生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
45.国府城(国分山城・唐子山)
唐の子供の頭に似ているということでつけられた唐子山の頂上に唐子山城と呼ぶ古城があったことは有名ですが、その麗、唐子浜に面した所、「お屋敷」と呼ぶ広々とした台地、それが伊予最古の平山城、即ち国府城跡であります。
この平山城がいつ頃、誰の手によって造られたかは、さだかではありません。
南北朝時代に四国官軍の請により、官軍の総領として脇屋義助が一度、唐子山に陣を敷きましたが、病気の為、国分寺で療養中病死した。
山頂の初代城主は、村上武吉で、天正の初期に伊予水軍の陸地部への勢力拡大の為、築城されたと伝えられています。
その後、この城は幾変遷をくり返し、天正15年(1587)に、福島正則の居城となりました。
おそらく正則の手によって相当立派な城らしいものに完成されたものと考えられます。
城主の館は、「お屋敷」にあり、その周囲は堀や土手で守られ、更に家臣の館が並ぶ堂々とした平山城であった。
福島正則は、越智郡以東十一万石を与えられ、賤ケ岳七本槍の一人で有名です。
唐子山々頂には、むかし福島神社があったが、今は春日神社に合祀され、福島さんと呼ばれている。
その後、池田伊予守が入城したが、病死した為、小川土佐守裕忠が城主となった。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍に味方し敗れて為、領地を没収された。
<筆者:脇屋義助公廟の奥に墓があります>
逆に、関ヶ原で家康に味方した藤堂高虎が大洲、宇和島方面の七万石、更に東予一円を賜り、二十三万石の大きな大名として、この国分城へ入った。
しかし、高虎は交通に不便で、地形的にも発展性のない国分城をすて、今治の海岸へ城を移し、オランダ式の築城法をとり入れ堀に海水をひくなどして、慶長9年に完成しました。
今治城完成と同時に国分城は廃城となった。
この時に国分城から、資材、石垣をとりこんで運んだが、その跡が、今も所々に残っている。
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
44.唐子山古墳群
国分寺の裏山、海抜105mの唐子山を山頂として四方に広がる丘陵上は三基の前方後円墳をはじめ、弥生終末期から6世紀後半にいたる約300年間の土壙墓、円墳、粘土郭など百基以上の分布する県下第一の古墳群であった。
その内、治平谷の古墳は、埴輪を伴う初期横穴式古墳の例として注目された。
尚、いくつかの古墳は古墳公園に復元保存されている。
発掘では多くの埋葬様式や、その変化を知ることができ、出土品では、各期の土器の他、当地方では珍しい環頭太刀、内行花文鏡などがあった墳墓は、木棺直葬で石積のない円墳や土壙墓など比較的簡素で素朴なものが多かったようである。