銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

東大卒一人を送り出すのに、四千万円が必要だと教授がおっしゃった +  塩見和子の1978年の転職の裏側 + 安田講堂事件

2023-07-31 18:01:10 | 政治

帰郷した1881年明治14年)、富太郎は2歳年下の従妹でかねてから許嫁の猶(旧姓=山本)と祝言を挙げ、牧野猶本家岸屋の若女将となる[8][9][10]

1884年(明治17年)、富太郎は本格的な植物学を志し、22歳の時に再び上京する。そこで東京大学理学部(後の帝国大学理科大学)植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する

 

1887年(明治20年)、育ててくれた祖母、浪子が77歳で死去。

1887年(明治20年)12月、一目惚れした小澤壽衛(14歳)と下谷区根岸の御隠殿(輪王寺宮門跡の別邸)跡の離れ家で一緒に暮らしはじめ、翌年(明治21年)10月、第一子園子(1888年 - 1893年)が生まれる[11]

この時期、富太郎は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、その研究費は亡き祖母浪子に代わって猶が工面し、富太郎の求めるままに東京に送金したため、実家岸屋の経営は瞬くうちに傾いていった[5]

1891年(明治24年)、実家の岸屋がついに破綻し、家財を精算するために帰郷する。このとき当主の富太郎は、猶と番頭の井上和之助を結婚させて店の後始末を託す[12]

  • 元配偶者・[32][33]
    • 最初の妻。富太郎の従妹で、3歳年下にあたる。祖母の浪子が富太郎に妻合わせたと考えられる。

 

 

 CIAエージェントが、塩見和子さんという美女(私とは,1966年ICU同期卒)を、日本財団の事務局長に、1978年に、転職をさせた理由や、原因を書き始めたら、すさまじい妨害が起こりました。今は、使っているパソコンを変えて、修正していこうとしているところです。

副題1、「飯島愛について続きを書かないといけない。しかし、2023年7月31日の朝ドラ、らんまんには、見ごたえがあり、どうしても、触れないといけなくなった。国家が経営する組織には、税金が使われていることを、確認しないといけないのだ。JR東日本の経営にも、大いなる疑問があったが、

 あさどら【らんまん】にも、今まで、大いに疑問を感じていた。それで、感情移入ができなかったのだった。

 だが、本日、やっと、東大という、国家が経営する組織の、運営上の、お金の問題が出てきて、『ああ、やっとリアリティが出てきましたね』と、私は、感じている。

 1967年、私が東大へ勤務していたころ、講座内には、教授になる資格のある人(助手以上、助教授までの、お給料の出ている、人材)が、6人いた。それから、東大卒ではないが、研究をしながら博士号を狙う人がいて(その人は、東大の、教授職は狙っていないが、就職先をお世話してもらうつもりだったと思う)また、まだ、学生だった、マスターコースの在学生が、教授職を目指して、残るとしたら、教授が、その将来の社会的立場に、責任を持っている人が8人になる。

 私は、女だし、研究職を目指しているわけではなくて、英語の仕事担当で、採用された人間だから、いずれ出ていかなくてはならないと考えていたが、男性の、研究職さんたちが、どこの大学の教授になって、出ていくか、または、東大の教授となって残るのか?・・・・・に関して、お互いに、緊張感に満ちて、待っていると、いう状況は理解していた。

 中に、50代の人が三人いて、その三人に対して、教授の方に好き嫌いがあるのも、理解をしていた。特に嫌いという意味で、受容できない紳士がいたのだった。反対に、30代でも、気に入っていて、『将来、東大教授にはあれを据える』と、教授が、決めている青年もいた。

 ところで、嫌われているタイプの人って、良くものを考える人だった。わたくしは、その人が何を考えているのかについては、話し合ったことはない。だけど、表情を見ているだけで、その人が、何かを常に考えている人だということが分かった。

 私の今の生活ぶりって、その人とそっくりだから、私も、教授に嫌われても、おかしくないのだが、私の場合、一日に三回ぐらい、教授と15分程度懇談する必要があって、やがて、私の人格とか、性格を理解していただいて、何とか、嫌われずに、済んでいた。

 しかし嫌われている人の場合、論文ができた時に、5分から、15分程度、論文の内容について、教授と懇談するだけであり、それが、年に一回程度だから、信頼や、好意を得て、立場上、自分を有利に持っていくほどの、挽回をするのは、難しかった。

 その人は、結局、東京を遠く離れた地の大学の教授となって東京を去っていった。教授に言わせると(実際に声で、発言をされたわけではないが)「あいつは、腹に、一物があり、私に対して、反抗の気配を持っている」と、いうことになるのだと、思う。

 朝ドラ【らんまん】の主人公は、この時、東京から30時間は、かかる遠隔の地に飛ばされてしまったその紳士とは違って陽性な性格ではあるが、

 それでも、はしゃぎすぎとか、陽性に、過ぎるところがあるし、・・・・・論文に教授の名前を入れなかった、点にも、表れている様に、・・・・・上下関係が特に厳しい東大の中で、その上下関係に気を使っているとは、見えないところがあって、

 一つの独立したお城として、機能をしている講座の中では、お殿様である、教授の気に入らないところは、十分にあったと思う。

::::::::ところで、話はそれるが、この1967年にマスターコースで、学んでいた学生は、眉目秀麗で、たぶん、父親、または、叔父に、日銀総裁(プラス、経済同友会幹事)が、いた・・・・・そういう家柄のおぼっちゃまだった。東大に残って教授となるつもりだったら、親の代で、すでに、エスタブリッシュメントである必要がある・・・・・と、私は、考える。::::::::

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副題2、『私はその講座では、みそっかすであり、お呼びでない人でもあるのにもかかわらず、学問的懇談の際に、相当に突っ込んだ意見を述べる様になった。つまり、選択肢が、Aと、Bと、二つある場合、目先の懇談会では、教授を怒らせる可能性があっても、長い目で見ると、真実に教授の得になる方を選ぶべきだと、進言したりする。

 実は、38歳も年の差があっても、私は、まったく気後れせずに、自分の考えを述べた。それほどに、職務には、・・・・真実に・・・・忠実な人間なのだった。やがて教授は、私を面白い人間だと、お考えになる様になって、一種の友達扱いの会話も始まった。

 教授は若い時に、日本財団の、トップである、笹川良一氏と、台湾で、何かの研究で、ご一緒だったそうだった。ちょっと恥ずかしそうに、「と、いうわけで、友達なんだよ。ただ、彼は、右翼だよ。それとボートレース(賭け事)で、儲けている。そういう存在だ・・・・・」と、説明をなさった。

ここで、右翼と左翼についての私の認識を語る副題4へ、続く。

 実は、私は、すでに、1965年に、ベーカーさんというCIAスパイに・・・・・頭の良いことを見つけられてしまって、ICUキャンパス内で、後ろから、首を絞められて、殺されかかっている。したがって、1967年のこの東大教授との会話も盗聴をされていた・・・・・と、いうことが、後で、確認をされるのだった。

 というのも、この1967年の11年後の、1978年に、私は北久里浜の、東の丘の上で、一戸建ての家を建てて、小学生を二人育てていたのだが、自宅の南側、100mのところに住んでいる、益山重夫・智恵子夫妻が計画した、大、大、大・実質的・・・・・詐欺事件に巻き込まれることとなる。横須賀市の水道山1200坪が、ただで、地積変更届の仕組みを利用して、益山夫妻に、手渡った事件について、私が二人の弁護士さんの指導の下に、たった一人で、戦って悪の全貌を明らかにしたことがあった。すると、財務局や、法務局に、自分たちのあくが伝わってしまったことで、追い詰められた益山智恵子さんが、私を車で、引き殺そうとしたのだった。しかし、何でも、直感的にわかる私は、横っ飛びに逃げて助かった。それが、1978年10月13日のことで、その夜智恵子夫人の夫、重夫氏は、急死した。

 人を呪わば穴二つで、自分が不幸になることが、益山夫妻の、事案で、これほど、明瞭になったことはなかった。1945年の敗戦時、海軍のエリートだった、重夫氏は、ヒ素などを、自殺用に準備していて、それを33年後に使ったとも想像ができるし、ヒ素を使ったのではなくて、脳溢血などの急病で死んだのかもしれない。

 で、ここにきて、益山重夫の、親友だという瀬島龍三が表舞台に躍り出てきた。瀬島龍三は、旧大日本帝国陸軍参謀であり、益山重夫は、旧大日本帝国海軍参謀であり、陸軍中野学校で、友情をはぐくんだと、推察している。瀬島龍三は、私が、東大勤務時代の、教授の縁で、笹川良一と、結び付くことを恐れた。で、私と大学同期卒だが、最も華やかな仕事(日本サザビーズの社長だった)をしていた塩見和子さんを、笹川良一の、財産、古楽器の、演奏家への貸し出しの仕事へ転職をさせたのだった。

 これが、1978年のことだったが、この章は、あさどら【らんまん】について書き始めた章なので、1967年に,まず、もどろう。

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副題3、『教授との雑談の際に、教授はこうおっしゃった。「あんたは、知っているかなあ。東大生、一人を卒業させるためには、一人当たり、4000万円の国家予算が、使われているんだよ」と。

 私はきょとんとしてしまった。だって、試薬にしろ、実験道具にしろ、東大生一人が、一年間で、一千万円の予算を・・・食いつぶす・・・とは考えられなかったからだ。

 困惑している、私の顔を楽しそうにご覧になりながら、「人件費ですよ。今(というのは、1967年当時)の東大には、9000人の職員がいる。その人件費です」と、おっしゃった。

 そういえば、私の親せきが東大教授になりたがっていた。で、内部の人のご招待として、油壷の、東大の、水族館に、案内してもらったことがある。

 その時から、すでに、50年は経っている。もう、民間に払い下げになっているかしら? 京急油壷、マリンパーク(今は閉鎖?)って、元東大の水族館でしたか? などと思うが、ウィキペディアは立っていないので、わからない。

 ともかく、1967年に戻ろう、東大総長から、学部事務室に勤務している事務担当者まで、すべて、国家公務員だから、何等級何号捧と、階級がある。それが、1967年には、平均年収が300万円だったと、仮定すると、学生一人当たり、人件費だけで、900万円になる。で、四年間にすると、3600万円となる。おー、おー、だいたいだが、数値があっている。

 ところで、23-7-31日の朝ドラを見た感想として、「別に田辺教授の私物ではないのに、威張るなんて、おかしい」という意見があった。

 だけど、そういう施設と蔵書を管理し、運営するのは、教授で、それなりの権威を与えられているのだから、やはり、教授は、尊敬すべきなのだ。それで、あの回を見たのちに、やっと、このドラマに、リアリティが出てきたと、思った。

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副題4、『1967年とは、安田講堂放水事件の、二年は前であり、したがって、新左翼による大学紛争が、まだ、激しい勢いを見せているころだった。ただ、東大勤務者、9000人は、ほとんどあの事件とは無関係であり、粛々と、自分の持ち場で働いていた。

 私は安保闘争、大学紛争、三里塚闘争などはすべて、背後にCIAがいて、真実まじめな若者を狩り出す装置だったとみている。

 秋山祐徳太子の【ブリキ男】(晶文社)を読むと、ああいう時代を生き抜いて現代まで、マスコミに登場して生きている、お調子者が、どういう風にふりーせっくすを楽しんでいたかが書いてある。

 私は、その種の過激な運動とは、一切無縁なのだけれど、目の前、3mのところで、「僕は三鷹警察署の所長と親しいので」と、発言をした金髪碧眼の、アメリカ人大学生(イエール大学)の発言に目を丸くしてしまったのだった。

 それが、CIAに目をつけられた発端だったなんて、夢にも考えなかったのだ。しかし、保美死刑囚のやったとされる周南市の、五人惨殺事件をはじめとする、各種の謀略事件を追跡しているうちに、真実が、急にわかってきたのだった。

 ともかく、まだ、評価が低かった、笹川良一と、「僕は友達なんですよ」と、打ち明けて、下さった教授は、非常に深く、私を、信頼をしてくださっていたと、いうことがわかる。

 だけど、私がリラックスをして、教授に対して、ため口をきいたり、打ち解けすぎた態度をとることはなかった。神経はいつも張りつめていた。そういう職場だった。それが、日本一、有名な学問の場、東大という組織の実態だった。とても、古い道徳観が、支配している世界だったのだ。牧野富太郎博士が働いてい1880年代以降とは、1967ねんより、さらに、古い時代だった。そういう明治時代に、その講座が、どれほど、上下関係が、厳しかったかは、推察するに余りある。だから、朝ドラが、今まで、絵空事に見えていたのだった。

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副題5、『我慢をしきれなくなって、とうとう、wikipedia を開いた。結果、富太郎博士は、結構ずるかったという結論に到達した。特に結婚とか、恋愛とかにおいて。だから、論文を、一人だけの著者名にしたのは、確信犯だったと思われる。したがって、東大教授役が悪人一辺倒だとも思わない。しかし、東大教授側が天使だったとも思わない。脚本家は、どういう風にまとめていくのだろう。大変な作業ではある。』

 私が、注目をするとウィキペディアまで、変更になることがあります。

だから、ここで、牧野富太郎氏の、結婚の実態を記しておかないといけません。

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帰郷した1881年明治14年)、富太郎は2歳年下の従妹でかねてから許嫁の猶(旧姓=山本)と祝言を挙げ、牧野猶本家岸屋の若女将となる[8][9][10]

1884年(明治17年)、富太郎は本格的な植物学を志し、22歳の時に再び上京する。そこで東京大学理学部(後の帝国大学理科大学)植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する

 

1887年(明治20年)、育ててくれた祖母、浪子が77歳で死去。

1887年(明治20年)12月、一目惚れした小澤壽衛(14歳)と下谷区根岸の御隠殿(輪王寺宮門跡の別邸)跡の離れ家で一緒に暮らしはじめ、翌年(明治21年)10月、第一子園子(1888年 - 1893年)が生まれる[11]

この時期、富太郎は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、その研究費は亡き祖母浪子に代わって猶が工面し、富太郎の求めるままに東京に送金したため、実家岸屋の経営は瞬くうちに傾いていった[5]

1891年(明治24年)、実家の岸屋がついに破綻し、家財を精算するために帰郷する。このとき当主の富太郎は、猶と番頭の井上和之助を結婚させて店の後始末を託す[12]

  • 元配偶者・[32][33]
    • 最初の妻。富太郎の従妹で、3歳年下にあたる。祖母の浪子が富太郎に妻合わせたと考えられる。

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 これは、男性が読むと、別に!と、いうことになるかもしれません。しかし、女性が読むと、ひどいと、いう話です。

 現在も一夫多妻制度は、生きていると、いう書物があり、それは、男性側が、糟糠の妻を離婚して、若い女性と再婚をすると、いう形で、時間はずれるが、男性が、一夫多妻制度を、

 

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