漫画家の水木しげるさんが亡くなりました。謹んで哀悼の意を捧げます。
私がゲゲゲの鬼太郎に出会ったのは、小学校1年生のときでした。
小学校に入学してまもなく、私は「溶連菌感染症」という難しい名前の病気にかかって、2か月ほど入院したことがあります。大きな病院の小児病棟で、そこには幼稚園から中学生ぐらいの子どもたちが、大部屋で入院していました。
当時、テレビを持ち込んでいる人は少なくて、その病棟に一人しかいませんでした。テレビアニメが始まるときは、みながそこに集まってきました。
そのときに見たのがゲゲゲの鬼太郎だったんですね。
ウィキペディアで見ると、アニメ化されてまもないころだったようです。その後、少年マガジンに連載されていたのを読んでいましたが、天才バカボンとか、人気の漫画があった中で、とりわけゲゲゲの鬼太郎が好きだったというわけではありません。
大人になってからは、妻の実家が境港の近くだったので、お盆や年末年始に、「水木しげるロード」に遊びにいったりもしました。岩波新書でフルカラーの『妖怪画談』(上下)が出たときは、高いなあと思いつつ、購入しました。
今回、テレビの追悼番組で、水木さんの生涯が取り上げられていましたが、妖怪漫画の原点は、戦争体験が大きかったようですね。
徴兵されて送られたのが、ニューギニアのラバウル。激戦の中で、部隊でただ一人生還。すでに、「部隊玉砕」の報告をしたあとだったので、上官からは「なんで一人だけ生きて帰ってきたんだ」となじられたそうです。
その後、マラリアにかかって、意識朦朧としたままジャングルをさまよったり、爆撃で左腕を負傷し、野戦病院で麻酔なしで腕を切り落とすなど、死地をさまよいながら奇跡的に生還。
生と死、軍隊の不条理について、深く考えるところがあったのでしょう。
朴裕河著『帝国の慰安婦』に、慰安婦を「奴隷」というなら、それは兵隊も同じ、というようなことが書いてありましたが、まさにその通りですね。居住の自由、移動の自由、生命を守る自由もない。仕事は敵を殺すこと。性労働とどっちが辛いかわかりません。ただ、生き残った軍人には「恩給」がついたけれども、「軍属」と認められていなかった慰安婦にはそれがなかった。朴裕河は、そこを問題視しています。
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