荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

帰省しました。

2019年06月05日 | 散文

 

曇り空の東京です。東京湾アクアラインを見て、

 

新日鐵君津を見て、

 

江の島を見て、

 

瀬戸の島々を眺めながら、

 

高度を下げていって、

 

 

 

帰省しました。

 

薄曇り、夕方の瀬戸です。

 

 

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「桜井の史跡と伝説」-49(最終回)/今治藩主の墓

2019年06月05日 | 散文

生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。

とうとう最終回です。


49.今治藩主の墓
墓所は、旧国分寺村字寺山にあり、藤堂高虎が在任9年にして、伊賀、伊勢の領主として転封し、その後を義子の高吉が二万石を以って封ぜられたが、在任28年目に伊賀国名張城二万石に転封され、寛永12年9月4日、久松定房が三万五千石をもって今治に封ぜられた。
その初代定房、三代定陳、四代定基の三基の墓が67基の灯籠に守られて老松の中にある。
これは、江戸末期の藩主の代表的墓所で墓碑はいずれも巨大な宝筐印塔で、高さ3.6mもある。
正面中央の定房は、松山藩主久松定之の弟で、三万石で入部し、後に江戸城の城代家老となり、一万石を加増された。
定房の父定勝は徳川家康の同母弟、妹は老中酒井忠行の側室である。
治世42年、藩政の基礎を固め、73才で没した。
三代定陳は、父定時の命で、弟定道に五千石を与えて分家させ、以降今治藩の所領は三万五千石であった。
定陳は、甘藷を植え、新田を開発するなど、藩政を改革し、中興の実をあげた英主といわれるが、惜しくも36才で没した。
四代定基は、治世31年で、その間に、宝永4年(1707)の地震、同7年(1710)と享保7年(1722)の洪水、同5年(1720)の室屋町の大火など多難の中に善政に努めた。
尚、この他の藩主の墓は、東京深川の霊厳寺にある。

本件は既存の報告を参照願います。

なお、上記「深川の霊厳寺」は現自宅の近くなのでよく知っています。
こちらの報告でどうぞ。


以上で「桜井の史跡と伝説」を完了します。
長らくお付き合い頂きましてありがとうございました。

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