荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

松山城/天守

2019年06月20日 | 散文

 

どこの城も同じ構造の急な階段を上がります。広い連立式天守なので、各所にこのような階段があります。平日なのに、外国人観光客も含めて賑わっています。順番待ちです。

 

廊下から庭を見ます。葵紋と細工格子が陽に透けて綺麗です。

 

時々窓を覗きながら移動します。

 

天守閣です。平成18年春にしゃちほこが81年振りに新しくなり、その際愛称を公募しました。「あ」のしゃちほこを「天丸」千葉県の石井さん、「うん」のしゃちほこを「まつ姫」東京、神奈川、千葉、愛媛、福岡の8人と決定したそうです。 あれはどちら?

 

あの門は? ・・・分かりません。そもそも方向音痴の私には、今何処に居るかが分かりません。

 

あれも何処だか不明ですが、お城らしい景色です。やって来た道ですが、角度が変わるともう分かりません。

 

これは分かります。本丸広場と太鼓櫓と、手前に入場券売り場です。

 

ここでふと、瓦に「民若」との文字があるのに気付きました。いや、「若民」かな? 生産者の屋号だと思います。

 

瓦の先端には釘穴があります。ずり落ちないようあそこで全体を固定しています。

 

パンフレットを紹介します。 「天守とは戦闘のときこそ、その存在価値がある。防衛の要として一大事のときだけ籠城。日ごろは城主やその側近らが足を踏み入れることもなく、生活の場ではないのでトイレも炊事場もない。床は板張りで天井板もないのが通例だ。

ところが松山城は一重、二重、三重とも天井板があり、畳の敷ける構造になっている。さらには床の間もしつらえられ、襖を入れるための敷居まである。これはなにを意味するのか。当時の城主、12代松平勝善はここを何の用途にしようとしたのか、定かではない。」

 

天守閣からの展望です。松山市の中心部、官庁街と本丸広場です。

 

中央のキャンパスは、数ヶ月前に実験室で覚醒剤を製造していた松山大学です。

 

繁華街と民家の向こうには瀬戸内海です。領主か上級武士にならないと見られない景色だったのですね。

 

帰り際に見上げる艮門東続櫓です。

 

帰りは、藩士が毎日登下城した坂道を下ります。けっこうきついです。

 

 こうして友人は50超年振りに松山城に登城して下城しました。彼も私も、もう来ることはないと思います。年を取るって事は可能性が縮小していって、なんだか切ないなあ・・・

 

コメント (6)
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松山城/坂道を行く。

2019年06月20日 | 散文

 

藩士が毎日登城した坂道を上がります。松山城は21棟の重要文化財を持つ城です。

 

中ノ門跡から見えるのは多門櫓でしょうか?

 

筒井門西続櫓を見上げながら行きます。

 

戸無門です。

 

隠門です。

 

ちょっと振り返ります。

 

太鼓門続櫓かな、などと言いながら上がります。

 

本丸広場にやって来ました。

 

折角だから天守閣に上がりましょう。もう来ることは無いので。

 

本丸を見上げます。

 

パンフレットを読みます。 「松山城は海抜132m勝山山頂に本丸、中腹に二の丸、山麓に三の丸(堀之内)を置く連郭式平山城で、敵の侵入を防ぐため、二の丸を取り囲むように山麓から本丸にかけて、全国的にも珍しい「登り石垣」が配されている。」

 

「松山城の創設者は加藤嘉明である。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった嘉明は、同7年に伊予正木(愛媛県松前町)から道後平野の中央にある勝山に城郭を移す工事に着手した。翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされた。」

 

「当時の天守閣は五重で偉観を誇ったと伝えられる。しかし嘉明は松山にあること25年、完成直前の寛永4年(1627)に会津に転封される。そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、二の丸の建造を完成したが、寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶する。」

 

 

「その後、寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名藩城主松平定行が伊予松山15万石に封じられた。寛永16年(1639)定行は、3年の歳月をかけ、築城当時五重であった天守閣を三重に改築する。天守の安全確保とも、江戸幕府に配慮したためともいわれている。」

 

「ところが、9代松平定国(8代将軍徳川吉宗の孫)の天明4年(1784)元旦、落雷で天守が焼失した。焼失後37年を経た文政3年(1820)、父定国の遺志を継いだ11代定通は、復興工事に着手するが、着工16年にして、定通の逝去と作業場の火災で頓挫する。これを引き継いだ12代藩主松平勝善は、弘化4年(1847)城郭復興に着手、ようやく安政元年(1854)悲願の天守が復興した。」

 

「これが現在の天守閣で、姫路城と並ぶ典型的な連立式天守を持ち、慶長期の様式を引き継ぐ、わが国最後の完全な城郭建築といわれる。」

 

さて、天守へ行きます。

 

 

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松山城/リフトで、

2019年06月20日 | 散文

 

帰省したら一度だけ会う高校時代の同級生が一人だけいます。

久し振りに彼の車で松山城へ行きます。彼は中学校以来だとか。初夏の城山をリフトで上がります。

 

支柱にこんな文章がありました。「ことばの落としもの」?

 

これですね。・・・そうだね。

 

「かまん」は「いいんだよ」の方言です。

 

「かしとうみ」は「貸してごらん」

 

ロープウェイがすれ違います。

 

こんな事が書かれています。「退職し帰りました。松山に還暦過ぎてマドンナと」

 

己がその立場になって初めて、親の苦労を理解しましたね。

 

松山は正岡子規に代表される言葉の町です。

 

さて、天守閣が見えてきました。

 

 

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