水に浮かぶ今治城です。水面に風が渡って城郭を揺らします。
三重の堀に海水を引き入れた海城です。高松城、中津城と併せ「日本三大水城」と呼ばれており、現存する内堀は潮の干満で水位が変わり海水魚が泳いでいます。
脆弱な地盤(砂浜)の上に築かれた高い石垣(日本初)です。
本丸の外側を多門櫓(長屋状の櫓)で包囲(日本初)しています。
今日はこちらの門から行きます。
山里櫓下です。
天守閣を見ながら石段を上がります。
門を潜ります。枡形(四角形の広場を伴う城の出入り口)に二重の城門を設ける(日本初)設計です。
今治城を造った藤堂高虎騎馬像です。築城の縄張りを巡視している姿だとか。
寺院の五重塔のようなシンプルな形式の「層塔型天守」(日本初)です。この形式は工期が短く費用が安く造れるそうです。このように、城造りの名手と呼ばれた藤堂高虎が数々のアイデアと技術を用いて造った城で、以降江戸時代の初期に各地で造られた近世城郭のモデルとされました。
現在の天守は、昭和55年(1980)に今治市政60周年を記念して再建されたものです。
説明板があって興味深い記述があります。小学校の授業で聞いたことを思い出しました。「藤堂高虎は徳川家康に信任され伊勢の津に転封加増されたが、天守閣は家康から丹波亀山の築城を命じられた時献じて亀山城に移築した。」 以降この城には天守閣がありませんでした。
天守閣から北側の景色です。山里櫓と内堀の向こうの市街の先に近見山があって、その右手にしまなみ海道を形成する島々が煙っています。
本丸広場の藤堂高虎像です。
目を上げると、今治港と大島です。
南側の風景です。中央奥に太平記の舞台となった世田山・笠松山の山塊、手前には長曽我部元親に滅ぼされた霊仙山、その左には福島正則の居城があった唐子山があります。その手前には、藤堂高虎の後今治を治めた城主久松一族の墓地があります。
今日は目的を持ってやって来ました。先日私の記事にコメントを頂いた地元の方から紹介された、今治城勤務の学芸員に会う為です。
残念ながらその方は昨年4月に和歌山城に転勤されたそうですが、現在勤務の学芸員の方に対応して頂きました。私の質問、「深川の霊厳寺にあると書かれていた『第7代今治藩主久松定剛の墓石の位置』を知りたい」に対して、懇切丁寧に写真10数枚を用いて教えて頂いただけでなく、その10数枚の資料写真のコピーまで頂きました。大変お世話になったのです。
帰京したら確認に行くつもりです。