銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

未だ実際には生きている井上ひさしは13本ものコメントをよこして、私を精神病院へ入れたがっている。理由は、時枝ひろ子さんとの関係を書かれてしまったからだ

2021-02-03 00:07:49 | 政治

 今は、3日の、夜九時半です。以下の文章の推敲と、加筆を始めます。今、6100字ですが、いくらになるでしょうか? 4日の午前三時では、15000時になっています。4日の夜には、最終章を書き足すつもりです。そこで、二万字を超えるでしょう。途中で、加筆したところには、アンダーラインを敷いておきます。最後から、加筆したところには、それを敷きません。また、特に重要だと、思われる加筆部分には、色を付けます。この章の総タイトルですが、分量として、ガレリアグラフィカが、最も多くなりましたので、そちらを、主役といたします。シロタさんについては、また、別の機会に、語ります。

副題0、『本章を書き始めるにあたっての、お断り』

 これは、全くもって、最近、書いているシリーズの続きです。しかし、前報の最後に登場する、北久里浜の、40年前は上滝さん一家が、住んでいた家で、モーツァルトのオペラフィガロの結婚から、【ケルビーノのアリア】を歌っていた中島加奈子さんの続きを書くよりも、本日(21-2-2)のテレビ番組から、思い起こすことを語りましょう。しかし、趣旨というか概念としては、続きにあたるものとなります。別に問題から離れたわけではないのです。

 なお、本日は、ツィッター方式で、少し書けただけで、それを、総タイトルとし、次に書けた分については、また、それを総タイトルとし、という具合で、総タイトルをどんどん変更いたします。それは、まず、お断りをさせてくださいませ。

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副題1、『銀座の【小諸そば】に、20年ぐらい前に、入った事があるが、味が変わったのかなあ?』

 新聞のラテ欄を見ると、・・・・【マツコの知らない世界】立ち食いソバの何とか…‥とありました。そのタイトルに惹かれて、3年ぶりぐらいに見てみたいと、思いました。で、録画をしました。

 すると立ち食いソバのマニアが出てきて、彼女が三つの、大きな、立ち食いソバチェーンを、推奨したのですが、一番目に出てきた、【小諸そば】と、【富士そば】というのは、知っています。【ゆで太郎】と、いうのは知りませんでした。

 ところで、彼女に言わせると、「小諸そばは、社長が不動産会社も経営している人で、したがって、立地条件がいい」と、いう事です。主に角地を占めているといっていました。私の知っている小諸そば・銀座7丁目店は、まさしく、角地に立っていました。

 それは、あづま通りという、中央通りから、東に向かう一本目の通りにあり、現在では、GINZA6を、正面に見る位置にありますから、好立地と言えるでしょう。しかし、私が、その件で、この一文を始めるのは、実は、そこのすぐ近所にシロタ画廊と、いう大きな画廊があるからです。

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副題2、『最近の私は、ギャルリーユマニテ、と、保坂涼子さんについて長い文章を書いているが、シロタ画廊を忘れているわけではない』

 最近の私は、ガレリアグラフィカと、ギャルリーユマニテという画廊ばかり取り上げています。ギャルリーユマニテは、京橋の有名画廊、ギャラリー山口のオーナーみつ子さんが、他殺であるにもかかわらず、自殺と喧伝をされている話に関連して、何度も出てくる画廊です。山口みつ子さんは、秋山祐徳太子と、野見山暁次さんの行動を詳細に書いた、件で、他殺は、確実なことになっていますが・・・・・

 それもまた、井上ひさしたち、鎌倉エージェント(=CIAの一味)が、なしたことですから、常に、私は、頭の中に、まだ、生きている井上ひさしを置いて、文章を書いているということとなります。最近、彼が、立て続けに、9本(それは、この時点では、13本へと増えているが)を送ってきていますが、時枝裕子さんについて、触れ始めたから、焦りぬいていると、見ています。で、それを念頭に置きながら、ギャルリーユマニテと、そこで、2016年から、2017年にかけて、三連続、個展を開いた保坂航子(本名涼子)に、触れてきたわけです。私の頭の中には、統合は、しっかりとできていますよ。

 いつも、統合失調症だと、いって、攻撃をしてくるみたいですが、東大に、勤務していた時に、上司の、東大教授から、「あんたは、もし、結婚による退職をしなければ、将来は、必ず、東大教授になれるよ。それはね。あんたには、珍しく、統合する能力があるからだ。現在(というのは、1960年代の話だが)の東大生は、入学試験が難しすぎるので、分析をする能力は高いが、統合する能力は低い」と、言ってくださったほどで、この複雑なミステリーを、被害者の、私を、一方の軸として、反対に、加害者側の、鎌倉エージェントを、もう一方の軸として、いささかも揺らぐことなく、分析を続けているのです。

 ところで、その同じ通りのさらに、新橋よりで、シロタ画廊とは、反対側に、ギャラリー【せいほう】という彫刻専門の画廊があります。その画廊は、毎年、お正月には、新制作協会の、彫刻部の、受賞者展を行います。その案内状が来ているので、もしかすると、保坂さんは、すでに、会員になっていますか? と、思って、ぎょっとしたのですが、今、ネットで、調べたら、保坂さんは、まだ、会員でも、会友(新制作の場合は、特別に協友というが)でもありませんでした。

 ついでに、国画会と、モダンアートの、会員名簿を点検しました。いろいろ感慨が深かったのです。特に私が調べたいと、思ったころには、このサイトが、私のパソコンでは、読めなかったから、それが、今読めるのも、意議深いです。が、ここでは、各団体展についての、すべての思いについては、言及をしません。ただ、昔、渡辺幸子さんとの、確執があったころ(20年は前の話ですが)は、渡辺幸子さんが、新制作の会員にすでに、なったか、どうかを調べたいと、思ったのに、サイトが、見つかりませんでした。

 ご近所の人々が、見当はずれの事をやってくるのは、それらの人には、私のblogが、読めないと、いう形になっているのだと、推察しています。まあ、それも、含めて、私には多大な損失があるのですが、その損失を、些少でも、補填をしたくて、防衛上、このブログを書いていて、敵方の命令で、動く人は、その人が、何を知っていようが、知っていまいが、すべて実名で、その行為を、書くこととしています。それは、ずっと、以前から、理由を語ってきているので、私に対して、攻撃用、動きはしないでほしいですね。

 しかし、鎌倉エージェントは、ご近所人間、および、同窓会関係者、また、銀座の画廊街で、出会う人々、そのすべてを使役して、私を攻撃してきます。それで、その裏側にある真実とその経緯を、私は、防衛上、詳細に書くのですが、それを、やられると弱り切って、

 今度は、「あいつを精神病院に、収容して、そこで、薬で、廃人にしてしまおう」と、次の案を立てて、それを、2007年ごろから、繰り返し使ってきています。今、井上ひさしが、よこしている連続9本(一日置くと、13本に増えていた)のコメントは、すべて、私の主人とか、子供に、私を「精神病院へ入れろ」と、いう命令ですので、本当にあくどいと思います。

 で、私は、ますます、精神的余裕を持っているところです。こんなことを神様が許すはずはないと。そう信ずる心が、いつも深く、自分を満たしていますので・・・・・

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副題3、『井上ひさしと、二人羽織というほどに、協力して、表側(リアルな世界で)の交渉を行うのが、伊藤玄二郎だが、彼は、銀座の有名画廊、ガレリアグラフィカのオーナー栗田玲子さんを、あれこれと、指導をして、使役をしている。それは、ある日、夜の10時半に、鎌倉駅のトイレで、栗田玲子さんと出会って、しかも、同時刻、男性用トイレには、伊藤玄二郎がいて、栗田玲子さんに、あれこれ、命令をしていることが、私には、はっきりとわかった。

 ので、二人の、緊密な連携が、目にも見えてきたのだった。こういう点を、私は、神様に見守られていると、言う一つの証拠として、考えている。尚、その当時のトイレは、壁が薄かった。今は、改築して男子トイレと、女子トイレの間には、音が、聞こえるという壁の薄さはない。

かつ、CIALという商業施設を拡張したので、トイレの面積は狭まり、

かつ、女子トイレと、男子トイレの面積が劇的に小さくなり、場所も、南の、女子トイレから、男子トイレが入り、お互いが、位置を反転している。これも、ほかに何件も発見されている、鎌倉エージェントが、私のブログの価値を下げようとして、行っている小さな変化である。彼らは、私が、ブログで、取り上げた、商品、場所、などを、次から次へと、無きモノにして行っている。その一環として、このトイレの改修があったと、判断をしている。と、この青いフォントの、二日目に入れた、挿入から元へ戻り、鎌倉の駅トイレにいた、栗田玲子さんに戻ろう。

 伊藤玄二郎は、なかなか、個室から出てこない、彼女が、やっと出てきたが、すぐ、廊下にまでは、出てこない、のを、まず、いぶかしく思ったはずだ。

 最初は、単純に待たせすぎるなあと、思っただけであろうが、洗面所で、話し合っている相手が、内容から推察して、雨宮舜(=本名川崎千恵子)であることを知ると、走って逃げた。卑怯で、弱い男だった。

 私は、その時点で、大いなる自信を得たのだった。だって、推理してみたら、二人が何のために、鎌倉駅のトイレにいたかが、簡単にわかるからだ。栗田玲子さんは、葉山の住民なので、夜の10時半に、鎌倉駅に降りては、いけない、主婦なのだ。それなのに、鎌倉駅にいる。ということは、銀座で、始めた、対、私へのいじめ策が、まだ、終わっていなかったので、鎌倉へ降りて、鎌倉春秋社内で、続きを話しましょうと、いいことになったはずで、それが、井上ひさしが、死んだことにした、週に行われて、攻撃だった。

 彼女は、その週に、手持ち作家の、山本容子、私を苛め抜いたのだが、その五年前から、渡辺幸子さんを使って、酒井忠康先生と、一緒になって、私をいじめぬいたのだった。』この赤字のところが、井上ひさしが、自分を死んだことにした、もっとも、大きな、原因です。どこかに詳細に書いていますが、本日も少し、短縮して、繰り返しましょう。

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副題4,『ここで、栗田玲子さんの、お手持ち作家となった、渡辺幸子さんとの、私との間柄について、数パーセントだけを、以前より詳しく語ろう。2021-2-4だから、語ることのできる部分を加えて・・・・・こうして、私は、今まで、他人には、理解しがたいと、思われていた文章の、行間を、今、埋めていっているところだ』

 日本人の特質の一つに、甘えという問題があります。それですが、私は、ほとんど、すべての人から甘えられます。最近のこのブログの主人公であって、かつ、シロタ画廊に、この章で、言及することとなった、大いなるキーパーソン・大原光孝さんですが、彼も甘えてくる人間です。彼が、旧、鎌倉近代美術館の、二階にあったカフェ内で、「(妻である)恵美子が、もう、川崎さんとは、付き合うなと、いうんですよ」などとほざいたのは、典型的な甘えでした。

 まあ、私の方が、10歳程度年上だと、いっても、そのハートの容量には、限りがあるので、100%の他人であって、恋人でも、いとこでもない彼に、甘えられるのは、心外でした。この大原光孝さんが、創形美術学校の先輩である、柄沢斉に、木口版画を習っているそうです。その柄沢斉の専属画廊が、シロタ画廊です。で、本日の総タイトルに、シロタ画廊の名前が出てくるわけです。

 私は、海外へ、行く自由を許さない家族から、離れて、逗子で、一人暮らしをした時期があります。そして、毎年秋に、三か月、ニューヨークへ行き、版画の修行をしてきました。その時期、一年の内、9か月は、日本にいるわけなので、夜、固定電話を使って、大勢の人と、交流をしたと、以前、語っていると、思います。

 その時は、雪ノ下のご近所様と、電話で、話したわけではなくて、遠くに住んでいて、普段は、リアルな交流がない、昔のお友達と話したわけです。その中で、条件が、とてもよく似ていた渡辺幸子さんが、実は甘えてきていたのです。主に、新制作内部で、感じている彼女の苦しみと、

 <<<<そこに、入選するためには、その画塾を離れられない>>>>と彼女の方が感じている田沢茂先生の、いわゆる、いじりに対する悩みでした。田沢先生という人は、渡辺豊重さんと同じく、美大を出ていません。それでも、画壇で、新制作協会の会員と言ったら、一定の地位のある人です。そこまで、出世した陰には、世智にたけたテクニックがあったからです。特に、女性を支配する能力があったからでした。

 田沢先生の画塾に属する女性たちは、みんな背が高く、かつ、富裕な専業主婦だったので、アマゾネス軍団と、呼ばれて、神奈川県内、特に神奈川女流展内では、有名な存在でした。その中で、田沢先生は、桜井陽子さんについては、手も口も出さなかったと、思います。その理由は、桜井陽子さんご本人を知っている人なら、すべて、理解できると思いますが、超簡単に言うと、一種のアイスウーマンだからです。

 桜井陽子さんは、超が付く美人ですが、渡辺幸子さんも、元、JALのスチュワーデスですから、美人です。しかし、桜井陽子さんは、手を付けにくい存在なのだけれど、幸子さんの方は、いじりやすい存在なのです。田沢先生って、見事に、その人間性を見抜く人です。

 私も、鎌倉の画廊内で、田沢先生に、「自分の画塾に入らないか?」と、誘われました。無論、入りませんでした。私は、事前にいろいろなことを田沢先生に関して、知っていて、もしあそこに入ったら、渡辺幸子さん以上に、いじくりまわされる(=全体を支配するために、作るターゲットとなっていじめ回される)ので、すぐ、やめると、思います。それが、事前にわかっていたから、直接ご本人から、誘われても、入りません。で、彼女が「田沢先生の指導が、朝令暮改で、とても、困る」と言ったら、「やめなさい。そこを」と、はっきり言いました。でも、彼女は、やめませんでした。

 なお、今、急に思い出したのですが、渡辺幸子さんも、桜井陽子さんについて、は、気を付けていて、決して、自分が嫉妬しているとか、嫌いだとか、は、言いませんでした。ただ、「桜井さんて、坊やの結婚式で、泣いたというのよ。変ねえ」と、言ったときに幸子さんの本心に触れたと、思いましたね。やはり、陽子さんを嫌っているのです。

 ここですが、田沢先生って、暴力を、手では振るいません。ただ、アマゾネス軍団の中で、ひたすら、渡辺幸子さんを、いじくりまわしたのは、現在の大河ドラマ【麒麟が来る】の中の、信長と、光秀の関係と同じです。渡辺幸子さんは、光秀の立場にあたっていました。

 もう一つ、彼女が悩んでいて、私に思いを告げた問題があって、それが、新制作の会員に、なれない、ことでした。私と彼女の間の、確執は、その、問題を、電話で、彼女の方が、愚痴ってきたことから、はじまっています。彼女としては、美大卒ではないので、実力があるのに会員になれないのだと、いうことは、私も、共通して持っている悩みだと、推察していたのでした。同じくICUを卒業している私が、彼女と、同じ様に、大きな公募団体展の、一つである、国画会の展覧会=国展に出品をしているので、そこで、会員になれないという同じ種類の悩みを持っている・・・・と、彼女は、信じて、そういう愚痴を電話で、いってきていたのでした。

 むろん、彼女の想像通り、1991年から、1996年までは、そういう問題で、悩んでいたことは、事実です。ところが、パリや、ニューヨークで修業をして帰国をした、2000年ごろには、私は、すでに、上野の公募団体展(国展と女流展)への出品をやめるつもりになっていて、彼女の悩みへの同調を示しませんでした。

 実は、文章を書くことに興味が移っていたのです。文章を書くということは、考えた結果を、書き落とすということです。私は、考えるということが、最高に好きなことだったのです。しかし、それは、渡辺幸子さんには、理解ができないことでした。私は、2001年ごろには、すでに、他人に読んでもらうための文章を書いていました。A4のコピー用紙、三枚程度に、小さな字で、手書きをして、3600文字ぐらいのエッセーを仕上げて、真夜中に、コンビニのコピー機で、コピーをして、40人ぐらいの知人に送っていました。それが、メルマガの始まりです。

 渡辺幸子さんにも送っていたのですが、彼女からは、「あなた、なんで、こんなことをするの? 大金をかけて、無駄遣いしているわ」と、言われました。彼女は、ICU卒業生(ただし、本当は、中途退学して、JALのスチュワーデスになったのだけれど、石塚雅彦さん等の、CIAエージェントの力によって、卒業をしたこととなっている)の、ある種の典型で、成果主義の人なのです。

 私が、エッセーを、郵便で、送っているのは、内心から、あふれる思いを、聞いてもらいたいから、やっていることで、お金や、名誉を求めてはいない・・・・・ということを・・・・・彼女は、最後まで、理解しませんでした。世の中の人で、頭脳を、何に向けて使うかと、言う点で、人によって、相当に違いがあると、言うことは渡辺幸子さんとのお付き合いから、教わった概念です。

 今となっては、後の祭りですが、もし、その時、「私はね。もう国画には出さないつもりだから、そういう問題を、私にぶつけてもダメよ」と、言えば、後日、起きてくる、大きな誤解を、彼女はしなかったと、思います。しかし、ここですが、やめるということは、新制作と関係があり、国画とは、関係のない、渡辺幸子さんにも、まだ、言えないことだったのです。

 ああいう団体って、一種のやくざ組織であり、自分たちへの忠誠を強いるところなので、足抜けは、大変なのです。実際問題、出品をやめてから、15年ぐらいは、私が、国画会に、出品をしていたことを知っている画家たちから、銀座で、いじめられました。で、国画会とは、関係のない人だと、いっても幸子さんにその予定を離すのはご法度だったのです。

 そして、四月が、国展の審査で、2001年当時は、まだ、迷っていたので、そちらにも出せる大きさの、100号Sを、作り上げてはいたのですが、四月より前に行われた望月画廊という、ところで、開いていた、大学同窓会展と、いう素人の集まりに、それを転用したのです。彼女は、事前の電話で、自分は、「あそこはね。自分にとっては、どうでもいいところだから、小さい作品で、鎌倉美術家協会展に、すでに、出品をしている8号を出す」と言っていました。

 私の方は、新鮮で、ほかのどこにも発表をしたことにない作品で、しかも、100号という大きなサイズを出したわけですが、彼女がサイズごときに、過剰に反応して恨んだりするなど、夢にも思わなかったのです。しかし、望月画廊での、展覧会がはじまってみると、彼女に、裏切ったと、誤解をされて、大きく、いじめられてしまったのでした。

 その時ですが、私は、ロビーのソファーの上に置いたバッグ類を、彼女から、手で払い落されたりする、恐ろしいほどの、暴力的ないじめ行為(裏側では、電話で、悪口を言いまわしたのもあった)を受けても、一切、反論も、抗議もしませんでした。ただ、彼女の讒言によって、普通の場合は、全員がもらえるはずだった、芳名帳のコピーを、その時から、もらえないこととなったので、

 事務局長さん(五歳年上の男性)に向かって「展覧会が終わってからでいいです。後日、お宅に伺って、芳名帳の、コピーを、自分で、近所のコンビニでとりたい」と、言っても、「迷惑だ」と、言われたので、その会を去ったのでした。その事務局長さんの奥様も知っているし、「お宅には上がらないつもりで、伺います」と、言っても、拒否をされました。当時の、私って家族の束縛が、大変強い家の主婦だったので、展覧会の、最終日の土曜日に、外出して、望月画廊を訪問して、夜遅く帰宅するということが、困難だったのです。

 でもね。国展に代わるものとして、大学同窓会展を考えていたので、ICU卒業生ではない、画家仲間にも、案内状を、送っていたので、誰が、来ているかを知りたいのは、当然でした。

 そういうもろもろをわかっていて、それが、できない様にしてきた、渡辺幸子さんと、けんかをしても無駄だと、思っていたので、一切、けんかとは、持って行っていません。事前の電話が大きいですね。

 ただ、黙って、やめただけです。だけど、国展に代わるものとして、これを考えていたので、それをやめなければいけないこととなったのは痛手だったのです。

 そのせいで、ICU同窓会展をやめたのですが、黙って去る方が、けんかを買って出るよりも、激しい、抗議を示すらしいので、彼女は、私の事をガレリアグラフィカの、栗田玲子さんに、あれこれ、讒言を言ったらしくて、

 なんと、私は、栗田玲子さんから、鎌倉駅のトイレで、「あなたって、怖い人だと、渡辺幸子さんが言っていたわよ」と、いわれてしまう仕儀になりました。その時に、すでに、渡辺幸子さんは、青木繁大賞展の大賞を受賞していて、栗田玲子さんの画廊で、企画展(ただで、画廊を使える仕組み)を、開いていましたので、二人は、すでに、親しい間柄だったのです。私は珍しく、「経験を積んでいるのだから、当然でしょう」と、口答えをしました。で、それが、気に入らなかったのか。これ以降、栗田玲子さんから、は、莫大ないじめを受けることとなります。ああ、大変な、人生ですね。笑っちゃうほどに、大変な人生です。でもね。損ばかりしているこの身ですが、あるポイントで、神様が、お見方をしてくださっているのは、ひしひしと、感じるのですよ。

 しかし、この時に、走って逃げ去る伊藤玄二郎の姿を見た事、また、鎌倉駅のトイレで、偶然でも、栗田玲子さんと、であったのは、このブログを書くためには、大いなる助けとなりました。現代日本で、隠されてはいるものに、それが、本当の事である、CIAエージェントが支配している政治的仕組みと、裏側にある秘密を解いていくのに、大いなる、補助となりました。

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副題5,『私の鎌倉雪の下にある自宅から、もっとも、近い貸し画廊、YUで、立教大学同窓会展が、開かれた。その中に、鎌倉市内では、もっとも、頻繁にお茶のみをした相手である 山川栄子さんが、含まれていた。山川栄子さんは、子供同士が、友達である人で、彼女は、一時期、私を、信頼しきってくれていて、よく、お茶のみをした。そこで、話したことが、裏から、盗聴によって、私が、口外していると、言うことになったのが大きいと思う。

 それは、近藤実、奇魔々美術館・館長などにも当てはまる、・・・・・私の友人を、私から、引っ剥がしていく、手法の一つであって、多くの事例で、見ることができる。この件は、早川重明、前川佳子さんとも、かかわっていることなのだけれど、そして、上條陽子さんもかかわっているし、・・・・・

 資生堂が、1999年ニューヨーク大学で、大展覧会を催したことにもかかわっているのだけれど、本章では、その詳細には、触れない置く。

 ただ、毎日その前を通る画廊YUで、親しかった時期がとても長い、山川さんが、絵を展示しているのに、何のお知らせもないと、言うことは、手ひどいいじめであって、心が深く傷ついている。しかも、その同窓会展は、二回ぐらい開かれたが、その後、開かれてはいない。それは、とうとう、山川栄子さんが、裏切ってきていることを、このブログで、書いたからだと、推察している。しかし、この件は、本当に書きにくかった。

 ただ、渡辺幸子さんのいじめによって、ICU同窓会展を、やめざるを得なかった、事をさらに、えぐってきている展覧会なので、二重三重に私を苦しめた。で、ここで、深く傷ついているので、しかもそれをブログでは書けないので、政治問題へ入っていく。しかし、政治問題を書く際には、NHKが報道する側面とは、全く違うのですよ」と、言う書き方になるので、政治問題評論家としては、無名の私は、読者の、信用を得るために、ご近所からの、いじめを、書くこととなる。富沢家の、高枝切り事件、大原光孝さんが、主役である、植木鉢の会、白井さんが、主役である、2019年の10月13日の我が家のタブしいを丸裸に、男性連中が、行った件などを書いていく。それは、一般人だから、実名では書くべきではないと、言うのが、井上ひさしと、伊藤玄二郎の、主張だろうが、・・・・・もし、それを、Aさん、Bさん、Cさんなどと、加盟を使って書いたら、激しい攻撃にさらされる。もう、23年も書き続け得ているのだ。攻撃のパターンを読んでいる。したがって、攻撃をしてくる人の実名を書く。その人が、実は、上の命令で』と、明かして、その上の人物の名前をここにコメントとして、引っ付けてくるのだったら、過去の文章を、すべて、その人のコメントを引っ付けて、悪いのは、本当は、伊藤玄次郎だったとか、井上ひさしだったとか、追記することとなるだろう。

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副題6,『ここで、なぜ、井上ひさし(まだ、実際には、生きていますよ)が、コメントで、猛追をしてくる理由の一端を語ろう』

 この文章は、やがて、栗田玲子さんと、宇都宮和代さんのイタリアを、種にした、結びつきに入っていくのだが、

 何らかの讒言が、宇都宮和代さんの、耳に入って、宇都宮さんが、2014年の、クラス会で、手ひどい罠を仕掛けてきたことへつながっていく。あの時の謀略には、総勢7人程度が、加わっていて、リーダーは、一つの山が、宇都宮和代さんで、もう一つの山が、坂本きっこさんだった。

 坂本きっこさんとは、冨山房インターナショナルの社長で、神保町の、冨山房ビル地下一階にある高級な喫茶店、Folioのオーナーでもある。その喫茶店が、NHKの【スイッチインタビュー】の舞台となったりしていて、CIAエージェントが、坂本きっこさんを、間接的に持ち上げる傾向を知った。それは、私が書いていることを、テレビを使って、打ち消していこうとする流れなのだ。

 ところで、坂本きっこさんとは、上流階級の典型例だと、言うマダムなのだけれど、出版社の社長でもあるので、伊藤玄二郎からのアタックには、断れないところがあったのだと、考えている。ただ、伊藤玄二郎が、直接接触したか? それとも、間に高野悦子、岩波ホール社長を挟んだのかはわからないと、言っている。

 そこまでが、今まで、書いてきたことなのだけれど、例のごとく、まだ、60%程度の、真実の開示でしかないのだ。私の周辺に起きることは、あまりにも複雑で、また、あまりにも毒々しいので、とても、一回では書ききれない。しかも、第一回目に、その毒々しい部分を書くわけにもいかない。そんなことをしたら、自分がその毒気に当てられて、死んでしまう。で、徐々に、徐々に、深い真実を語っているところなのだけれど、ここで、その、2014年のとうふや、うかいでの罠に、ときえだひろ子さんが、関与しているのではないかと、言うことを語り始めている。

 坂本きっこさんと、ときえだひろこさんは、同じ、趣味(?)=歌詠み=を通じて、また、お茶大付属高校の同窓会の、サブサークルであって、一年に六回は、顔を合わせる、OPCを通じて、二人は、仲良しなので、連携があったのではないかと、考えている。

 で、この罠だけれど、もちろんのこと、まだ、生きている井上ひさしが案出したもので、伊藤玄二郎を通じて、(または、ときえだひろこさん、には、自分が、いまだ、生きていることを明かして)、直接に、彼女と対面をして、・・・・・依頼をしたとも、考えられる。これは、はっきり言うと、すさまじく不道徳なことなのだ。上級国民の一人であり、明治維新前は、相当な名家の出身であり、東大大学院卒であり、お茶大付属高校同窓会においては、頭脳と発言においては、ぴか一の存在であるときえだひろこさんの存在が、大きくゆがむこととなる。

 井上ひさしにとって、時枝ひろ子さんとは、本当に稀有なほどの、存在だ。めずらしくも、かれの方が、『自分が下手に出ないといけない相手だ』と感じていると、思う。

 しかし、長期にわたって、私の文章の書き方を追及している彼にとっては、私がいったん覚悟を決めたら、揺るがないで、進むと、言うことを知っている。

 したがって、殺すしかないとなって、新コロナウィルスを、(策謀を用いて)飲ませた。それが、2020年12月22日、武蔵小杉の関東労災病院内のカフェドトールでのことだった。その日に底を訪問をしないといけない様に、ハックドラッグ鎌倉支店、処方箋薬局内で、私の処方箋を盗んでおいて、それを、言上げした、私を警官三人で、取り囲んで、クレーマー扱いをしたのだった。

 で、やっとあいつを殺すことができた。ここで、復讐をしてやろうではないかと、言うことで、三日後の、25日に、鎌倉市内中を総動員して、今まで、私が、その真相を書いてきた事案の登場人物を目の前に、現出させた。

 その中で、もっとも、意味深いと考えたのが、川合良一先生が、タイミングを計って、ジャストというちかさで、表れたことだった。私は、むろんのこと、その意味が分かったが、自分は、近々死ぬのだからと考えて、遺産相続用の遺言書を作るなどの、準備に追われたので、ブログで、その件は書かなかった。

 

 ところで、私は発症をしなかった。どうも、新コロナウィルスの病原体を、一緒に飲んだ、熱い、熱い、ミネストローネスープが殺してしまったらしいのだ。それで、かれらは、こまってしまったのだけれど、

 乏しい医療知識を総動員して、「抗体はあるはずだ」とか、「発症を隠しているのに違いない」と、考えて、1月の11日ごろから、特措法を提案させ、そこに、入院を拒否している人間に対しては、強制入院をさせる。拒否する者に対しては、刑罰を書すると、言う条項を盛り込みました。野党が反対をしていますが、いまだに、法案が、通ったと、言うニュースが流れないので、ペンディングにしておいて、

 私を投網にかけるのを待っているのだと、思います。

 しかし、1月4日に発症をする予定だったのに、発症をしていませんので、一口、10CCの、謀略によって飲まされた、ぬるい水に含まれていた、ウィルスは、同時に飲んだ、150CCの極アツのミネストローネスープによって、殺されたのだと、思います。私は、これで、さっきんできるとは、考えていませんでしたよ。

 ただ、飲んでしまった、10ccは、もう仕方がないし、ここで、ウィルスを飲まされたなどと騒いだら、何度も過去に、仕組まれてきていた、周りのお客が全部サクラで、「うわ、この人、おかしい」となって、精神病院へ収容されるので、何も騒がずに、スープを飲んでいたのです。あつかったですよ。でも、全部150ccを、3分以内に飲んだと、思います。

 この時に、ひとまず、何も騒がなくて、あとで、医療相談室に行って、飲まされた可能性があるので、どうしたらいいのでしょうか?と、質問をして、電話番号をもらったと、言う行動様式そのものが、神様の、ご支援があったと、感じるのです。

 ともかく、一口、ぬるい水を飲んだとたんに、死を覚悟したのです。それでも、全く平静な顔付きで、平静な態度で、終始していましたよ。その底知れぬ、楽天主義、それもまた、神様からのご支援だったと、感じています。

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 ここから先、宇都宮和代さん(お茶大、西洋史科卒)と、栗田玲子さん(教育大、西洋史科卒)の二人の関係と、それを書いているがために、起きている、ヤマザキマリのテレビでの、露出過多の関係に入っていきます。しかし、お待ちいただきたく、存じます。

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