写真:ジャン=ジャック・ルソー
「人は誰でも、人を殺してはいけないという良心を持っている」
では、人間は最初からそのような「良心」をもっていたのか。
文明化される前の人間について、哲学者たちはいろいろな想像をしてきました。
イギリスのホッブズは、「万人の万人に対する闘争」といって、絶えざる戦争状態にあったと考え、それを改善するために、社会ができ、法律ができたと考えた。
一方、フランスのルソーは、自然状態の人間は穏やかであって、争いや戦いは、社会や文明が発生してから生じると考えた。
どっちが正しいのかはよくわかりません。
ヒト、この不思議なる動物~殺し合い
わかっているのは、文明社会になってから、人々は絶えず戦争を繰り返し、大量の人々を殺してきたということ。これが今でも変わっていないのは、ウクライナ、イスラエル、イラン、ミャンマーなどで現在進行中の戦争や内戦を見れば明らかです。
一方で、平和な地域(たとえば日本)では、みな、「人を殺すのは悪いことだ」という共通認識をもっている。
「人を殺すのは悪い」という良心は国内向けのもので、対外的にはそのような良心は発動しないのか。
そもそも、国内ではなぜ「人を殺すのは悪いことだ」という認識(良心)ができあがったのか。
殺人の理由はさまざまです。
怒り、憎しみ、嫉妬、金銭欲…
そのような感情にまかせて人を殺すと何が起きるか。殺された人の親族や関係者は「報復」を考えるでしょう。殺した者は報復から逃れなければならないし、自分が属する社会(共同体)にいずらくなるでしょう。また殺人が横行すれば、社会は不安定化し、だれにとっても住みにくくなります。
そんな事情があるため、人は「誰かを殺したい」という感情をもっても、その後のことを考えて、「やっぱりやめておこう」という自制心が働くようになったのでしょう。
人は孤立して生きるのではなく、何らかの共同体の中で暮らしています。
共同体には、村落社会とか、部族社会とか、宗教集団とかいろいろありますが、現代では国家が共同体です。
「人を殺さないほうがよい」という価値観は、共同体の安定を保ち、人々が安心・安全な生活を送るためにできあがったものでしょう。
それが、「人を殺すのは悪いことだ」という道徳の成立につながり、あたかも生まれた時から持っている「良心」であるかのように、人々の中に定着したのだと思われます。
一方、共同体が脅かされたとき、人々は共同体を守るために力を合わせます。
共同体がほかの共同体から攻撃されたときは、反撃する(戦争)。そこで「殺人」が行われても、正当化され、さらには賞賛されさえします。
また、共同体の転覆を図る者(テロリスト)や、共同体の権威を脅かすもの(たとえば異教徒)に対しては、厳しく対処し、殺人も辞さない。
共同体の成員は、このような殺人に良心の咎めを感じることはない。
こうして、共同体内では「人を殺すのは悪いことだ」という良心をもちつつ、共同体の利益が脅かされる場面では、その良心が発動しないという構図が生まれたわけです。
やがてその良心(道徳)は、「法律」の形をとります。
以上は、小浜逸郎が『なぜ人を殺してはいけないのか』で展開している論理に沿ったものです。歴史や、これまでの思想史を概観したのちの結論です。
なぜ人を殺してはいけないのか
一方、池田晶子は、中高生向けの哲学書『14歳からの哲学』で別の理屈を提示します。
なぜ人を殺してはいけないのか②
池田は、「殺された人がかわいそうだから」、「家族が悲しむから」、「殺される人は暴力を受けて痛そうだから」、「自分が殺されたくないから」など、簡単に思いつくさまざまな理由が、厳密に考察すると成り立たないことをみた後、「人を殺してはいけない」ことに対する絶対的な理由はなさそうだ、と結論します。
「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」
戦争の例でわかるとおり、殺人が善か悪かは、時代や国や状況に応じて変わる。善悪を判断する基準は、外にはなく、自分自身の内にある。
法律や社会などを基準にするのではなく、自分がよいと判断したことを為し、悪いと判断したことを為さないだけである。
「人は、自分にとってよいと思われることをして、悪いと思われることはしない」
もし、「死ぬ」ということが自分にとってよいことだと思われるのなら、他人を殺すよりも先に、自分が死んでいるはずだ。人を殺す人が、相手を殺して自分が生きているのであれば、殺人者も「人にとっては生きていることがよいことで、死ぬのは悪いことだ」とやはり思っているはずだ。
「人を殺すのは悪いことだ」と思う理由は、自分がまさに生きている(生きることを選んでいる)というところから出てくる。
「ヒトラーみたいな大悪人を殺すのは悪いことではないかどうか、もしも君がそういう極限的な状況に置かれたとしたなら、あらゆる可能性を考え抜いて、判断するんだ。そして、賭けるんだ。君の善悪、君の全人生を、その一つの行為に賭けるんだ」
池田氏は、読者にこのように語り掛けます。
浜田氏と池田氏の論理を比べたとき、私は池田氏のもののほうが納得できました。
生きることを選ぶ側にいる自分は、犬鍋さんのエッセーを読むことで美佐江の視点に少しは近づいて理解できたような気がしました。