『学術会議問題』で良く聞く言葉に、
「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」
と言うものがある。
『総合的俯瞰的な観点』
「日本学術会議の在り方」が検討された報告書の中で記されている言葉であり、言って見れば「日本学術会議の設立目的」であると言っても良いであろう。
使っている者が解釈の範囲を広げ(つまりはどうとでも取れる。後でいくらでも言い訳が出来るように)、答弁をあやふやにするために使用していることもあり、その意味が捉えにくい。
「俯瞰」
辞書を引くと「高い所から見おろすこと。」とある。
リアル迷路で迷った時、高い所に登って会場を一望すれば、自分が今迷路全体のどこにいて、どちらに向かえば良いのかが解る。
密林などで迷った時も、ドローンで高所から一帯を「俯瞰」すれば、自分がどこに居て、どちらへ向かうべきかが解る。
政治が膠着し政策が混迷して、今どこに居るのか、どちらへ向かうべきなのか、その行く末が危ぶまれている時、全体を「俯瞰」して、今どこに居るのか、どちらへ進むべきなのか、それを教えてくれる者が必要となる。
正しい判断をするためには、「今どこにいるのか?」を知ることが、真っ先に必要である。
政策が右や左に偏っていないか?
上流階級や下層階級に偏っていないか?
様々なファクターに対してどこか特定の場所に偏ることなく、政治が今どこに居て、どこに進むべきなのか。
それを提言するのが「日本学術会議」の役割である。
今回の事の発端は、政府が自分達に都合の悪い者を、排除しようとしているのではないか?との疑念だ。
自分が中心から外れている時に、その位置を中心に向かって修正することをせずに、自分の反対側の領域を排除することにより、あたかも自分が中心であるがごとく装う。
疑念どころか、解り過ぎるほどはっきりとしているのだが、その行為の行く末に待っているものは「独裁国家」である。
それがいかに危険なものであるかは、尊い数多の人命の犠牲の上に、人類がこの100年余りの間に学んで来たはずではなかったのか。
今、問題にして問うべきは、「選任から外した6人は、自分達に都合の悪い者を外したのではないのか?」という疑問をはっきりさせることだ。
その一点のみに集中して、問い詰めなければならない。
「解釈が変わったのか。」
そんなことは、今、どーでもいい。
「丁寧に説明すべきだ。」
「推薦どおりに任命すべき義務」の有無
「法解釈を示す文書」の有無
そんなことは、今、どーでもいい。
「学問の自由」「表現の自由」「思想信条の自由」・・・今回の問題から、そこに行き付くには、何段階かの論理の積み重ねが必要であり、問題の対象を大きくすることでそれは焦点を失い、重要性が希薄になり、人々に訴える力も失われ、答弁があやふやになることを許すばかりである。
今は、そんな主張をしている時ではない。
「今回、候補6人を外したのは『自分達の政権に批判的であったから外した。』と言う、それなりの根拠のある疑いがかかっている。重大な疑惑であるので、それを決定した者の責任として全力を挙げて釈明して欲しい。出来ないのであれば、6名を再任命して、例え本意ではなかったとしても国民からそのように受け止められるような行為をしてしまったことに対する反省の意を表明しなくてはならない。それがなされないのであれば、日本政府は独裁国家へと進むことを厭わずとの意思表示であると見做す。」
今回の不祥事を、自分たちの主義主張のために利用しようとするのではなく、「何が問題なのか?」「今、阻止しなければ、死守しなければならないことは何なのか?」それを忘れずに、今はそこを突かなければならない。
自分達の反論や主張は、ちゃんと今回の問題の本質に向かってなされているのか。
ただ、自分の影響の及ぶ辺境の一部に対して、なされているに過ぎないのか。
「俯瞰的な観点」が、今、問われている。
2020/10/14 追記
こちら↓の記事の『読み』の方が、当たっているように思われる。
「菅首相が学術会議人事で大ナタをふるった本当の理由」
2020/10/15 追記
冒頭無料部分しか読んでいないが、「確かに」と思わせる。
橋下徹「これが学術会議『任命拒否』問題の本質だ」
要は、誰がそれを振るうのか?であろう。
橋本氏であれば、大歓迎だ。
今までの自民党であれば、無条件で反対していた。
菅首相については「今までとは、ちょっと違うな。」と、感じている。今後に注目したい。
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