでした。
今年が時期としては正しいのですが、4年も前に、一回ほど、すでに行われているのです。その時に理事長さんは、ぺろっと、「今年と言うのは、時期としてはおかしいのだけれど」と、おっしゃったのですね。
その大掛かりな行事は、すべて、対私へのいじめ策として行われたのでした。つまり、やはり、古村浩三君は、第一次フェイスブック時代の、2011年度から、2012年の2月10日までは、梅森伸一と言う北海道在住の、画家に成り代わり、毎晩、私を苦しめる、情報を流し続けていたのです。
それを否定する為に、男子の同級生にも女子の同級生にもあらかじめ、私をいじめる様な策が、割り当てられていて、私は、ひどい目に出会いました。しかし、それが、自分には、予測をされて居たのですよ。それでも出かけて行ったのです。真実を探るために。しかし、体力を温存する為に、前夜、吉祥寺のホテルに一泊をしたほどでした。
:::::::::::ここで、挿入を入れます。もし、余計なトラブルを巻き起こすといけないので、関係のない人を、区別する為に、はっきり言いますが、先頭に立って、いじめてきたのは、FSさんです。だが、彼女は元来は、親切な人なのです。これは、1980年代の事でしたが、私が電話の中で、「再就職をしたいのだけど」と言うと、「うーん、鎌倉ねえ。あ、そうだ。三菱化成の、研究所があるわよ」と、教えてくれたほどなのです。しかし、詳しい住所を聞いてあきらめました。頼朝が、鎌倉を選んだのは、山に囲まれた自然の要塞だからですが、この山のせいで、直線距離なら近いのに、『交通機関を使うと、二時間ぐらいかかってしまいますね』と言う様なところがあるのです。FSさんは、車を、1960年代から運転をしている人だから、こういう部分は、理解できないと、思います。だが、その親切な情報をもらったことは、身に沁みました。そんないい人なのに、2012年には、彼女はすっかり、変わっていたのです。誰が、教唆をしてと、思いますが、結構、三輪喜久代さんだったりして。そんな気もしてきましたね。スタップ細胞疑惑が起きたからです。::::::::::::ここで、挿入から元へ戻ります。
さて、今度もその二の舞になるのか、それとも、ずっと緩和された方式で、いじめ策が行われるのか、それを確認したい思いもあって、出席、欠席、どちらでもいいような方式で、申し込みをしたのですが、昨日、「出席の申し込みを、受け付けました」と言うお知らせが封書で届いたのですね。それも、夢の起因となったと、思われます。かえって、「締め切り日を過ぎています」という理由で断られたらすっきりしたのですけれども。本当なら、二月何日価か、出欠のご返事を差し上げないといけなかったのです。・・・・・
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副題4、『私は、大学時代、女子の友達として、二つのグループに所属をしていたが』
私は大学時代には、二つのグループの友達と、それから、一年時の同級生の3つのグループに所属をしておりました。しかし、最後のグループは、綿密な組織性を持っておらず、ごく個人的な付き合いとなっております。
で、前の二つのグループとは一年の時に、北海道旅行を一緒にした、三人の友達と、そのまた、友達が形成するグループです。この人たちの特徴は、主に、東京圏に住む友達であって、寮には入っていないという、ところです。国際基督教大学の特徴は主にその寮と、近辺に在る下宿に学生が、寝泊まりすると言う事にあります。
それで、夜遅くまで談論風発し、他の大学とは、まるで違ったレベルで、深い人文学的な教養が身に付くのです。
しかし、寮の定員は少ないですから、女子で、東京圏に住む人は、毎日自宅から、通学するケースが多く、そのグループから、北海道旅行へ誘われて20日間ほど、一緒に過ごして、います。しかし、こちらのグループ、特に、第二次的に、このグループに入って来た人で、旅行は一緒にはしていなかった人から、2012年度には、しこたまにいじめられました。
そこですが、今度はどういう設定になっているのか、怖いもの見たさに出かけてみたい思いもあるのです。
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副題5、『国際基督教大学には、女子寮で、四年生の時だけ入れる第三女子寮と言うのがあり、それもまた、ゆりかごの一つだった』
もう一つのグループは、第三女子寮と言って、四年時の女性だけが入れる寮があります。そこに、4年生の時だけ入っていたのですが、そこでの、友達が、作っているグループがあります。こちらも、寮生と、そこに、寮には入っていなかった通学生なのだけれど、友達の友達として、グループ内に所属している人もいるという形です。10人程度のグループでした。
とても、人が好い人たちの集まりであって、楽しかったですよ。主婦になった女性がよくやる、お料理のお持ちよりパーティもあってね。こちらのグループは、2012年度のたくらみの際には、動いておりません。しかし、後注2で置いた文章内で書いた様に、こちらのグループにも裏から手が回っていて、友達が去ってしまっています。
今、どうしても、見つけられなかったのですが、腸詰屋の、裏切りの項目のところで書いた、マダムKYとか、マダムYは、こちらのグループに所属している人たちです。マダムKYの方は、裏に石塚雅彦さんが居る可能性があり、マダムYの方は裏に、何人かの間の人間を挟んで、成岡庸司君がいる可能性があります。ともかく、絶対に自然な形ではないが、友達が、離れて行っています。
と、ここまで書いて、それが、準備段階となって、今朝見た夢の話に入っていきましょう。
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副題6、『私を四人の女友達が訪ねてくるのだが、みんな一言もしゃべらないのだった』
私を四人の女友達が訪ねてくるのです。私はガーデンテーブル風なところで、もてなします。全部、とても懐かしい友達です。しかし、彼女たちは、一言も、言葉を発しません。これが、・・・・・上に書いた、いろいろな状況を、まさしく、反映している・・・・・という場面です。友達は、既に、友達ではないのです。それで、まるで、石膏像の、様に黙ったままです。
しかし、私は『それも、想定内の事だわ』と、考えて、ショックも、受けず、茶菓でもてなそうと、自宅の台所へ戻ります。冷凍庫に、2種類は冷凍したケーキが保存をしてあり、それを、両方切って、更に、自分が作った硬いケーキも切ったりして盛り合わせました。お皿からあふれそうになって、『これでは、4人分は、もてませんね』と、思い、一人分だけ持って、例のガーデンテーブルに戻ると、みんな消えてしまっていて、誰も、もう、そこには、いませんでした。
これは、現実に、迫っている26日のパーティで、例の敵さんたち(特に中心にいる古村浩三君)が、『作戦変更をするのではないか?』と言う淡い期待を反映していると、思います。つまり、『2012年度には、時期を言えば偽の時期であった50周年学長ご招待パーティを、設定して、徹底的に、私だけをターゲットとして、いじめて来る作戦だったが、今度は、緩和的に、出て来るのではないか?。特に別の記の卒業生も交じっての祝賀会みたいだから、あまり、どぎつい事は起こらないでしょう』と言う淡い期待を反映しているのでしょう。それが、突然に、懐かしい友達が、四人も訪ねてきたと言うシーンで表されています。
でも、本質は変わりません。それが、4人とも何もしゃべらないうえに、私が台所で、冷凍したケーキを切っている間に、消えてしまった事に象徴をされています。緩和的に出てきても、本質的には、私を異質なものとして排除しようとする動きは変わらず、友達との、本当の友情は復活をしないのです。それを見事に、私に教えてくれる場面でした。
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副題6、『その次のシーンについては、歌舞伎座で、後ろに居た主婦たちの会話が、関係しているのだった』
私は幻のごとく、友達が消えてしまった事にも、50%は、想定内だと、思っていました。だから、ショックをあまり受けないながら、それでも、どこへ行ったのかしらと、探しに出かけます。その場所ですが、ガーデンテーブルの置いてあったところを含めて、あたり全体が、公園でした。
実際の我が家近辺には、公園がありません。我が家は、八幡宮・西側傍の山の中にあって、公園などは、近辺には、ありません。しかし、自宅の台所から、ケーキを乗せた皿をもって、友達の居るはずのテーブルに戻ったら、みんないなくなっているので、周辺を探し始めますが、それが、夢の中では、公園だったのです。白い石畳が太陽に生えている美しい洋風庭園でした。
それこそ、ある部分で、現実を反映しているのでした。歌舞伎座ですが、休憩時間があります。その時間は、3月の夜の部では、15分、35分、5分だったでしょう。で、全部で、55分間もあります。それで、席を離れてロビーに居たり、トイレに行ったりしますが、それでも、着席している時間帯もあるのです。その時、私は一人なので、静かにしていますが、友達と一緒に来ている人は、いろいろなおしゃべりをしています。
で、昨日、2016年3月10日の場合は、後ろの席の人は、観光地の感想を述べておりました。どこかの、花の名所が良かったと、言い、「それと比べて、ハウステンボスが、意外と駄目だった」と、話していたのです。ここで、ハウステンボスと、言う名前を出してしまうのは、申し訳ないのですが、話者の説明が、独特で、説得力があると、思ったので、ハウステンボスと言う公園名が、深く記憶に残ったので、その名前を出します。
対話者Aさんが、そう言うと、相手のBさんは、「でも、ハウステンボスって、回復したって言われているわよね」と、言う風に答えました。で、Aさんは、「そうね。HISが引き受けたと聞いているわ。だから、期待して行ったのよ。だけど、駄目だったの」と、続けると、相手のBさんは、ひどく驚いた様子でした。で、Aさんは、何故駄目だと思うかの説明を始めました。いろいろあったのですが、途中で、Aさんは、突然に、ハウステンボスに悪いとでも思ったのか、まったく違った形で、説明をし始めました。
「つまり、ディズニーランドみたいな、・モノ・が無いのよ」と、説明をしました。それは、私が私風に、翻訳を、すれば、お客の入場者数が少ないし、全体に熱気が無いと言う事でしょう。それが、公園を、冷え冷えと感じさせていて、祝祭的雰囲気が無いと、言いたかったのです。ただ、彼女は、それを、直接は言いたくなくて、上の様な表現をしたのでした。そして、私は、観光施設を説明するのに、ディズニーランドと比較をするのは、非常に面白い説明だと、感じ入って、感心してしまいました。で、深い印象にそれが、残り、夢の中の舞台は、ハウステンボスらしい、石畳の道の有る公園の中だったのです。だが、ここで、念のためにお断りをしておきますが、私自身は、ディズニーランド、ファンじゃあ、ないのですよ。『あそこって、フェイク(偽物)だらけで、二度と行きたくない』と、思っている観光施設です。
今の私だったら、彼女が言う、その冷え冷えとしているハウステンボスの方を、好みとしていますので、『ハウステンボスには、行ってみたいなあ』と、思ったほどでした。
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副題7、『夢の中で、私の目の前をつっつつーと走って、横切っていく人物がいた。その人は、銀座井上画廊で、グループ展を、最近やったのだった』
さて、夢の中で、顔と名前がはっきりと、判った知人は、これから語る第二シーンで、登場したマダムNです。この人がどうして現れたかと言うと、直近で、接触があったからでしょう。
ところで、私は最近では、銀座井上画廊には寄らないのです。寄る画廊の数を少なくしたと言う事もあるが、ここの担当者(または、経営者?)の井上秀子さんが、もう、お年であって、表に出て居ないだろうと、思うところがあるのと、ワシオトシヒコさんにひどい攻撃を受けた場所が、ここなので、彼を、嫌っている私は、もう、二度と彼には、会いたくないのでした。それに、銀座井上画廊は、公募団体展に所属する作家の個展が多いところで、既に、公募団体展に関係をしていない私は、それらの、大サイズの作品を見ても、あまり、刺激を受けないからです。もっと、山椒は小粒でも、ピリリと辛いという作品を好んでいるからでした。
しかし、2015年度の秋のある日、その日だけは、銀座井上画廊の前の通りを歩いていて、ふと、『寄ってみるかな』と、思ったのでした。ショーウインドーを見て、『是って、よく知っているグループ展の筈です。それに、マダムNの名前もあるし』と、思いましたしね。こういうところが、私が、神様に見守られていると言う点の一つです。最近数年間、まったく寄っていなかった井上画廊に、その日だけ、寄って、しかも、それが、政治的分析=・・・・・長谷川智恵子の障害児、間引き発言が、どうして生まれたかについて確信を持つ文章が生まれる・・・・・=と言う事へ結びついていくからでした。
画廊に入って、作品を見たり、お当番をしている女性たちに質問をすると、Nで始まる名前を持つ作家は、まさしく、私の知っているマダムNでした。彼女は上の方で言っている、第三女子寮で一緒だった仲間で、マダムKYや、マダムYとも同じ仲間です。そして、姉貴気分の強いマダムKYが、Nさんの事を、「彼女は信用のできる人よ。とても、性格の良い人で」と、言っていた当該の人物でもあります。そして、私もその解釈には同意します。とても、いい人。それが、マダムNなのです。そして、ICU同窓会展に、私の方が「でていらっしゃいよ」と、誘った仲間です。だから、私がそこを出た後でも、ICU同窓会展の案内状もくれていましたし、こちらの、グループ展の案内状もいつも、くれている存在でした。後者の方は、彼女が現在住んでいる処の地域社会で、活動をしているグループの展覧会です。
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ああ、ここで、さもしいながらはっきり言うと、私が誘ったのに、私の方が、渡辺幸子さんのいじわるで、そこを、出なければならなくなったICU同窓会展で、Nさんは、引き続き活躍しているし、そのうちに、石塚雅彦さんや、渡辺幸子さんとの、関係から、私には、何の案内状もくれなくなっていったのでした。これって、平家物語の仏御前の話と、似ています。
しかし、本当に不思議なことに、田中貴金属から始まって、教文館の前を通り、山野楽器から和光へ向かうその通りを、画廊をめぐるという意味では、数年間にわたって通っていないのに、その日だけは、歩いていて、しかも、井上画廊のショーウインドーも覗き、マダムNが、作品を展示していることを知り、その上、さらに、今では、すっかり、離れて行っているのを知ったわけです。これは、政治的な意味では、天が、またもや、おめぐみ、をくださったと、言う様な事なのです。Nさんに対する対応に於いて、これから、先には、間違わないで、済むからでした。自分がどういう行動を、これから、取ったらいいかを、天がお示しくださるわけですから。
もし、このグループ展を見なかったら、私は、まだ、まだ、彼女が自分の味方だと、信じ続けていたでしょう。そして、今回よりももっと激しく厳しく、そして、残酷な形で、彼女の、離反を目の前に、突き付けられて、他人の前で、度を失っていたかもしれません。
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副題8、『しかし、2015年の晩秋には、Nさんの、性格の良さだけは、認識できたのだった。政治とは別にして・・・・・』
でね。私は無論の事、芳名帳にサインはしました。で、その芳名帳ですが、彼女が見ないという可能性もあるのです。絵を、運んでもらうのを業者にお任せして居たら、土曜日に、銀座に来ない可能性があり、そう言う場合は、芳名帳は、見ません。ああ、思い出すことですが、私がその名前をたびたび出して、困惑を語っている、渡辺幸子さんのいじめとは、当時は、土曜日には外出できなかった私をいじめるために、「芳名帳のコピーを作って、会員の、仲間にあげるのを止めましょうよ」と、事務長さんに提案をしたことでした。ほかの人は、行動が自由なのです。私だけ、土曜日に、当時は自由がありませんでした。そして、事務長さんは、すべての人に芳名帳の、コピーを配ってくださるのが、通例だったのに、その回だけ、渡辺さんの提案に乗ったのでした。
それで、コピーをもらえないし、土曜日に、片付けにも行かれない(作品の運搬は、特別な業者があるので、そこに頼んであり、画廊や、他のメンバーには、迷惑はかけないで、済んでいます)ので、困り切った私は、事務長さんに、電話をかけて、以下の様にお願いをしてみました。
「私が、後日、ウィークデイにお宅まで、出かけますので、お玄関先で、ちょっと、芳名帳を、貸していただけますか? 近所のコンビニで、コピーを取りますから」と、電話でお願いしました。ても、どうしてか、それ以前の会までは、きちんとして親切な紳士だった、事務長さんが、その時だけ、「絶対に家には来ないでください。そして、コピーは、あなたには上げられません。たとえ、あなたが、コピー代とか、切って代として、お金を送ると言っても、コピーを取って郵送することは致しません。土曜日に、望月画廊に、来て芳名帳を見てください」と、言うのです。私は、その時、100号と言うサイズの絵を出品していて、2万円弱の費用を出して、専門家に銀座まで運んでもらっていました。このサイズだと、電車に乗せて運ぶわけにもいかないし、鎌倉の家が、石段130段で上がる山の上だから、
私達一家は、車を手放していました。駐車場が、遠くでも、月に、3万円近くかかりますし。そのうえ、もし、自宅に車があったとしても、私は運転ができませんし。
今、思い出しても、ひやりとか、ぞくっとします。とても、冷酷なやり方で、渡辺幸子さんは、私をいじめたものだなあと、思い当たります。10年以上、前の事ですが、昨日の事の様に鮮やかに思い出します。
幸子さんは、2003年の、早春のその日、私が100号を出した意味を誤解をしたのでした。彼女を凌駕する為に、大きなサイズの絵を出品したのだと、誤解をしたのです。特にその直前に、「ああ、ICU展が来るのね。忙しいから私、あれが、負担なのよ。でも、友達関係があるから、断れないわね。鎌倉美術家協会に出したのを、出して、お茶を濁しておくわ」と、私に言ったのを、私が出し抜いて、成功をしようとしていると、誤解をしたからでした。それで、急速なる、かつ、女のいじわるを駆使したいじめをやってきたのでした。
それは、誤解中の誤解です。私は事前に、彼女の述懐を聞いた時にも、出世主義の渦中にいる彼女が、多数のコンクールに応募しているのを知っていましたので、まぜっかえしもしないし、批判もしません。ただ、聞いているだけです。
そして、私の方ではね。そんな出し抜こうなどと言う、気持ちは全くなくて、ただ、国画会への出品を止めようと考えたので、100号サイズの絵が余ってしまうので、望月画廊(銀座にあった、割と大きな画廊。今は、閉鎖されて無くなっている。独立と言う団体の人が主に個展をしていた、画廊)で、展示をさせてやろうと、絵本位に考えただけなのです。私は後から考えると、2003年の、国画会の、オープニングパーティには参加しているので、版画は、その年も出していたのですが、絵画は、その年から出さない様になったのでした。
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副題9、『私が国画会への関係を絶ったのは、NHKが、放映したNHKスペシャル空き家特集を見たからだった。それは、蒲田キャスターが、主役をするもので、表向きには、社会派の番組みたいに見せているが実際には、精神病院へ入っと、言われる女流画家をいじめるすさまじい毒々しいものだった。私は、その女性が、精神病院に入るきっかけとなったのが、国画会のある特長が、原因だと、思っているので、国画会へ関係するのを止めようと決意したのだった。しかし、その種の問題には、まったく関心が無くて、ただ、自分が、出世できる道を探索するだけの渡辺さんに、この問題を打ち明けたことはない』、
当時国画会は、上野の都美館で、展示をしている時代でしたが、公募団体展の中で、私の絵を見せると、当時は、グレーを主にした、非常に静かな絵を描いていたので、目立たないのですよね。望月画廊で、見せる方が絵のためにいいだろうと、思った次第ですが、渡辺幸子さんには、そう言う事は、いっさいりかいが及ばない風情でした。で、電話を使ったいじめだけではない形で、猛烈に、いじめられました。
だが、それよりももっと強い理由がありました。どこかに、とても詳しいいきさつを書いて有る筈の、副題9の中の二重ガッコ内に書いている事が、本当の理由でした。国画会は、島田章三さんの、性格のゆえに、審査と言う意味で、腐敗が進んでいるからです。島田さんの事は、実妹の大沼嘉津恵さんと、知遇があるので、直接の知り合いではないものの、いろいろなことが。相当なレベルで、私にはわかっています。もし、妹さんが、お兄さんに叱られるといけないので、これも、また、はっきりと書きますが、妹さんは、お兄さんの悪口を言っているわけではなくて、褒めまくるのですよ。だけど、その内容を聞いていると、島田さんのあざとさが、見え見えに判ってくるのです。妹さんは、そこまでの、判断ができない人なのですね。単純と言うかなんというか。ご近所から馬鹿にされているのもむべなるかなと思います。『お子さん、一人亡くしてしているのよ。今どきの様な医療の発達した時代に、バカみたいね』と、言われています。これはね。島田さんが、あまりに大量に横須賀市の税金をむしり取るので、そう言う事となってしまうのです。
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ここで、また、また、挿入に入ります。指原いく子さんと言う女流画家がいます。彼女は女子美卒ですが、二重の意味での先輩に、山寺茂子さんが居るのを利用しました。国画会会員にして、女子美卒の、山寺重子さんの当時の作品と、そっくりな絵(8~10号程度のサイズ)を、30枚程度、銀座で誇示して、その結果、楽々と会員になっていきました。カドミウムレッドを多用した作品です。だから、指原いく子が、山寺重子の、系列下にあると言う事が誰にでもわかる様な作品です。そして、会員になった後は、自由な作品を発表しているらしいです。
それを一方の目で見て居ながら、もう一方の目で、NHK特番に出てきた、杉並区の空き家特集と言う異常な番組で、あの国画会を、落選をさせられた天才的女流画家が、更に、二重三重に、いじめられているのを見たら、「ああ、早く逃げ様。こんな世界からは」と、思う筈です。誰もがそう思う筈で、そうは、思わない方が、狂っていると、思いますよ。(苦笑)
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その女流作家は、現代アートの世界では、とても有名な人で、才能もある人なのに、2001年だったかな。審査で、落選をさせたのですよ。それも、その人が、精神病院へ入院することとなった、大きな理由の一つだったろうと、私は、おもっております。でね、それがあって、国画会絵画部には、とことん嫌気がさしたのでした。しかし、他の団体展も、にたり寄ったりだろうと、思ったから、それ以来、公募団体展とは、無関係に生きてきました。ただ、そう言う事を渡辺幸子さんには、告げていませんよ。当時の彼女は、紗眼帯をつけた馬みたいに、出世出世で、極まっていた人だから、こういう話にも、何にも影響を受けないだろうし、問題がどこにあるのかさえ、理解ができないと、思います。
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副題10、『望月画廊のソファーから、パーッと私の荷物が投げ飛ばされたのだけれど・・・・・そういう、対私への、いじわるによって、渡辺幸子さんは、大出世の糸口をつかんでいく。青木繁大賞展、大賞を取るし、ガレリアグラフィカで、ただで、個展をさせてもらえるし、ICUからは、本当は中退なのに、卒業したことにしてもらえるし、それこそ、塩見和子さんや、住吉美紀さん(元NHKアナウンサー)と一緒に、同格有名人として、大宣伝を母校からしてもらえる様になるのだった。彼女は同窓会、ウエブサイト内で、この大学を卒業した有名人として、大・オマージュをささげられているし・・・・・これも、鎌倉エージェントが、渡辺幸子さんを利用して、彼女を持ち上げることで、私g苦しむはずだと、推察して、行っていることが明々白々だから。本年2016年の、医事新報(伊藤玄二郎が、編集をしているらしいもの)の壱月号の表紙も渡辺幸子さんだったし。ここで、一気に私を潰そうと考えているから、そうなっている筈。ところが、私は今のところ、反撃ができないのだった。それは、私より、5歳上で、国際基督教大学、第4期卒業の人の、ある、内々の、秘密に触れるからだった。その女性は、私が、それをブログで、書いたら門歯をしかねないと、思う。だから、その人たち(=2016年に79歳)が、死んでしまう時期が来たら、書けるのだけれど、今は、書けない。そういうことを悪利用して、サチコサンは、私を孤立化に追い込んだ。幸子さんの、夫も同じ期の卒業生だし、上の方で言っているコピーの問題で、恐ろしい拒否をした事務長さんも、4期だから。もし、私が、20年後もパソコンを自由自在に、駆使できる状態だったら、本当の事が書けるはずだ。天の采配をまとう』
渡辺幸子さんが、電話で何を、回したのかは、瞬時にわかりましたよ。だけど、私は、リアルな世界では、喧嘩をしない主義だから、黙って、何も言わずに、身を引きました。元、スチュワーデスって、女のいじわるを、最高レベルで、マスターして居る人達です。そんな人を相手にしても、こちらが、勝てるわけなくて、永遠に、嫌な思いをさせられるだけですから。
ところで、今、スチュワーデスと言う言葉が、使われず、キャビン・アテンダントと言う言葉に代わっていますが、それも、この渡辺幸子さんに関する、エピソードを書かせたくないとか、書いても、『あの人は嘘を書いている』と言う事にするために、言葉狩りをして、使えなくしている好例です。
渡辺幸子さんに関して言えば、曼珠沙華の小品の話とか、もっと、恐ろしいエピソードが、いくつも、秘められているのですが、今は、まだ、書きません。この人も『CIAとか、鎌倉エージェントとはなんであるか?』を分析する糸口としては、宝庫なのです。だから、少しずつ、スパイラルに、積み上げていきましょう。
長谷川智恵子の、障害児間引き発言についても、裏で、動いた可能性のある人です。でも、彼女のあれこれを、すべて、知っているからこそ、彼女と関係が深い酒井忠康氏についても、石塚雅彦さんについても、サラサラさらっと、書けるし、書いたことに、一歩も引かないという強い決意を持っておりますよ。
物事は、必ずバランスが取れているのです。彼女は酒井さんに対しては、自分が下だと、思っているでしょう。そして、川崎千恵子に対しては、自分が上だと。ところが、もしかすると、酒井忠康氏よりもあるポイントに於いては、私の方が上かもしれないのですよ。こうして、物事は、一筋縄ではいかない、様相を見せてくるわけです。そして、結論を言えば、・・・・・誰もが、人間である限り、平等である・・・・・・と言う事です。
でもね、ここで、渡辺幸子さんについて、書くのは止めましょう。彼女について書くと、一気にこの文章がどす黒いものに変化してしまいます。私は、本日は、ごく、上品な世界について、書くはずだったのですよ。それなのに・・・・・
:=*=:=、=:=*=:=、罫線より上は、11日に書いて、それ以降は、13日に書いているので、気分が、継続していないのかしら? 必死に元へ戻しましょう。
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副題10、『政治が、私の友人たちとの関係を全く変えてしまった事を、自覚している私は、Nさんへ電話を掛けなかった。20年前だったら、すぐ、絵の感想について電話を掛けただろうに・・・・・しかし、彼女は芳名帳を見たらしくて、礼状をくれた。基本線を守る人だった。時には、ほっとすることもあるのだった・・・・・しかし、夢の中では、つつつーっと、何も言わずに目の前を横切って、彼女はあるドアの向こう側に消えてしまった』
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ここで、渡辺幸左近と言う、壱歳年上の人から、マダムNと言うICUでの同期生へ話を戻します。私は、彼女から、礼状が来た時に、ある程度はほっとしたものの、それで、状況が好転したとは、考えませんでした。そして、現状について、ある程度以上に深い悲哀にとらわれたのです。それも事実です。
それが、今、書いている夢に反映をしたのだと、思います。
彼女が開けて、その向こうに消えて行ってしまったドアは、ドラえもんの中に出てくるどこでもドアの様に、ドアだけが独立しているモノであって、そこの向こうに、消えた人は、ワープして、どこかへ、消えてしまい、追いかけることは不可能な事だったのです。
ところで、藤子不二雄(F)は、やはり天才の一人なのですね。私は、ドラえもんは、それほど、高い評価を与えてもいないのです。と言うのも世代が違うので、漫画と言うものを、ほとんど読まないし、テレビも見ないから。でも、このどこでもドアと言う発想は、すごいと思いますね。子供向けの発想だから、プラスイメージであって、のび太が、行きたいところに一気に行かれるというイメージで使われていますが、
ちょっと、イメージを変えると、ひどく恐ろしい事なのです。
拉致被害者の家族など、一時期は、何も、知らされておらず、神隠しにでもあったのかと、思っておられたでしょう。それは、こういう、特殊なドアの向こうに消えて行ったと、言う象徴的な映像と、同じなのです。
2011-3-11の、大津波にさらわれて、その後、遺体が発見をされていない人達も、遺族にとっては、こういうドアの向こうに消えてしまった人たちと、似ているでしょう。
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副題10、『染五郎が、また、ラスベガスに行き、Shi-Shi-O と言う演目をするらしいが?』
私ね、その11日の午前八時から、9時半までの間に、見た夢の中で、大切な友達が、神秘的なドアの向こうに消えてしまったとたんに、同じ夢の中で、・・・・・ああ、このドアって、この前あのイケメンが、越えて行ったドアですね・・・・・と思ったのですよ。
で、その夢の中のイケメンとは、菊之助と、染五郎のどちらかなのですね。最近、歌舞伎に凝っています。浅草の若手歌舞伎では、松也ほかの、若いイケメン俳優の、アンサンブルを見ました。
でも、染五郎は、ラスベガスで、『鯉つかみ』を演じて、それの舞台裏映像を、NHKが特番で、報道したので、印象が濃いのです。その上、去年の12月に、国立劇場で、四谷怪談をやって、主役のお岩さん他、五役の早変わりをしています。また、今年は、Shi-Shi-O と言う演目を、ラスベガスで、やるのですが、その共演者は、弥十郎などのベテランも含み、去年よりも格上の人たちなのですね。それで、その舞台の、大宣伝が、ポスターだけですが、今行われているところです。
しかし、そのドアの向こうに消えて行ったイケメン歌舞伎俳優とは、菊之助だったのかもしれません。菊之助は、染五郎に比べると、おとなしい感じがします。しかし、一月の、国立劇場の、子狐礼三で、赤い鳥居の乱立する中、立ち回りと言うか、舞踊と言うか、ものすごい動きを見せたのです。それは、若さの象徴でした。また、今月は昼の部で、父親の代役として、新雀右衛門の相手役を務めています。美しい若武者の役です。印象が濃いです。
ともかく、真っ青な、空の中に、白銀色に輝くドアが、浮かんでいて、美形の若手歌舞伎俳優はその向こうに消えていきました。
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副題11、『この最後の場面で、美そのものに、慰められて、苦悩を、一時的に解消をさせられた、私だった』
その最後の場面ですが、哲学的な意味とか、心理学的な意味は、ありません。私と染五郎、または、菊之助の間には、何の関係もありません。もし、この二人に会えないと言う事となっても何の痛痒も感じないでしょう。『仕方がない。一時的に歌舞伎座に行くのは止めよう』と、思うだけですね。だけど、パソコン内で、渡辺幸子さんが、登場する頁が、読めなくなったが、一か月も待っていると、また、読めるようになったように、何事も、やがて解消をして行くのです。普通になっていきます。だから、ある程度の時が経ってから、また、切符を買えば、舞台に登場する、これら美形の俳優を見ることができるでしょう。
強いて言えば、歌舞伎の舞台には、花道と言うのがあって、揚幕へ向かっての、引っ込みと言う、仕掛けがあります。これは、主役をさらに、際立たせる仕組みであって、主役が、輝く瞬間です。今、相当に、歌舞伎を見ることに集中をしているから、こういう夢を見たのかもしれません。
それにです。その美形の俳優は、向こう側に行ったのではなくて、ドアから出て来て、こちら側に向かってにっこり笑ったのだったかもしれないのです。
私は、『ああ、なんて美しいのだろう』と、思いながら目が覚めて、現実の世界に戻ったわけでした。よく臨死体験で、美しい夢を見ると言います。ただ、私は11日の朝、それを見て、まだ、生きております。は、は、は。夢とは、私の脳内に、起こる、小さな変化です。それは、人間が構成する他者の構築するこの現実世界には、何の影響も与えません。
でも、私自身は、あの青空を、思い出すと、今でも、頬が緩むような、楽しくて、リラックスした感情を持つことができるのです。
後で、誤変換を直し、それから、書いた日付と、署名を入れます。
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