今、学習障害に関する本を読んでいる。
ちょっと興味があったので。
というのは、周りにアスペルガーだの、自閉症だの、
ディスレクシアだの、ADHDだの、Central auditory disorder
だのって、専門機関から診断された子どもたちがいて、行動を
観察する機会があるので、いったいそういう子供たちはどういう行動
パターンを持ち、どういう風にアプローチしたらポジティブな
結果がもたらされるのか、親はどういう立場にあるのか、
どんな環境におかれているのか、知りたいという理由。
わたしが小学生くらいのときだったら、きっと「問題児」
「頭が悪い」「変な子」とかで片付けられていたに違いない。
でも、今は発達心理学の研究が進み、調査が進められ、
いろんな方法論が確立されているようだ。
ある意味いいことだと思う。そういう子供が救われる受け皿
ができたのだから。
でも、反面、少なくともここオーストラリアでは安易な
ラベリングが行われているような気もする。
ベンジャミンの学校で、ある女の子が「自閉症傾向がある」
と言われ、専門家の診断を受けるようにと言われた。
まだ3歳だよ?
小さいうちは、なんとも言い切れない部分があると思うし
発達途上ということで、一風変わった行動も寛容に受け入れ
見守る態度も必要なんじゃないのかなぁ?と思う。
しかし、早く手を打つことで、親が曖昧なまま悩まなくても
いいという長所もあるので、なんとも言えないけれども。
それにしても早急な結論というのは、あまりよろしくない。
ま、それはさておき、子供と親というのは切っても切れない
関係にある。
子供がよく育てば親はうれしいし、良くなければ、自分が
親失格のような気持ちになってくる。
ベンジャミンが頑なに謝るのを拒否したときに、自分は
親としてきちんと躾けていないのか、わたしの態度が
いけないのか、色々考えた。
ジョナサンのときもそうだったけれども。
学習障害の本を読んでいると、子供の普通とは変わった行動に
対し、親のしつけが悪いだのと、途方にくれている親が
非難の対象になることがよくあると書いていた。
どんなに愛していても、変わった行動をとる子供と向き合って
いるだけでも大変だろうことは察せる。そして親もできる限り
のことはしていると思う。
それでいて、非難されるのだから。本当にそれはつらいことだと思う。
でも、こういうことは、多かれ少なかれあらゆるところとで
起こることだとも思える。
問題をもった子供だけでなく、子供というのは発展途上
にあるのだから、完璧でないのが当たり前なんであって、
躾けつつ、受け止めるというのがあるべきスタンスなんだと
思うのだけれど、実際、子供が逸脱した行動をとると
親はカリカリしたり、落ち込んだりする。
子供との関わりは言うまでもなく、いつも考えることは、
自分の心はどこを向いているのか、自分の心は誰を意識
しているのか?である。
自分の面目を保つためにしているのか?
それとも本気で相手のことを思ってしているのか?
どちらも、というのが本当なんだろうけれど。
できれば『自分の面目を保つため』にという比重は
少ないほうがいい。
自分の面目を保つためにしているとしたら、相手は
自分のプライドの犠牲者でしかない。
忘れていけないことだと思う。
ちょっと興味があったので。
というのは、周りにアスペルガーだの、自閉症だの、
ディスレクシアだの、ADHDだの、Central auditory disorder
だのって、専門機関から診断された子どもたちがいて、行動を
観察する機会があるので、いったいそういう子供たちはどういう行動
パターンを持ち、どういう風にアプローチしたらポジティブな
結果がもたらされるのか、親はどういう立場にあるのか、
どんな環境におかれているのか、知りたいという理由。
わたしが小学生くらいのときだったら、きっと「問題児」
「頭が悪い」「変な子」とかで片付けられていたに違いない。
でも、今は発達心理学の研究が進み、調査が進められ、
いろんな方法論が確立されているようだ。
ある意味いいことだと思う。そういう子供が救われる受け皿
ができたのだから。
でも、反面、少なくともここオーストラリアでは安易な
ラベリングが行われているような気もする。
ベンジャミンの学校で、ある女の子が「自閉症傾向がある」
と言われ、専門家の診断を受けるようにと言われた。
まだ3歳だよ?
小さいうちは、なんとも言い切れない部分があると思うし
発達途上ということで、一風変わった行動も寛容に受け入れ
見守る態度も必要なんじゃないのかなぁ?と思う。
しかし、早く手を打つことで、親が曖昧なまま悩まなくても
いいという長所もあるので、なんとも言えないけれども。
それにしても早急な結論というのは、あまりよろしくない。
ま、それはさておき、子供と親というのは切っても切れない
関係にある。
子供がよく育てば親はうれしいし、良くなければ、自分が
親失格のような気持ちになってくる。
ベンジャミンが頑なに謝るのを拒否したときに、自分は
親としてきちんと躾けていないのか、わたしの態度が
いけないのか、色々考えた。
ジョナサンのときもそうだったけれども。
学習障害の本を読んでいると、子供の普通とは変わった行動に
対し、親のしつけが悪いだのと、途方にくれている親が
非難の対象になることがよくあると書いていた。
どんなに愛していても、変わった行動をとる子供と向き合って
いるだけでも大変だろうことは察せる。そして親もできる限り
のことはしていると思う。
それでいて、非難されるのだから。本当にそれはつらいことだと思う。
でも、こういうことは、多かれ少なかれあらゆるところとで
起こることだとも思える。
問題をもった子供だけでなく、子供というのは発展途上
にあるのだから、完璧でないのが当たり前なんであって、
躾けつつ、受け止めるというのがあるべきスタンスなんだと
思うのだけれど、実際、子供が逸脱した行動をとると
親はカリカリしたり、落ち込んだりする。
子供との関わりは言うまでもなく、いつも考えることは、
自分の心はどこを向いているのか、自分の心は誰を意識
しているのか?である。
自分の面目を保つためにしているのか?
それとも本気で相手のことを思ってしているのか?
どちらも、というのが本当なんだろうけれど。
できれば『自分の面目を保つため』にという比重は
少ないほうがいい。
自分の面目を保つためにしているとしたら、相手は
自分のプライドの犠牲者でしかない。
忘れていけないことだと思う。