朝目覚めてみると、幸い、体調はほぼ復調していました。
「大丈夫?」
「ビアン!(大丈夫) 今日はニースに行こうか」
「よかった。今日は一人で歩き回ることになるかと思ってたわ」
カンヌからニースはバスでも行けるのですが、やはり時間がかかるので電車で行きました。
ニースは、カンヌと並ぶ南仏のリゾート地。イタリア国境に近く、歴史的にはイタリアに帰属したり、フランスに帰属したり、を繰り返してきたとのこと。19世紀後半より、多くのイギリス人が保養のためにこの地を訪れるようになり、イギリス人によって整備された海岸沿いの遊歩道は、「プロムナード・デ・ザングレ」(イギリス人の遊歩道)と呼ばれています。
カンヌのクロワゼット通りに比べ、道幅が広く、沿道のリゾートホテル、リゾートマンションも大きくて、立派で、統一感があります。
約1か月前の7月14日、この遊歩道が「パリ祭」の花火見物客で賑わっていたとき、一台の大型トラックが群衆に突っ込み、暴走を繰り返したあげく、銃を乱射、子どもを含む84人が死亡、202人の負傷者を出すという大惨事がありました。犯人はISに心酔していたといいます。
一か月後の今も、事件の現場には、多くの花束、写真、メッセージが飾られ、亡くなった人々の冥福を祈る人の姿が絶えません。
私たちが海岸で写真をとっていると、そばにいたおばあさんが、最初はフランス語で、その後は英語で話しかけてきました。
「私はイタリア人よ。さあ、私が撮ってあげるから、並んで」
ここはイタリアも近いので、北部イタリアの観光客も多いようです。
海岸を散歩した後、プロムナードの一角から出る観光用のプチトラン(オープンエアの小型路上電車)に乗りました。旧市街に向かうようです。
機関車両を含め、4両編成の列車は、旧市街の細い路地にもどんどん入っていきます。運転手も手慣れたもの、減速もせずに、細い路地で対向する車とすれ違います。高台の展望台で10分ほど休憩。乗客はみな観光客です。
周遊が終わり、下車しようとしたとき、後ろの席に座っていた外国人が妻の肩を叩きました。
「これ、プレゼント」
見ると、一枚の銀色のコインです。コインにはロシア文字が書かれていました。
「アイム・フロム・ロシア」
「スパシーバ!」
私はとっさに、大昔習ったロシア語のあいさつ言葉を、頭の中の引き出しから取り出しました。
「ピャーチ・ルーブリ!(5ルーブリ) ヤー・ヤポンスキー(私は日本人です)」
相手は、私がロシア語をしゃべったのでびっくりしていました。
さまざまな外国人と出会えるのが、国際的な観光地の楽しみの一つです。
遅い昼食は、海岸より少し入ったレストラン。妻は、サラダ・ニソワーズ(サラダ・ニソワーズ)、私はラム・ステーキを注文。ワインは赤。
サラダ・ニソワーズというのは、レタスなどの生野菜に、アンチョビー、オリーブ、ゆで卵を添え、オリーブオイルとビネガーをかけた、シンプルなサラダです。
再び電車に乗ってカンヌに戻ってきたのは、午後5時頃。
「まだ時間があるし、語学学校に行ってみたいな」
35年前に、1か月間私が通った語学学校は、ネットで検索してみると、まだ健在のようでした。
最初の1か月間に通ったヴィシーの学校には、中国、北朝鮮、リビア、サウジアラビア、スリランカなど、どちらかといえば発展途上国の、それも政府から派遣されたような学生が多かったのですが、カンヌの学校には、ドイツ、オランダ、スウェーデン人など北ヨーロッパから、バカンスを兼ねてフランス語を学びに来ている若者が多かった。授業が終わった後などは、まだ4月だというのに、水着に着替え、学校に隣接したビーチで日光浴をしたり、バレーボールなどに興じたりしていました。中でもスウェーデンから来た二人の美女がトップレスでバレーボールをしていた姿は、うぶな20歳の私にはまぶしすぎて、正視できませんでした。
一か月の間毎日通った学校も、今となっては場所も定かではありません。地図を頼りに歩いて行っても、なかなか行きつかない。フランスに来て以来、ずっと晴天続きだったのに、珍しく雲行きが怪しくなってきた。
「あきらめようか」
「でも、このあたりなんでしょう?」
「地図上ではね」
「もう少し先まで行ってみましょう」
妻に励まされて5分ほど歩いたところに、学校はありました。
Collège International de Cannes
当時、旧市街の一人暮らしのおばあさんの家にホームステイし、そこから毎日バスで通っていたため、駅や市の中心部から学校に歩くということはほとんでありませんでした。道に記憶がなくて当然かもしれません。
校舎は改修や増築がなされたと思いますが、赤い屋根にクリーム色の外壁は昔のままです。
「なつかしいなあ」
もう授業は終わっている時間なのでしょう、キャンパスは閑散としていました。学校のすぐ南には鉄道が走り、海岸に出るには、線路の下の狭い通路は、頭をかがめてくぐらなければなりません。その通路も昔のままでした。
当時の思い出が、いろいろよみがえってきます。
一人のスウェーデン人の男性と親しくなり、当時も世界でも先進的と言われていた福祉政策について尋ねると、
「税金が高すぎて、暮らしにくいよ。特に企業はどんどん外国に行っちゃう」
福祉政策が、必ずしも国民には評判がよくないことを知り、意外に思ったものでした。
遠くのほうで黒雲がむくむくと湧き上がり、雷鳴がとどろき始めました。
「雨が降りそうだね。早く帰ろう」
帰りは、バスに乗りました。プロムナード・デ・ザングレで降り、ホテルに向かう途中で雨が本降りになりました。あまりお腹がすいていないので、夕食はブーランジェリー(パン屋)でパンを買って、ホテルで食べることに。
「そういえば、まだ明日の宿を決めてないよ」
「ディジョンがいいんじゃない」
娘が学校に通っている街も見てみたいし、最後の晩にもう一度娘といっしょに夕食をすることもできるので、そうしました。
ホテルからネットで予約。娘にもディジョンに泊まる旨、連絡を入れました。娘からもすぐに了解の返事が来ました。翌日の朝が早いので、この日も早めに床に就きました。
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